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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

「鴎外の思い出」

小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

序にかえて


あやしくも重ねけるかなわがよはひ
    八十四歳一瞬にして

 


 これは今年の正月の私の誕生日に、子供たちが集った時に口ずさんだのです。
 いつか思いの外に長命して、両親、兄弟、主人にも後れ、あたりに誰もいなくなったのは寂しいことですが、幸いに子供だけは四人とも無事でいますのを何よりと思っています。近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄《ろうもう》して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿後《ぼつご》解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡《こんせき》もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう。つくづく人体というものを不思議に思います。

 

 それにつけても、割合に早く終った兄は気の毒でした。何も長命が幸福ともいわれませんけれど、その一生に長命の人以上の仕事をせられたのですから。元来強健という体質ではなく、学生時代に肋膜炎《ろくまくえん》を患ったこともありましたし、その作の「仮面」に拠れば、結核もせられたらしく、それから長年の間、戦闘員でこそなけれ、軍人として戦地に行き、蕃地《ばんち》にも渡り、停年までその職に堪えた上、文学上にもあれだけの仕事をされたのですから、確かに過労に違いありません。よくもなされたと驚くばかりですが、それにつけても、晩年にはもっと静養させたかったと、ただそれだけが残念です。晩年の頃に、たまたま尋ねますと、いろいろ心遣《こころづか》いをなさるので、それがお気の毒に思われてなるべく伺わず、伺っても長坐せぬようにと心懸けたのですから、その頃の動静はよく存じません。尋ねて帰宅してから、いつも主人と古い時代の頃の噂《うわさ》をしたことでした。

 

 主人は兄より二歳の年長です。昔からの名代《なだい》の病人で、留学中に入院したこともあり、多くの先生方にも診《み》ていただきましたが、はかばかしくありません。その病症も不明なのです。帰朝後もその職に堪えられるかどうか案じられたほどで、誰もがいつ死ぬかとばかり思っていました。同僚中で結核の重症といわれた山極《やまぎわ》氏と、どっちが先だろうと較《くら》べられ、知人の葬式に顔を合わす度に、今度は君の番だろう、といわれるのは入沢《いりさわ》氏でした。

 

 それがいつともなく快方に向い、知人の誰より長命したのですが、ただ一切あたりに心を使わず、体の動く間は研究室に通って、自分の思うことだけを心任せにしていたのがよかったのでしょう。家族の者も、主人に心配させるようなことは一切しませんでした。晩年は、世にある方たちには思いも寄らぬ少額の恩給だけでの生活でしたが、家内中の誰も、それを不足だとは思いもしませんかった。いわば主人は心が平《たいら》かだったので、それが保健上何よりの条件と思います。あの何事にも忍耐強かった兄が、身体の衰弱のためもありましょうが、晩年には時々甲高《かんだか》い声も出されたと聞いた時には、身も縮むように思いました。

 

 けれども今になって、詰まらぬことは申しますまい。割合に短命だった一生に、兄はあれだけの仕事をせられたので、それが永久に残るのだと思えば、この上の満足はありますまい。本人も地下で微笑していられるでしょう。謹んで兄の冥福《めいふく》を祈りましょう。

 


ながらへてまたかゝるもの書けるよと
    笑みます兄のおもかげ浮ぶ
命ありて思ひいだすは父と母
    わが背わが兄ことさらに兄
ゆきまして三十《みそ》とせあまりいつもいつも
    忘るゝ間なく君をこそおもへ
[#ここで字下げ終わり]

  昭和三十年盛夏

 

小金井喜美子
 

くずもち

 

 私が八つ位の時です。夏の事で、千住《せんじゅ》の家の奥庭の柿の花の頻《しき》りに降る下で、土いじりをして遊んでいました。お父さんは植木が好きで、かなり鉢数を持っていられました。買ったものはなく、何か由緒《ゆいしょ》のあるものばかりで、往診に行った時、遠い山中で掘って来たとか、不治と思った患者が全快したお礼に持って来たとかいうようなので、目ぼしいのは、お邸《やしき》の殿様からいただいた松の鉢植でした。あまり大きくないのですが、かなりの古木らしく、その幹はうねうねと曲っていました。殿様も初めは大切になさったのが、虫がついたか葉の色もわるくなったので、「これは不用だから持って行ったらどうか、医者の手腕でなおしたらよかろう」と、笑いながら下すったというのです。父は殿様の侍医をしていました。


 尤《もっと》も向島《むこうじま》に住んでお出《いで》なのが、お年寄で食養生をなさるのに御不自由だというので、市中へお移りになるという噂《うわさ》がちらちらある頃でしたから、弱った植木などは、どうでもよかったのでしょう。


 お父さんは大喜びで車で持って帰り、人にも聞いたり、自分でも種々工夫したり、その手入にかかっておりました。千住で郡医となって、向島へは折々御機嫌伺いに出るのでした。開業していましたが、病人が来ても植木にかかっている時は、なかなか手離そうとなさいません。書生《しょせい》に、「先生、もうよほど待たせてありますから」と催促せられて、やっと立上るのでした。お母さんなどは、「ほんとにお父さんにも困るね。いつも土いじりばかりなすって、堅い手をしていらっしゃる。きれいな柔《やわらか》い手を、人はお医者のようだという位なのに」といっておられました。


 それでも松の鉢植はどうやら持ち直して、新芽を吹いた時の喜びは大したものでした。鉢も立派でしたから、それを客間の床の台に据えて、その幹を手で撫《な》でながら、「おれは植木の医者の方が上手かも知れない。蟠竜《はんりょう》というのはこんなのだろう。これを見ると深山の断崖《だんがい》から、千仞《せんじん》の谷に蜿蜒《えんえん》としている老松《おいまつ》を思い出すよ」と仰《おっ》しゃるので、皆その大げさなのをおかしいとは思いながら、ただ「ほんとですね」とだけ申しました。相槌《あいづち》を打たぬのがお気に召さないのでした。


 その外に石榴《ざくろ》の鉢植がありました。石榴は直水《じかみず》を嫌うからと、鉢が大きな水盤に入れてありました。それに実がいくつか附いた時などはお喜びにもなりますが、誰にでも褒《ほ》めてもらいたいのでした。どこからか古い雛段《ひなだん》を出して来て順序よく並べ、暫《しばら》くするとまた並べ替えるのでした。大釜《おおがま》を古道具屋から買って来て、書生に水を一ぱい張らせます。夕方植木に水をやるのは私の役でした。そんなですから私も自然見真似《みまね》をして、小さな鉢に松や南天などの芽生《めばえ》を植え、庭に出る事が多いのでした。


 或《ある》曇り日の午後、ふと出ていらしたお兄様は、杖《つえ》を手に庭の飛石を横ぎるとて、私の木蔭《こかげ》にいるのを見て、「おい、行かないか」と声をおかけになりました。「はい」と御返事をして、そのまま手の土を払って附いて出ました。古びた裏門を出ると、邸の廻りに一間幅《いっけんはば》位の溝《みぞ》があって、そこに吊橋《つりばし》が懸っています。それを下《おろ》して、ずんずん右の方にいらっしゃいます。左はそこらの大地主の広い庭で、やはり溝が廻《めぐ》って、ぽつぽつ家つづきなのです。縦の小路《こうじ》を曲ると宿場の街に出ます。右の方は崩れかかった藁葺《わらぶき》の農家が二、三軒あるだけで、あとは遠くまで畠や田圃《たんぼ》が続き、処々の畦《あぜ》には下枝をさすられた榛《はん》の木が、ひょろひょろと立っています。


 なかなか足がお早いので、兵児帯《へこおび》が腰の辺で絶えず動きます。私は長いおかっぱをゆらゆらさせて、離れまいと附いて行きます。木の狭い橋を渡って、土手へお上りになりました。その堤は毎日通う小学校の続きになるので、名高い大橋に対して小橋という、学校の傍の石橋の下《しも》になって、細い流《ながれ》が土手下を通っています。私は近くを散歩なさるのかとばかり思って、傍へ寄って、「お兄さん、遠くまでいらっしゃるの」と聞きました。大好きなお兄様ですけれど、何だか遠慮で、あまり話などはしないのでした。それまで何も仰しゃらなかったのが、「いや」と一言だけで、左へむけてお歩きになります。この辺はちょっと家がありますが、また両側に何もない長い長い土手が続くのです。あまり通る人もありません。私は心細くなりました。お母さんにお断りもしないで、不断著《ふだんぎ》のままで外へ出たのを、叱《しか》られはすまいかという心配と、穿《は》いているぽっくりという下駄《げた》、赤塗の畳付《たたみつき》で綺麗《きれい》な鼻緒がたって、初めは他所《よそ》ゆきだったのが、古くなってすっかり減ってしまい、庭下駄になっていましたが、昔ですから塗が堅く、赤色もそれほど剥《は》げてはいませんかった。その前鼻緒が弛《ゆる》んで来てその歩きにくいこと。それをお話するにはお兄様の様子が、どうもいつもと違ってつぎほがないので、我慢して指でまむしをこしらえて、とぼとぼ附いて行きました。


 田圃の中には幾坪か紅や白の蓮《はす》が咲いて美しいのも見えますが、立止りもしませんかった。半道ほども行った頃に、大橋際の野菜市場の辺から、別れた土手と一緒になって、綾瀬《あやせ》の方へ曲ります。その岐路に掛茶屋《かけぢゃや》がありました。「くずもちあり」とした、小さな旗が出ています。土手からすぐに這入《はい》られるようになっていても、土手下から普請の時の足場のようにして、高く高く掛出しになっていました。客は誰もおりません。
「休もう。」
 お兄様がお上りになったので、私も上りました。煙草《タバコ》を吸っていたお婆さんは立上って、
「いらっしゃいまし。」
 私の脱いだ下駄を見て、「お嬢さん、さぞ歩きにくかったでしょう。ちょっと直して上げましょう。」
 私は嬉《うれ》しくて、「どうぞ」とたのんで安心しました。丸太を組んで縄で結《ゆわ》えた手摺《てすり》に寄って眺めますと、曇っていてもかなり遠くまで見えます。田圃は青々と濃い絵の具で塗ったように見え、農夫たちが幾人か、起《た》ったり蹲《しゃが》んだりするのは田草取りなのでしょう。処々に水が光っています。隅田川《すみだがわ》も見えはすまいかと、昔住んだ土地がなつかしくて見廻しました。綾瀬を越して行くと向島《むこうじま》の土手になって、梅若《うめわか》や白髭《しらひげ》の辺に出るのです。お兄様はと見返ると、板張《いたばり》に薄縁《うすべり》を敷いたのに、座蒲団《ざぶとん》を肩にあて、そこらにあった煙草盆から火入れを出し、横にしたのを枕《まくら》にして、目を閉じて寝ていらっしゃいます。私は目の下に吹井戸《ふきいど》のあるのに気がついて、行って見たくてなりません。そっとお兄様の傍へ行って、
「きれいな吹井戸が下にありますが、見て来てもようございますか。」
 聞きましたら、目を閉じたまま、「ああ行ってお出《いで》」と仰しゃるので、喜びはしましたが、お婆さんが鼻緒を直していますので、履物《はきもの》がありません。
「吹井戸を見たいのだけれど」といいましたら、お婆さんはそこに脱ぎ捨ててある草履《ぞうり》をさして、「それを穿いていらっしゃい。滑りますよ」といいます。


 足の倍もあるのをはいて、丸太を段にした狭い坂をそろそろ下りて行きます。古い井戸側は半分朽ちて、まっ青な苔《こけ》が厚くついていて、その水のきれいなこと、溢《あふ》れる水はちょろちょろ流れて傍の田圃へ這入ります。釣瓶《つるべ》はなくて、木の杓《しゃく》がついていました。胡瓜《きゅうり》が二本ほど浮いて動いています。流には目高《めだか》でしょう。小さな魚がついついと泳いでいます。水すましも浮いています。天気つづきで田にはよく稲が育って、あちこちで蛙《かえる》がころころ鳴いて、前に長く住んだ向島小梅村の家を思い出しました。いつまでも飽きずにじっとしていましたら、上から「おい、おい」とお呼びになります。「はい」と答えて、急いで上りましたら、
「葛餅《くずもち》が来たよ。お食べ。」
 お婆さんの傍にある手桶《ておけ》の水で手を洗い、さて坐って見ますと、竹箸《たけばし》が剥《は》げて気味がわるいので、紙で拭《ふ》いて戴《いただ》こうとして、「お兄さんは」と聞きますと、
「おれはいい。それもお食べ」と、お茶を飲んでいらっしゃいます。「まさか」と思わず笑いました。家を出てから初めて笑ったのです。葛餅はそれほどおいしくもありませんでした。


 暫くしてから、「そろそろ帰ろうか」と仰しゃるので、「それをお土産《みやげ》にしたらどうでしょう。」
「そんなら、もう少し足して」と、買い足して、経木《きょうぎ》に包んでくれたのを、ハンケチに包んで持ちました。


 下駄は穿きよくなりますし、お兄様は物を仰しゃるし、何だか足も軽くてよい気持でした。帰りは土手の左手遥《はる》かに火葬場の煙突が立っていますが、夜でなければ煙は見えません。お兄様の機嫌もよいようなので、
「さっきのあそこからは、向島の方は見えないようですよ。曇っているせいかしら。」
「見えないかも知れない、曲っているらしいから。今度は堀切《ほりきり》の辺へ行って見ようね。」
「私には歩けないでしょう。」
 そんなことをいい合いました。
 やがて家へ近寄りますと、叱られはすまいかとびくびくしていました。裏門口に立っていらしったお母さんは、「あ、お散歩のお供をしたの。よかったね。」
 お兄様は家へ這入っておしまいになりました、私は包を、「はい、おみやげ」と出しました。
「何なの。」
「葛餅ですの。」
「まあ、そんな風をしてあそこまで行ったの。あなたまでどこへ行ったかと案じて、さっきからここにいたのだよ。よかったね」と仰しゃいました。


 夜食後に四角なのを三角に切って、皆で分けて食べましたが、お父様は、「おれは川崎の大師《だいし》で食べた事があるよ。そこが本家だといっていた。」
 お母様は、「それで思い出しました。亀井戸《かめいど》の葛餅屋は暖簾《のれん》に川崎屋と染めてありました。柔いからお祖母《ばあ》様も召上れ。」
「有難う。だがこれはお国のと違って黄粉《きなこ》がわるいね。」
 またお祖母様のお国自慢と皆笑いました。お兄様はやっと思い出したらしく、「そうだ、遠足して池上《いけがみ》の本門寺《ほんもんじ》の傍の古い家で弁当を遣《つか》って休んだ時、友達が喜んで食べたっけ。由緒《ゆいしょ》のあるらしい古い家だった。」
 何ならぬ品も静かな夜の語り草となったので、お土産に持って来た私はにこにこ笑っておりました。


 お兄様は早く大学を卒業なすったのですが、まだ若いから何か今一科勉強したいとお思いになっても、経済上の都合もあってそうもならず、陸軍へ出たらと勧める人もありますが、同級生が貸費生《たいひせい》としてはや幾人か出ているのに、階級のやかましい処へ今更どうかともお思いになるので、お気の毒にも思案に余っていらしったのでした。ここに書いたのはその頃の或半日の事でした。

 

赤インキ

 森の家が向島小梅村に住んでいたのは、明治十二、三年頃ですから、兄は十七、八、私は十ほど年下で七つ八つ位でしょう。その頃兄は頻《しきり》に水墨画に親しんでいられました。私の学校通いに被《かぶ》ったあじろ笠《がさ》に、何か画《か》かれたのもその頃でしょう。どうも先生に就《つ》かれたようには思われませんから、何かお手本を見て習われたのだと察します。お画きになるのは休日の静かな午前などで、その絵は重《おも》に四君子《しくんし》などでした。とりわけ蘭《らん》が多く、紙一ぱいに蘭の葉の画いてあるのもありました。種々な絵の中に、牧童が牛の背に乗って、笛を吹いている顔が可愛らしいので、何枚も画いてもらい、「もっと可愛くして頂戴《ちょうだい》」といって笑われた事もありました。


 程近い旧藩主の邸内に、藩の人たちが御末家《ごばつけ》と呼ぶお家がありました。御親類つづきなのでしょうか、若い美しい御後室《ごこうしつ》と幼い姫様とがお住いでした。綾子様《あやこさま》、八重子様《やえこさま》と申すのですが、皆おあや様、お八重様といいました。父が御診察に伺った時、飾ったお雛様《ひなさま》を拝見して来て、「実に見事なものだよ。御願いして置いたから拝見にお出《い》で」ということなので、母と一緒に伺いました。お仮住いなので広くはありませんが、床の間に緋毛氈《ひもうせん》をかけた一間幅《いっけんはば》の雛段は、幾段あったでしょうか。幾組かの内裏雛、中には古代の品もありました。種々の京人形や道具類がぎっしり並んでいて、あまり立派なので、私は物もいわずに、ただ見詰めておりました。


「よくこれだけのお品を、お国から傷《いた》めずにお持ちになりましたこと。」
「私どもがそこに住んでいましても、蔵の品はいつか知らぬ間に減るばかりで、土地を離れたらどうなるやらと、この子もいる事ですから、こんな手狭《てぜま》なのに送ってもらいました。」
「さぞかしお荷造《にづくり》が大変でございましたでしょう。皆よくわかった人たちばかりで、悪い事などいたしますまいに。」
「いいえ、そうでもございません。或朝ふと気がつきますと、金蒔絵《きんまきえ》の重箱が、紐《ひも》で縛って蔵の二階の窓から、途中まで下《おろ》しかけてありました。きっと明るくなったので止《や》めたのでしょう。」


 御後室は、にっこりお笑いになりました。人の心のとかく落附《おちつ》かぬ頃、御主人はお亡くなりで、よくお世話する人もなかったのでしょう。その頃御本家では、葵《あおい》の御紋を附けていられた夫人がお亡くなりで、お子様もなく、寡居《かきょ》しておられました。藩出身で今は然《しか》るべき地位にある人が、「ちょうどお似合に思われるから、お後添《のちぞえ》に遊ばしたら」とお勧めしたそうでしたが御承知にならず、あや子様は何かと人の口がうるさいからと、丈《たけ》なす黒髪を切っておしまいになりました。お年は十九なのでした。誰も惜《おし》まぬ人はありません。その小さいお姫様をよく育ててと、御熱心なのは涙ぐましいようでした。長州からお輿入《こしい》れになったとの事ですが、ただ美しいといっても、艶《えん》なのと違ってお品よく、見飽きないお姿でした。美しいものの好きな母は、いつも歎称しておりましたが、後年兄の嫁をという時に、「おあや様のような方はないものかしら」といって、父に笑われました。


 お白酒をいただき、下の段にあったお道具を下さったのを持って帰りました。机の上に並べましたが、ほかには何もありません。
「お雛様でなくても、何かあった小さい品を、詰合せにして持って来ればよかったわね。」
 祖母はつくづくいわれました。森は小藩の医者の家で、質素に暮していたのでしたから、東京へ出るといっても、少しの荷物しかありません。家内中戦《いくさ》にでも出るような意気込《ごみ》なのでしたから、お雛様を飾ろうなどとは、夢にも思わなかったのでしょう。
「お兄さんにお雛様を画いておもらいなさい」といわれてお願いしましたが、「そんな絵は画けないよ」といわれました。それでもとうとう画いてもらったのを壁に針で止め、桃の枝を探して生けましたら、母が豆妙《まめいり》を造って下すったので、やっと御雛様らしくなりました。


 庭の菖蒲畑の花が綻《ほころ》ぶ頃でした。私は新しい単衣《ひとえ》を造って下すったのを著《き》て見ました。そのままじっとしてないで、縁先の下駄を突《つっ》かけて、飛石づたいに菖蒲畑の傍まで来ましたら、生垣《いけがき》を潜《くぐ》って大きい犬が近寄って来ました。その時つぶてが、いきなり縁先から飛んで来て、私に当ったと思ったら、赤インキの壺《つぼ》でした。蓋《ふた》が取れて、インキは私の上前《うわまえ》一ぱいにかかったのです。「あ」という声が三個所から起りました。一番には私、次は縁に立ってこっちを見ていられた母、次は縁で机に向っていられたお兄様でした。私は呆《あき》れて泣きもしませんでした。お兄様は立上って、
「わるかったね。よくそこらを荒す犬が来たから、机の上の物を手当り次第に投げたら、運わるく赤インキだった。新しい著物だと喜んでいたのに可哀《かわい》そうに。」
「なに粗末の品だからいいよ。」
 母は何気なくいわれました。粗末でもなかなか衣類など新調するのではありませんから、さぞ困ったと思われたでしょうが、何があるのとも仰しゃいません。兄上には遠慮していられるのです。何品でしたか、鼠色《ねずみいろ》で一面に草花の模様でした。袖口《そでぐち》だけ残して、桃色の太白《たいはく》二本で、広く狭く縫目《ぬいめ》を外にしてありました。
「ほととぎす殺しという所だね」と次兄のいわれましたのは、後年その話の出た時でした。それは殿の愛妾《あいしょう》ほととぎすを憎んで、後室が菖蒲畑の傍で殺すという歌舞伎狂言でした。立っていたのでインキは流れて裏には沁《し》みず、裁縫の器用な祖母が下前《したまえ》と取りかえて、工夫をして下すったので、また著られるようになりました。


 兄はその時写生をしていられたのです。松に石灯籠《いしどうろう》の三つもある庭を、正面から斜面から、毛筆で半紙に幾枚も画かれたのでした。一枚は貰《もら》って置きましたが、いつの間にか見失いました。遠い昔のお話です。

衛生学

 私と兄鴎外《おうがい》とは年が十ばかり違いますから、物心のついたころは十五、六でしたろう。もう寄宿舍に入っていられました。西《にし》氏のお世話になられたのはその前です。私の記憶には何もありません。母や祖母がお国の話をする時に、梁田《やなだ》、水津《すいつ》、大野などの姓を聞くと、西氏の御親戚《ごしんせき》だと思う位でした。後に私は祖母に連れられて、西氏の三十間堀《さんじっけんぼり》のお家へ泊りに行きました。夫人(石川氏)は佐佐木信綱《ささきのぶつな》氏の歌のお弟子でした。


 西氏が前に家塾育英舍を開かれた時の通規に、「読書はなるたけ黙読せよ。昼日は時ありて朗読すとも可なり。唯隣座の凝念思索の妨《さまたげ》をなすことを得ず」「人の傘笠《さんりゅう》を戴《いただ》き、人の履物をはくことを許さず。紙筆《しひつ》、硯机《けんき》、煙管《キセル》、巾櫛《きんしつ》の類より、炉中の火、硯池《けんち》の水に至るまで、その主の許可あるに非《あら》ずして使用することを許さず」など、事細かなもので、門人ではなくとも置いて戴いて、外に人もいられたのでしょうから、若いお兄様には窮屈だったろうと思います。


 次兄は十一、二歳の頃、漢学を習いに、因州の儒者佐善元立《さぜんもとたつ》という人の所へ通っておりました。出来がよいと直に特別扱《あつかい》にされます。或日塾の祝日に本邸から藩主代理として来られた川田佐久馬氏が、次兄の態度が気に入ったとて話を進め、佐善氏の仲介で川田氏の養子にきまりました。川田氏は元老院議官で西氏ともお役向《やくむき》の知合です。ところが川田氏があまり次兄を愛されるので、あちらの親戚から故障が出て、譲与の契約の削減の事を仲介者の佐善氏から申されました。その態度に憤慨されたお兄様は、「譲与の額の多寡は問題ではない。男が一旦《いったん》明言した事を傍《はた》の者のために左右せられるのは、弟の将来のために頼もしくない」と、直に川田氏を尋ねて破談を申されたのです。その話を父から聞かれた西氏は、
「なぜ早く聞かせなかった。何とか穏《おだや》かな方法もあったろうに、何しろ林《りん》はまだ若いから」といわれました。
 ほんとに兄は若かったのです。


 やがて兄の洋行の時が来ました。その報告に父が伺ったら、西氏はひどく喜ばれて、「己《おれ》も近頃は医者にかかるが、心安くしても相当の謝礼はする。経済上にもよい。専門は何か」と聞かれます。
「何か衛生学とか申しておりました。」
「そうか」と、さも残念そうでした。臨床的な科ならよいと思われたのでしょう。でも過分な御餞別《おせんべつ》を下さいました。


 洋行して帰った時、早速縁談をいわれたのは西氏です。御養子紳六郎氏の姉君、赤松《あかまつ》男爵夫人の長女で登志子《としこ》という方でした。
「小さい時から知っている。林の嫁はあれに限る」といわれるのでした。


 その話は順調に進んで、結婚の翌年男の子が生れました。若い方でしたが、お気の毒な結果になりましたのは明治二十三年の秋でした。そのお子が於菟《おと》さんです。


 そのころ西氏は脳疾で、あらゆる御役を引いて、間もなく大磯《おおいそ》へ引移られました。三十年の一月に大磯で薨去《こうきょ》され、男爵を授けられました。兄が御遺族の嘱託によって、三月から筆を執って『西周伝《にしあまねでん》』を草し畢《おわ》ったのはその年の十月中旬です。


 西紳六郎氏にお子さんがありませんので、赤松家の末男が今西氏の後嗣《あとつぎ》です。それは於菟さんの叔父《おじ》に当る方でしょう。

寄席

 千住大橋《せんじゅおおはし》に近く野菜市場があって、土地の人はヤッチャ場《ば》といいました。その市場の左右に並んだ建物は、普通の住宅と違います。どれもがっしりした二階建で、下は全部が大抵、三和土《たたき》になっていて、住いは二階です。二階は細い千本格子《せんぼんごうし》ですから、外はよく見えますまい。外から内はもとよりのことです。


 市場の賑《にぎわ》うのは朝だけです。近在から集まる農家の人々は、前日から心がけて、洗い上げた野菜を前晩に荷造して車に積上げて、被《おお》いをして置き、夜の明方に荷を引出します。ですから寒中には、霜が荷の上に光るのです。前を引くのは皆屈強な若者たちですが、後押《あとお》しは若い女たちがします。一人ならず二人でもします。ちょいちょい坂もありますから後押も必要なのでしょうし、また毎日土にまみれて働く人々には、町中へ出るというのが楽しみでもあるらしく、女たちは皆小ざっぱりした支度で、足拵《あしごしら》えも厳重に、新しい手拭《てぬぐい》を被り、赤い襷《たすき》をかけて、ほの暗い道を、車を押して来るのでした。


 私の家は北組といって、千住一丁目の奥深いところでしたけれど、まだあたりの白《しら》まない内から、通を行く車の音や人声が聞えます。五丁目から一丁目にかけては、市場へ行く重《おも》な道ですから、当然でもありましょう。北組をすぎて中組にかかると、市場も程近いというので、後押の人の中には引返して帰るのもあります。家にはまたそれぞれの仕事があるのでしょう。


 あちらこちらから集った農夫と、買出しに来た商人たちとで、市場は一杯になります。声高《こわだか》に物をいい交し、あちこちと行違い、それはひどい混雑です。毎朝その市場の人込《ひとごみ》を分けて、肋骨《ろっこつ》の附いた軍服の胸を張って、兄は車でお役所へ通われます。混雑の中を行くために、幾分か時間のゆとりを見て置かねばなりません。少しは廻っても、外に道はなかろうかといいましても、人力車《じんりきしゃ》の通う道はないのです。


 野菜は時節に依っていろいろと違いますけれど、何はどこの家と大抵は極《きま》っていたようです。時には灯が附いてから人の集まることもあります。新蓮根《しんれんこん》の出始めなど、青々した葉の上に、白く美しい根を拡げたのが灯に映《は》えて綺麗《きれい》ですが、それは一、二軒だけです。


 野菜をせるのはなかなか威勢のよいものです。四斗樽《しとだる》ようの物を伏せた上に筆を耳に挟んだ人が乗って、何か高声に叫びますと、皆そこへ集まって来ます。それからは符牒《ふちょう》でしょう、何か互《たがい》にいい合って、手間《てま》の取れることなどもありますが、極《き》まりが附いて皆がそこを離れるころには、また別の方で呼立てます。天気の時は大抵軒下でしますが、雨が降るとどやどやと這入《はい》りますから、広い三和土《たたき》も一杯です。朝の市が済んで、そこらを掃上《はきあ》げて、静かになってから、人々は朝餉《あさげ》を取るのでしょう、出て来た人たちを相手のちょっとした食事の出来る店もあります。腰を掛けて休む店も幾軒かありますが、それは市場を離れて大橋へ行く道の後を田圃《たんぼ》にした辺にあって、並べた菓子類などが外から見えます。そうした家では、どこでも毬餅《まりもち》とか、新粉《しんこ》の餅に餡《あん》を包んで、赤や青の色を附けたのを糯米《もちごめ》にまぶして蒸したもので、その形から名附けたのでしょう。それに混って雀焼屋《すずめやきや》があります。それはこの土地の名物です。小鮒《こぶな》の腹を裂いて裏返し、竹の小串《こぐし》に刺して附焼《つけやき》にしたもので、極く小さいのは幾つも並べて横に刺すので、それは横刺ともいいます。鮒は近在で捕《と》れるのでしょう、大きな桶《おけ》に一杯入れたのが重ねてあって、俎板《まないた》を前に、若い男がいつも串刺に忙しそうです。


 野菜市場のしにせ[#「しにせ」に傍点]に美しい娘があって、長く患っていて、幾人もの医者にかかっても直らぬとのことで、最後に父に診察してもらいたいと、そこのかかりつけの医者から頼んで来ました。父は新しい病家などは好みませんけれど、人力車で迎いに来たので行きました。やがて帰られたので、「何病でした」と誰もが聞きます。美しい娘だったからです。父は、「いや、すぐ直るだろう」と何気ない様子でした。「呼吸器だろう」などと噂《うわさ》をしましたが、間もなく全快して、病家では非常に喜んで、手厚い謝礼をしました。その貰い物で賑《にぎや》かな夕食の時に、兄が、「何病でした」と問いますと、父は笑って、「なに、長襦袢《ながじゅばん》を一枚むだにしたのさ」といわれたばかりでした。


 その美しい娘というのは、虚弱で下剤の利かぬ体質だったために秘結《ひけつ》に苦しんでいましたが、灌腸《かんちょう》を嫌うので治療の仕様もなくて、どの医者も手を引きましたので、父は家人に話して、長襦袢に穴をあけて、それで灌腸器を挿入したところから快通があって、それからずんずん直ったのでした。強情だった娘も、さすがに疲れた時だったのでしょう。それから市場にも病家が出来ました。その後その家の前を通る時には、ここが長襦袢の家だと思いました。


 市場の近くに、寄席《よせ》がありました。小路《こうじ》の奥まった所で、何といいましたか、その名の這入った看板が往来に出ていました。兄は毎日そこを通られるのです。小さいけれど、三丁目にも寄席はありましたが、近いので、顔見知りの人が多いからでしょう、遠い方の寄席へ行かれます。夜一しきり明日の下調べが済むと出かけられるので、なるべく目立たぬ服装をして、雨が降っても平気です。尤《もっと》も乗物などはありません。


 どうしたのか、その寄席へただ一度連れて行って下さいました。入口で木戸番がにっこりして、手磨《てず》れた大きな下足札《げそくふだ》を渡しました。毎朝車で通る人とは知るまいと、兄はいつもいわれますけれど、どうでしょうか知ら。すぐ女が薄い座蒲団《ざぶとん》と煙草盆とを持って来ます。高座に近く、薄暗い辺に座を占めて、すぐ煙筒《キセル》をお出しになります。家では煙筒をお使いになりませんから、珍しいと思って見詰めていました。


 あまり人はおりませんでした。落語はそれほど上手ではないようです、私は始めて聴《き》いたのですけれど。一人二人代ってから出て来たのは、打見《うちみ》は特色のない中年の男でしたが、何か少し話してから居ずまいを直して、唄《うた》い出しました。


小野小町《おののこまち》という美女は、情知らずか、いい寄った、あまたの公家衆《くげしゅ》のその中に、分けて思いも深草《ふかくさ》の少将。

 まあ何んという美声でしょう。薄暗い高座も、貧しい燭台《しょくだい》の光も目に入りません。私はただ夢中で聴きとれていました。なお唄い続けます。


九十九夜《くじゅうくや》まで通い詰め、思いの叶《かな》う果《はて》の夜《よ》に、雪に凍えて死んだとは、少々ふかくなお人じゃえ。

 楽屋へ引込んだ跡で、やっと気が附いたかのように、そこらの客が一斉に拍手を送りました。

 

 兄は「連れて来てよかったね。もう帰ろう」といって、立上られました。まだ跡があるのでしたが、私もそれで十分と思って、人の間を分けて、下足の方へ出ました。
 

原稿

 兄鴎外と一緒に暮した幼い時の話をとのことですから、向島《むこうじま》の小梅村に住んでいた頃のお話でもいたしましょう。明治十年頃のことです。


 父は郷里から出て来た当座、亀井家のお邸のすぐ近くの小さな借家に兄と二人だけで住んでいましたので、私は祖母、母、次兄と後からそこへ来たのです。父は毎日お邸へ診察に出かけ、後は近所の知り合の病人を見るくらいのものですから、至って暇でしたが、家には庭がないので、好きな土いじりが出来ません。手狭《てぜま》で診察室もないのですから、どこかもう少し広い所をと探して、小梅村の家を見つけたのでした。


 その家は五間ぐらいでしたが、庭が広くて正面に松の大木があり、枝垂《しだ》れた下に雪見灯籠《ゆきみどうろう》がありました。左と右とにも松があって、それぞれ形の違った石灯籠が置いてありました。それが大変父の気に入ったので、引込み過ぎて不便なのも厭《いと》わずそこに極《き》めました。表門の脇《わき》には柳の大木があり、裏には梅林もあって、花盛は綺麗《きれい》でした。後大正六年に兄がその旧宅地を尋ねて見た時に、庭園の形が残っていて、雪見灯籠もまだあった由が日記に見えています。


 家の右隣は農家の畑地でした。左隣には大きな池があって、人の鯉屋《こいや》と呼ぶ家がありました。そこには気の少し変な中老の女がいて、お釜《かま》を洗って底の飯粒を寄集《よせあつ》めては、「おいしい、おいしい」というのが聞えるということでした。


 その頃兄は学校の寄宿舎でしたろう。次兄と私とは小学校で、私はまだ小さかったのですから、寂しい田圃《たんぼ》の中の道を通うのに、雨降りの日など、いつも祖母に送ってもらいました。風呂敷包《ふろしきづつみ》を斜に背負い、その頃よく来た托鉢僧《たくはつそう》のような饅頭笠《まんじゅうがさ》を深々と冠《かぶ》り、手縫いの草履袋を提げた私の姿は、よほど妙であったらしく、兄たちは菌《きのこ》のお化《ばけ》だとか、狸《たぬき》のお使いだとかいって笑いました。


 その笠に画いた墨絵は兄の筆でした。兄はよく四君子《しくんし》を画いたり、庭を写生したりしたので、童子が牛に乗って笛を吹いている絵を殊《こと》によく画きました。それがかわいいので、よくねだって貰《もら》ったものでした。明治四十四年に寺内《てらうち》陸軍大臣が引退せられる時、部内の高等官一同の贈物に、牛に乗った童子の銀製を選んだのは兄でした。


 父は口数の少い方で、患者に対しても余計なことは申しませんが、親切なので、その人がらを好む患者がつぎつぎと知人を紹介して、だんだん病家は殖《ふ》えるのでした。その頃向島にも医師会が出来て、おりおり寄合《よりあい》があり、扱った珍しい患者とか、その変った容態などを代る代る話合うことになりましたが、父はそれを非常に苦にして、「実に困ってしまう。己《おれ》は皆も知っている通り口下手《くちべた》だからなあ」といいます。


 その時母は申しました。「それでは林《りん》に相談してみましょう。何とかよい考えがあるかもしれません。」
 その頃兄は、土曜日ごとに家へ帰って来るのでした。年はまだ十七、八歳でしたろうか、両親は頼もしいものに思って、何事も相談するのでした。
「何かよい考《かんがえ》はないかねえ。お父様は今までにそんなことに馴《な》れていられないから、ひどく苦にしていらっしゃるのだが。」
 そこで兄は、様子を父から聴いて、二、三枚の原稿を書きました。
「こんなことではどうでしょう。私の考違いがあったら直します。」
 父は喜んで、「いや結構だろう。随分どうかと思われるようなことをいう人もあるのだから。自分の考も少し混ぜて話すとしよう」といいました。


 やがてその日が来ました。何んだかそわそわして落附けませんかった父は、夕刻機嫌よくお帰りになって、「よかったよ。なかなか評判がよくて、己は面目を施したよ」とのことでした。


 次の土曜日には、父は朝から、「今日は林に好物を御馳走《ごちそう》してやろう」といって、兄の帰りを待っていられます。私たちはお相伴《しょうばん》が出来るので大喜びです。
「この間はありがたかった。お蔭《かげ》で工合がよくて、会長から、森さんあなたがあんなにお話が上手だとは思いませんかった、またどうか話して下さい、といわれたよ。」
 父のそうした話を聞いて、「それはお父様のお話し方がよかったのでしょう。あんなことでよければ、いつでも間に合わせます。お話になりそうなことは気を附けて置きましょう」と兄は申しました。


 その日は家内中晴やかな気分で、御馳走をいただぎました。
 それからいつでしたか父が、母に向って、「やっぱり林は普通の子ではないねえ。己たちの子としては出来過ぎている。どうか気を附けて煩《わずら》わぬようにしなければならないよ」と語られるのを聞きました。

書物

 向島に住んで小学校にも通い馴《な》れた十歳位の頃でした。日曜日に本郷《ほんごう》から帰って来られたお兄様が、床脇《とこわき》の押入れの中に積重ねてあった本の中から一冊を抜出して、「こんな本を読んで見るかい」とおっしゃいました。


 和綴《わとじ》のかなり厚い一冊物で、表紙は茶色の熨斗目《のしめ》模様、じゃばらの糸で綴じてあり、綴目の上下に紫色の切れが張ってあって『心の種』と書いてあります。橘守部《たちばなもりべ》の著なのです。今までそんな形の本は見たことがないのですから、嬉《うれ》しくってたまりません。「わたくしに解るかしら」と、おかっぱ頭をかしげました。「これは歌の御本ね。『古今集』の序に、やまと歌は人の心を種として、よろづの言《こと》の葉とぞなれりける、とあったもの。」
「何だ、そんな事を知っていたのか。」
 知っていたというのではなく、何でも手当り次第に見るのですから、ふっとそれを思出したのです。
「これはお祖父様《じいさま》の御本だったのだよ。」
「では大切にしましょうね。」
 大切にはしましたけれど、面白いとは思いません。こんな本もあると、机の上の本たての飾のつもりでいました。


 次に見せて下すったのは『宇津保《うつほ》物語』でした。これは絵入で、幾冊もあって、厚い表紙は銀泥《ぎんでい》とでもいいますか、すっかり手摺《てず》れて、模様もはっきりしません。一冊の紙数は幾らもないのでした。仮名書の本は読みつけていましたから苦になりません。家に古くからあった草双紙《くさぞうし》のどこを開けても絵があって、その絵の廻りに本文がびっしり仮名で埋めてあるのを、今頃の子供たちが新聞でも見るように読みつけていましたから。


 見せて下さる本の中には、ひどく古くて、表紙や裏表紙も破れていて、中は歌の題にふさわしい歌の言葉をいくつも並べて、さもさも続けて御覧なさいというように見えるのもありました。
「これは何という御本です」と伺ったら、「題などはどうでもいいよ。古本屋がおまけにくれたのだから」と、お兄様は笑っていられました。
 清輔《きよすけ》の『袋草紙《ふくろぞうし》』でしたか、ひどく大きい本で、中の字は荒いのです。「紙が無駄だこと」と私はつぶやきましたが、お兄様は、そこに朱でいろいろ書入れをなさるのでした。私に見せて下さるばかりでなく、御自分が見たくてお買いになって、その跡を下さるのです。


 博文館の『日本文学全書』や『日本歌学全書』が出るようになってから、手軽に本が手に入るので、次々と買って読みます。木版本は本箱に積んで置いて、折々出して見るのでした。


 女学校の始めの頃に学校で読みましたのは『徒然草抜穂《つれづれぐさばっすい》』『土佐日記』『竹取物語』などで、きっと教科書用に拵《こしら》えたのでしょう、誰にでもやさしく読める本でした。学校も始めはお茶《ちゃ》の水《みず》でしたが、上野《うえの》になり、一《ひと》ッ橋《ばし》に移って行き、その間に校長も先生もたびたび代ります。平田盛胤《もりたね》という若い国語の先生が見えました。平田篤胤《あつたね》の御子孫だそうで、尤《もっと》も御養子とのことでした。『土佐日記』の一節を一わたり講義なすって、「不審のある方は手を挙げて」とおっしゃると、幾人もいない生徒のあちこちから手があがります。注釈本でも見たら一目で解るものをと思いますのに。


 同級に土佐出身の身分の良い家のお嬢さんがいられて、美しいお方でしたが、
「かみがらにやあらん、くにびとの心のつねとして、いまはとて見えざなるを、心あるものははぢずぞなん来ける。これはものによりてほむるにしもあらず。」
 このことを先生は気の毒がって、「こんなに書いてありますが」と言いわけをなさるのを、皆笑いました。お家におりおり発作をお起しになる御病気のお母様があったそうで、時間中にお迎いが来ることなどがありましたが、やがてお出《いで》にならなくなりました。


 漢文の先生は背の高い中年の太った方でした。赤いお顔をはっきり覚えています。小森先生とかいいました。御自分で、いろいろの本から抜萃《ばっすい》されたのを仮綴にして配られなどされましたが、この方も間もなくおやめになりました。


 級が進んでから中村秋香《なかむらしゅうこう》先生が見えました。お歳は五十歳位でしょうか、痩《や》せた小柄の更《ふ》けて見える方で、五分刈《ごぶがり》の頭も大分白く、うつ向いた襟元《えりもと》が痛々しいようです。厚い眼鏡の蔭から生徒たちを見廻されます。始めて出られた時、自分が好む本だからと、新井白石《あらいはくせき》の『藩翰譜《はんかんぷ》』を持って来られて、右手を隠しに入れ、左の手に本を持って、生徒の机の間を歩きながら読上げられます。興に乗って、手振り足踏みが盛んになると、私は面白く聞入っていましたが、大抵の人はくすくす笑います。それに黒板に書かれる字がひょろひょろとして、とても読みにくいのを、笑わぬ人はありません。先生には学校が終ってからも長くお附合いしましたが、お手紙も短歌も見事なものでした。白石のものを使われたのは、近世の文章の規範となるものとのお考でしたろう。


 兄の歿後、与謝野寛《よさのひろし》先生のところへおりおり伺うようになった頃、『日本古典全集』が出版になりました。あの赤い表紙はどうかと思いますが、寛先生のお好みのように聞きました。あれは割合に評判がよく、長い間続いて出ましたから、積上げた高さはかなりです。昔の本でしたら、非常な量になりましょう。


 戦争のために疎開する時、活字の本を先に出して、木版本を入れた本箱を後にしたのは、なるべく身近に置きたかったからです。お兄様が洋行をなさる時、女学校入学前の私に置土産《おきみやげ》として下すった『湖月抄《こげつしょう》』は、近年あまり使わなかったので、桐《きり》の本箱一つに工合よく納めてあったのを、そのまま出しました。預け先は親類で、鉄筋コンクリートの大きな蔵でした。衣類家具類なども一緒です。


 後に残した荷物は、近辺一帯の疎開命令でしたから、家の前の往来はただ車の行列で、なかなか順が廻って来ません。やっと約束の日が来る前の晩に、巣鴨《すがも》から本郷にかけて綺麗に焼けてしまいました。翌朝になって、疎開先の目黒《めぐろ》で書入れのある本や、由緒のある本のことを思って残念がりましたが、目黒の家の上も飛行機が毎日通るのですから、ここまで持って来ても、同じ運命になるだろうとあきらめました。


 或日「それ飛行機」というので、急いで地下室に入りましたら、台所の屋根を打抜いて弾《たま》が落ちました。けれども地下室にいましたので、それほど音は聞えませんかった。棚に積重ねてあった瀬戸物類は全部粉砕しましたが、幸いにそれは不発でした。隣家の庭に落ちたのも不発でした。実弾ならば、怪我《けが》位では済まなかったでしょう。誰にも明日の事は分かりませんが、さし当り雨だけはというので、男たちは屋根に上って修繕し、私どもは瀬戸物の屑《くず》をかき寄せるのでした。


 終戦になって少し落ちついてから、荷物が返されたのを見ますと、誰が蔵へはいって始末したのでしょう。あれだけあった『古典全集』が幾らもありません。『文学全書』『歌学全書』など、たびたび見る本は、表紙が破れるので綴じかえて、上にそれぞれ書名を書いて置いたのですが、それも同じことで、幾冊か残っているだけでした。ただ奇蹟とでもいうように、『湖月抄』の本箱だけは無事でした。暗い蔵の中の下積みになっていたので、ただの古本の箱と思って見捨てられたのでしょう。


 その後また幾年も経過して、烈しい世の中の動きにつれて、住所も安定しませんので、いよいよ老耄《ろうもう》した私は、焼け残った本を少しずつ持って、あちこち流転を続けています。

落丁本

 小石川《こいしかわ》の白山《はくさん》神社の坂を下りて登った処は本郷で、その辺を白山上《うえ》といいます。今残っている高崎屋の傍から曲って来て、板橋《いたばし》へ行く道になります。農科大学前の高崎屋は昔江戸へ這入《はい》った目印で、板橋で草鞋《わらじ》を脱いでから高崎屋まで、いくらの里程と数えたと聞きました。


 白山上は団子坂《だんござか》から来た道、水道橋《すいどうばし》から来た道、高崎屋の方から来た道と、三つが一緒になって板橋へ延びています。そこの角の万金という料理屋は大分古いので、昔東北の方から来る人たちは、そこで支度でもしたのでしょう。様子は変っても、戦災前までありました。これは近年のことですが、その万金の側に食料品屋が出来て、屋根一ぱいの看板をあげたのが浅田飴《あさだあめ》の広告で、「先代萩《せんだいはぎ》」の飯焚場《めしたきば》の鶴千代君《つるちよぎみ》の絵でした。「空《す》き腹に飯」という文句がよく出ていました。実物大といいましょうか、どうもよほど大きいようで、どこでもあんなものは見かけませんが。それが下手な絵なので、見苦しいと思いました。


 通りの向いに大丸といって、そこらでの大きな呉服店があって、しっかりした土蔵造りでした。店の前に幅の広い紺の暖簾《のれん》に大丸と染めたのが、いくつか斜に往来へ出ていて、縁にかなりの幅の真田紐《さなだひも》が附いて、石が重りになっていました。その間から這入りますと、番頭が幾人か並んでいて、お客さんはその前へ腰を掛けて買物をするのでした。天井から美しい帯地や反物《たんもの》が頭の上へ下げてあるのは、目新しい品を目に附くようにするのです。何か品をいいますと、後に立っている小僧さんが、元気な声で、「はーい、はーい」といいながら、走って蔵から持ち出して来ます。客の絶間《たえま》もありません。阿部様、土井様、酒井様、亀井様、近くの華族の邸は皆出入です。私どもが曙町《あけぼのちょう》へ移って間もない頃、そこらに火事があって、私の家は高台ですからよく見えます。大丸の棟を火が走ったかと思いましたが、助かりました。何んでも鳶《とび》の者が棟の上に並んで消したとかいいました。そんな旧家は段々に寂《さび》れて、アパート式にもなったようですし、銀行にもなりましたが、いつかその跡もなくなりました。


 そこらに宅の出入の車宿《くるまやど》がありましたが、その親方がいつも、「御前様《ごぜんさま》が、御前様が」といいますから、「御前様とは誰なの」と聞きましたら、「大乗寺の御前様でさあ」と、さもさも知らないのかというような顔をしました。大乗寺の住職というのはよほど敏腕家らしく、宮内省へも出入して、女官なども折々見えるとのことでした。ちょうど吉田屋の裏になります。大事な御得意なのでしょう。


 車宿は通りへ出て一番大乗寺に近く、それこそ傾きかかった三軒長屋の端なのでした。崩れた棟瓦《むながわら》の間から春になると蒲公英《たんぽぽ》が咲きました。どうせ持主も改築するつもりで、うっちゃって置いたのでしょう。その親方は非常に健脚で、遠路を短時間に走るのが自慢でした。遠慮のない大声で物を言いますが、人柄は素朴で、引子《ひきこ》を二人位置き、子供は三人あって、口数の少ない、おとなしそうな妻と睦《むつ》まじく暮らしていました。車を引き込むので土間《どま》は広いのですが、ただ二間のようですから、引子はどこへ寝かすのかと聞きましたら、「二階です」といいます。そう言われて気を附けて見れば、土間から梯子《はしご》がかけてあります。低い屋根ですから、きっと立っては歩かれない位でしょう。その妻が来た時、「今少し広い家へ行きたいのですが、大乗寺が遠くない処と思うのでむつかしいのです」などと話しました。それが、「おやじ、おやじ」というのですが、「おやつ」としか聞えません。それで宅の子供たちは、車屋のことを「おやつ、おやつ」というのでした。


 その妻が急病で死んだ後に来たのは、夫より少し年上らしく、目鼻立はわるくありませんが、額が抜け上ってきつい顔をした女でした。今まで飲むとも聞きませんかったのに、夜分女中が使に出た時などは、差向いで飲んでいるのを見るといいました。或時その女が勘定を取りに来ました。抜け上った額に大きな傷があります。「どうしたの」と聞きましたら、「棚から箱が落ちまして」と、口の達者な人なのに、いつもほど喋《しゃべ》りません。「まあ、危なかったね」といいました。後に女中が、「あれはきっと撲《なぐ》られたのでしょう。何んでもよく喧嘩《けんか》をするそうですから」というのを聞いた主人は、「あの男が、いつの間にそんなになったのか」と驚いていました。いつもそそけ髪で、子供を背負って働いていた先妻の顔を思い出しました。子供たちも人に遣《や》ったか、奉公にでも出したか、見えなくなりました。大分本人の健康もわるくなったらしく、宅へも引子ばかりよこしました。大乗寺への出入もやめたそうで、いつか田舎《いなか》へ帰ってしまいました。僅《わず》か一、二年の間に変れば変るものと、威勢のいい大声を思い出します。


 白山上から坂下の方へ見渡される一町ばかりの処に、古本屋が左右に二、三軒ありました。白山上にあるのはかなり大きく、窪川《くぼかわ》といって、歌集などのよく出ている家でした。私は買物に出た帰りなどに寄って見ます。欲しいと思う本など聞きますと、「ちょっと待って下さい」と、裏のお寺の中に物置でもあるのでしょう、気軽に行って見てくれました。坂を下りた処の店は狭いのですが、年を取った頭の禿《は》げた主人が、にこやかで気安いのでした。そこへもちょいちょい立止りました。あとはずっと奥深く這入って見るような店構《みせがまえ》でしたから、寄った事はありません。そこらは鶏声《けいせい》が窪《くぼ》といいました。近年にそこへ出来た鶏声堂という店は、高島米峰《たかしまべいほう》氏が出していられて、新刊書や教科書類を扱うようでした。何んでも学生たちが立見をして本を汚すと、叱《しか》られるとのことでした。そこは曙町の停留所のすぐ傍、東洋大学の構内へ喰《く》い込んでいました。今の京北《けいほく》中学です。尤《もっと》も電車が通じたのと店が出来たのと、どちらが先だったか覚えません。


 米峰氏はそこは店だけで、店から見える位近い曙町に住居を作られました。四方が道になって高い塀《へい》で囲まれたお家です。ラジオで放送される声はよく聞きましたが、御話はしませんでした。或夏の朝明方、坂の下に立っていますと、米峰氏が来られました。「どちらへ」とお互いに申しまして、「池《いけ》の端《はた》まで」といいましたら、「私も」といわれます。上野不忍池《しのばずのいけ》で催す蓮《はす》の会へ案内を受けたのです。会主の大賀《おおが》一郎氏は縁つづきになるのでした。米峰氏もそこへ行かれるので、御一緒に駕籠町《かごまち》で乗り換えて東照宮下《とうしょうぐうした》で降りました。何の御話をしたかよく覚えませんが、三宅雪嶺《みやけせつれい》氏御夫婦のお話をなすったようです。何でも金婚式についての事で、「あなたは」とお聞きになりますから、「もうすみました」と申しましたら、「やあ」と仰しゃいました。雪嶺夫人の花圃《かほ》さんは私の学校の御出身です。池の蓮は真盛《まっさかり》で、朝風が心地よく吹き渡って、会場には最早大勢の人が集まっていました。乗って漕《こ》ぎ廻らせるために、小舟が繋《つな》いでありました。戦後の食糧事情のため、池の大部分は水田に代えられて、昔の面影はありません。大賀氏は残念がっていられました。今年などはどうなることでしょう。


 その鶏声堂に、中年の女の人が、冬はいつも真綿《まわた》の背負子《しょいこ》を著《き》ていました。不断は何の気も附かない宅の主人が、「あの人は越後《えちご》ではなかろうか」といいますので、顔馴染《かおなじみ》になった時聞きましたら、やはりそうでした。近親という事です。それは越後の風習で宅の母なども毎年修繕してつかいました。亀の子笊《ざる》をふせて幾重ともなく真綿を拡《ひろ》げ、新しいのを上に被せます。よい加減の厚さになると浅葱《あさぎ》などに染めたのを上に被せ、薄い布海苔《ふのり》を引きます。染綿は汚目《よごれめ》の附かぬため羽織と著物《きもの》との間に挟んだり上に背負ったりするのに、べたべたせぬために布海苔を引くのです。


 私の家は坂を上ったすぐ右手にあって、門の内に幾百年も経たらしい松の大木がありました。そこらは山ででもあったのを崩したのでしょう。太い根がすっかり顕《あらわ》れて、縦横になっていてよい腰掛でした。ここらは皆土井家の地所なので、向い側は広い馬場になっていました。低い土手がずっと廻って、そこにも四、五本松の大木がありました。その土手には春は菫《すみれ》が咲き、土筆《つくし》などもぽつぽつ出るので、そこらの子供が這い上っては遊びました。そこをまだ若い土井の息子さんが、友達と一緒に馬を走らせるのが土手の上から見えました。老年になってからのお子さんで、大切になさるのだと聞きました。馬場はまた弓射場にもなっているので、月に幾日か弓袋を持った人が出入して、的に中《あた》る矢の音が聞えます。その人たちの休む仮屋が片隅の二本杉の傍にあって、賑《にぎ》やかな人声もしますが、常は静かなもので雉子《きじ》が遊んでい、夜は梟《ふくろう》の声も聞えます。二本杉は名高いもので、昔何代目かの将軍が、野立《のだて》の時箸《はし》を立てられたのだといい伝えられて、白山上からもよく見えました。門前の松の根に休んでいますと、杉や松の梢《こずえ》を渡る風は颯々《さつさつ》の音を立てて、暑中も暑さを忘れます。人通りもありませんから、夜はよく出て涼みました。


 或夏の夜、そこに休んでいますと、暗い坂の下から歩いて来る人がありました。近寄りましたらお兄様でした。
「まあお珍らしい。さあどうぞ。」
「いや、坂下まで昨夜も来たのだが、今夜も来たからこっちから帰ろうと思って。歩いてここらを通るのは珍らしいよ。ここは涼しいね。」
 ずんずん行っておしまいになりました。吉祥寺《きっしょうじ》の方からお帰りになるのでしょう。馬場はもとより、宅の並びにも門灯の附いているのは一、二軒ですから、月もない頃で、下駄の音がまだ聞えるのに、もう姿は見えません。遠くで梟が鳴いています。いずれ本屋でしょうが、どんな御本がお気に入ったのかと思いました。御手には杖《つえ》ばかりのようでした。


 その後団子坂へ伺った時、聞いて見ました。「この間はどんな本をお求めになりましたの。二晩もつづけてお出《いで》になるのは、よほどお気に入ったからでしょうと思いました。」
「いや、あれは神田《かんだ》の方で買った古本に落丁《らくちょう》があってね。ちょうどその本があそこにあったから、買って来てそこだけ取って補充したのさ。二部は不用だし、向うは商売だから、また相手もあろうと思って、持って行ってやった帰りだった。多分その話はせずに、また誰かに売るのだろう。こっちは話したのだから疚《やま》しくはないがね。」
「そんなお客さんは滅多にありますまい。何の御本でしたの。」
 伺いましたが、「なに」としか仰しゃいませんでした、きっと私などには縁の遠い御本でしたでしょう。
 落丁というので思い出されたのか、その時次のようなお話をなさいました。


 昔下宿をしていられた頃、同じ宿にいた学生さんがひどく本好きで、いつも貸本屋から次々と借りて見るのです。『八犬伝』とか『巡島記《しまめぐりのき》』とか、馬琴《ばきん》の大部のものが多いのですが、それには大抵一冊に二、三個所ずつ絵があるのを、必ず一個所は上手《じょうず》に切り取るので、その頃そんな本の表紙は、浅草紙《あさくさがみ》のようで厚いのに色紙が張ってあるのですから、半紙の薄い中身は糊《のり》で附ければ跡はわからなかったそうです。それをよくも溜《た》めた事、紙の端のそそけたのを裏打《うらうち》をしても、かなりの厚さになるのに、どれだけ読んだのか察せられます。どうするのかと聞いたら、田舎の親に見せるのだといったそうですが、また器用な人で、表紙を附けて綴《と》じるのなどが楽しみでもあるらしく、「そんなことはよしたらよかろう」と、何度いってもやめなかったとの事です。
「好《い》い人なのにどうしてあんな事をしたのか、今はどんな人になっているだろう。同じ本屋から借りるのがいやだった。」
 昔をお思い出しの御様子でした。
「あの頃でしょう、よく合本と分冊との話のあったのは。」
「そうだったね。」


 お兄様(鴎外)は何でも同じ本は重ねてお綴《と》じになり、表紙を附けてお置きになるし、お兄さん(三木竹二《みきたけじ》)は扱いにくいから、別々にして置きたいといって、いつも争いになるのでした。お兄様は後に種々の雑誌を多く寄贈せられるようになってから、それほどでないものまでもきちんと綴じて置かれました。それが山のように溜って、いつまでも日在《ひあり》のお家にありました。


 私もその真似《まね》をして、『しがらみ草紙』などを初号から揃《そろ》えて綴じて、大事にして置いたのです。大正十一年七月にお兄様がお亡くなりになった後で、全集を出すことになって、その合本を平野万里《ひらのばんり》氏が借りに見えました。何だか気が進みませんかったが、たって仰しゃるので、お兄様のためとあきらめてお貸ししました。五十九冊を製本したのを、重たそうに下げて門をお出になるのを見送りました。全集は大正十二年の八月までに七冊出ましたばかりで、あの大震災になったのです。暫くはただごたごたと暮して、何を考えるひまもありませんでした。私の家は山の手で地盤が堅いとかいう事で、瓦《かわら》の一部が落ち、壁に破目が出来た位で、さしたる障《さわ》りもありませんでした。団子坂のお家も無事でした。その後お嫂様《ねえさま》にお目にかかった時、「去年御病気の終りの頃、こんな騒《さわぎ》があったなら、どんなにお気の毒な思いをしたでしょう」と、お話した事を思い出します。


 翌十三年十月全集の第二巻が出ました時、平野氏の書かれた編纂《へんさん》後記に、

本書第一巻を出してより一年有半、蒐集《しゅうしゅう》及整理漸《ようや》く終を告げ、今や本巻並《ならび》に之《これ》に続くべき第三巻を印刻する運びとなれるは編者の最も喜ぶ所なり。如何《いかん》と言ふに其《その》間に昨年の大震大災あり、我が寓《ぐう》亦《また》その禍を免る能《あた》はず、為に材料一切を挙げて烏有《うゆう》に帰せしめたる事実あればなり。当夜我僅に携へ得たる所の鞄《かばん》一個あり。本書の未《いま》だ整理せられざる切抜の一部と仮目次とを容《い》れたり。乱擾《らんじょう》尚全く平ぐに及ばず、剣戟《けんげき》の声鏘鏘《そうそう》たる九段坂上《くだんさかうえ》の夜、公余に編輯《へんしゅう》を続行せし当時を思へば感慨未だ尽きず。


本書の編輯に際して、今は世に珍らしきものとなれる小金井家所蔵の『めざまし草』『芸文』及『万年艸《まんねんぐさ》』の完本、並に友人竹友虎雄《たけともとらお》君所蔵の『しがらみ草紙』の完本を借用し得たることは、如何ばかりか編者の労を軽減したりけん。しかも前者の我蔵本に交りて倶《とも》に焼けしは、我最も憾《うらみ》とする所なり。

 こんなに書いてありますが、それは平野氏の覚え違いで、私のが『しがらみ草紙』なのでした。種々苦心してお集めになったように聞いた蔵書を全部お焼きになったのですから、私のもお相伴《しょうばん》をしたとて愚痴を申すわけにもまいりませんが、それから多くの年月を経た今でも、何か見たいことがあると、平野氏が本を持って門をお出になった後姿を思い出します。
 

レクラム料理

 兄は食物では新しい野菜を好まれましたが、全体にひどい好き嫌いはないようでした。千住に住んだ頃は、川魚が土地の名産なので、市中からの来客にはいつも鰻《うなぎ》を出しますし、誰もがそれを好みました。そんな時兄も相伴《しょうばん》をなさいますが、「自分には中串《ちゅうぐし》を」と必ずいわれました。あまり好物ではないらしいのです。


 牛乳だけはお嫌いのようでした。その頃はまだ手軽にコーヒーも手に入らず、毎朝の出勤前にお飲みになるようにと母がいろいろ苦心をなすって、ブランデーを入れて見たり、砂糖と葡萄酒《ぶどうしゅ》とを入れたりなすってもあまり召上らず、お出かけの跡に色の附いた牛乳が、お机の傍に手附かずにあるのでした。


 弁当の握飯《にぎりめし》のことはいつも話に出るのですが、毎朝母がそれを作られるのを見ますと、焚《た》き立《たて》の御飯を手頃の器に取って、ざっと握って皿に置きます。それに味附けした玉子を入れるのですが、その玉子の中に花鰹《はながつお》を入れます。醤油《しょうゆ》ばかりで、砂糖は殆《ほと》んど使いません。玉子はあまり強く炒《い》らずに、前に結んである握飯の間に挟んで結び直します。始めになぜ器に取るかといいますと、熱いのと、一定の量にするためとです。握飯はいつも二つでした。一つには玉子を、今一つにはめそ[#「めそ」に傍点]を入れます。めそ[#「めそ」に傍点]のことは人があまり知らずに、小魚などといいますが、鰻のごく細いのです。それは肴屋《さかなや》でなくて、八百屋《やおや》が持って来ました。開いて串に刺して、白焼《しらやき》にしてあるのを辛味《からみ》に煮て入れますが、いつまでも飽いたといわれませんのは、きっと油濃くないからでしょう。見ている私は浅草海苔《あさくさのり》をざっと焼いて、よいほどに切って、握飯を包むのでした。何かの都合でお弁当が残った日などは、弟が喜んでいただきました。


 野菜は夏がよいので、茄子《なす》、隠元《いんげん》など、どちらも好まれますが、殊《こと》に豌豆《えんどう》をお食べになるのが見ものでした。高村光太郎《たかむらこうたろう》氏も、随筆で見ますと、豌豆を好まれるようですが、自炊なさるので、筋を取って塩茹《しおゆ》でにしたのを、油や酢で召上るのだそうです。兄のは少し実の入った方がよいので、筋は全く取りません。取れば実がこぼれますから。それを味よく薄目に煮たのを、壺形《つぼがた》の器に入れて膳《ぜん》に乗せます。その豌豆の茎を撮《つま》んで口に入れ、前歯でしごいて、筋だけを引出します。幾度か繰返して、筋だけを器の端に順よく並べられますのを、松葉のようだと、いったものでした。膳の傍には、いつも濡《ぬ》れた布巾《ふきん》があります。指を拭《ふ》くためです。尤《もっと》もこれは壮年の頃のことで、晩年はどうでしたか知りません。日常の食事の時などは傍にいたことはありませんかったから。


 茄子はお好きだったようで、どんなにしたのでも召上りますが、炭火のおこった上に、後先《あとさき》を切って塩を塗ったのを皮のままで置き、気を附けて裏返します。箸《はし》を刺して見て、柔かに通るようになりますと、水を入れて傍に置いた器に取ります。程よく焼けて焦げた皮をそっくり剥《は》ぎ、狐色《きつねいろ》になった中身の雫《しずく》を切って、花鰹《はながつお》をたっぷりかけるのですが、その鰹節《かつおぶし》や醤油《しょうゆ》は上品《じょうぼん》を選ぶのでした。


 大きくて見事な茄子のある時は亀《かめ》の甲焼《こうやき》にします。これは巾著《きんちゃく》などというのでは出来ません。まず縦に二つ割にして、中身に縦横格子形《こうしがた》に筋をつけ、なるべく底を疵附《きずつ》けぬようにして、そこへ好《よ》い油を少し引き、網を乗せた炭火にかけ、煮立ち始めると、蒂《へた》を左の指で持って、箸《はし》で廻りからそろそろ剥《はが》します。皮を破らぬようにするので、割合に早く煮えるものです。そこへ花鰹、醤油、味醂《みりん》などを順々に静かに注いで仕上げます。そっくり皿に取りますが、それを剥しながら食べるのがお好きでした。若い人たちは、お舟だといって皮をも食べます。


 全体に食物は、油濃いものの外は、あまり註文《ちゅうもん》をおっしゃらないので、いつでしたか歯が痛むといって、蕎麦掻《そばがき》ばかりを一カ月も続けられたのには皆呆《あき》れました。


 小倉《こくら》在勤中は、田舎の女中ばかりでさぞ食物に困るだろうという母の心配から、註文のままに品物を送るのでした。それは醤油の樽《たる》――田舎は醤油が悪いそうで――とか、鰹節とか、乾海苔とかですが、品物は皆選びました。冬は好物だというので、鴨肉《かもにく》の瓶詰を家で作るのでした。私の主人が聞いて、もっと何かないかね、というのでしたが、人々の嗜好《しこう》ですから仕方がありません。私はよく牛の舌を送りました。薄く切って食べるのです。皮ごと塩で長く煮込むのですから、寒中などはよく持ちます。宅で毎日弁当に入れるものですから、一緒に作ります。いつも礼状はよこされましたが、お好きでしたか、どうですか。母は自分の好物だといって、葉蕃椒《はとうがらし》の佃煮《つくだに》などを送られましたが、きっとその方がよかったでしょう。


 漬物もよく上りました。野菜の多い夏が重《おも》です。茄子、胡瓜《きゅうり》の割漬、あの紫色と緑色とのすがすがしさ。それに新生薑《しんしょうが》を添えたのが出ると、お膳の上に涼風が立ちます。茄子をいつも好い色にと思うと、なかなか気を附けねばなりません。若い白瓜《しろうり》の心を抜き、青紫蘇《あおじそ》を塩で揉《も》んで詰めて押したのは、印籠漬《いんろうづけ》といって喜ばれましたが、雷干《かみなりぼし》は日向《ひなた》臭いといって好まれませんかった。


 冬の食物に餅茶漬《もちちゃづけ》というのがありました。程よく焼いた餅を醤油に浸《ひた》して、御飯の上に載せて、それにほうじ茶をたっぷりかけるのです。それに同感されたのは緒方収次郎《おがたしゅうじろう》氏で、この味の分らぬ人は話せぬ、といわれたそうです。大阪辺でもそんな風習がありますかしら。賀古《かこ》氏は、鯛茶《たいちゃ》、鰤茶《ぶりちゃ》とはいうけれど、これはどうも、と眉《まゆ》を顰《ひそ》められたと聞きました。晩年の兄は、甘干《あまぼし》や餡《あん》などを御飯に乗せて食べられたと聞きましたが、その頃のことは私は知りません。


 明治四十年頃観潮楼歌会といわれるのをなすった頃、その御馳走《ごちそう》をレクラム料理といいました。会の度ごとに小さなレクラム本を繰返して、今度は何にしようか、と楽《たのし》んでいられました。自分の好き嫌いではなく、作るに手のかからず、皆さんのお口に合うようにとのお考でしたろう。それを調理するのには、洋食といえば一口も食べられぬ母が当りました。相談役は私です。ただ正直に、厳重にその本に依るのでした。材料だけは選びましたから、むつかしい物でないのは、食べにくくはなかったでしょう。立派な西洋料理、などといった人もありました。


 或時大きな西瓜《すいか》を横に切って、削り氷を乗せ、砂糖を真白にかけて、大きな匙《さじ》ですくって食べていられるところへ行合せました。いつものように、傍には読みかけの御本が置いてあります。終りの年のことです。大分重態になられてからお見舞に上りましたが、すぐ病室へ入るのを遠慮して、傍の部屋にいますと、水蜜桃《すいみつとう》の煮たのを器に入れて、嫂《あによめ》が廊下づたいに病室に入られました。あれが終りの頃の召上り物でしたろうか。

 お兄様が陸軍へお勤めになった初めの頃ですから、私は小学生で十歳位でしたろう。その頃北千住《きたせんじゅ》に住んでいました。千住は四宿といわれた宿場跡なのです。町は一丁目から五丁目までありますが、二丁目から三丁目までに青楼《せいろう》があり、大きな二階三階が立ち並んでいて、土地で羽振《はぶり》のよいのはその青楼の主人たちです。何かあると寄附金などを思い切ってするのでしたから。お父さんはそんな土地で開業していられたのです。初めは区医出張所といい、向島《むこうじま》から通っていましたが、それが郡医出張所となり、末には橘井堂《きつせいどう》医院となったのです。住いは一丁目はずれの奥でしたが、看板は表通りに掛けてありました。


 もと土地の旧家の住いだったという事で、かなり広い前庭には樹木も多く、裏門まで飛石が続いておりました。普通の住居を医院らしく使うのでしたから、診察室、患者溜《だまり》などを取ると狭くなるので、薬局だけは掛出しにしてありました。


 昼は静かなのですが、夜になると遠くもない青楼の裏二階に明りがついて、芸者でも上ると賑《にぎ》やかな三味線や太鼓の音が、黒板塀《くろいたべい》で囲まれた平家《ひらや》の奥へ聞えて来ます。


 或夜、たしか酉《とり》の町の日でしたろう、お隣の仕舞屋《しもたや》の小母《おば》さんから、「お嬢さん、面白いものを見せてあげましょう」と誘われたので、行って見ますと、その家の物干《ものほし》から斜に見える前の青楼の裏二階で酒宴の最中です。表二階では往来から見えるというので禁止になっているのだそうで、大分大勢の一座らしく、幾挺《いくちょう》かの三味線や太鼓の音に混って、甲高《かんだか》いお酌の掛声が響きます。甚句《じんく》というのでしょうか、卑しげな歌を歌う声も盛《さかん》です。そこへ娼妓《しょうぎ》たちでしょう、頭にかぶさる位の大きな島田髷《しまだまげ》に、花簪《はなかんざし》の長い房もゆらゆらと、広い紅繻子《べにじゅす》や緋鹿《ひが》の子《こ》の衿《えり》をかけた派手な仕掛《しかけ》姿で、手拍子を打って、幾人も続いて長い廊下を往《い》ったり来たりします。歌うもあれば笑うもあり、その賑やかさに、私は目を見張って驚いていました。


 送って来た小母さんが、お母さんに話していました。
「あの水口の檀那《だんな》が、子供たち(娼妓)がどれもどれも赤い衿ばかりで並んでいるのを見ると(張見世《はりみせ》のことをいうのでしょう)、あまり変りがないので面白くないから、皆浅葱《あさぎ》か藤色にして見ようといっていられましたが、それからさっぱり客が来なくなったそうで、やっぱり赤くなければ人目を惹《ひ》かないと見えるといわれました。今見たらまたもと通りに赤になりましたよ。」
 その家は水口楼というのです。旦那《だんな》というのは学問がしたいといって、お隣の家へ漢学を習いに来るのでしたから、いわば私と同門のわけです。私は『日本外史』などを習っていました。


 小母さんはまたこんな話もしました。
「娼妓が時によると客に出るのを厭《いや》がって、ちっとも売れなくなるそうです。そうすると、遣手《やりて》といいますか、娼妓の監督をする年寄《としより》の女が、意見をしたり責めたり、種々手を尽しても仕方のない時は、離れへ連れ込んで縛《しば》って棒か何かで打つのだそうで、女の泣く声が嗄《か》れがれになる頃、そこに捨てて置いたまま、半日も過ぎた頃に出すのです。娼妓がまだ髪もあげず、泣き腫《は》れた顔も癒《なお》らぬ位なのに、店へ出すとすぐ売れますとさ。不思議ではありませんか。」
 お母さんは、「まあ、むごいことを」といって、眉《まゆ》を顰《しか》めていられます。私は可愛そうだとは思いましたが、絵本で見た中将姫の雪責めなどを幻にえがくのでした。


 この小母さんは独身で、家も小ざっぱりして、奥の間を漢学の先生に貸し、針手が利くので仕立物をして、どこへも立ち入っているのでした。


 或時手狭《てぜま》な家でお客をする事になったのです。お客はお医者仲間が二、三人、あとはお父《と》うさんがお世話になる、士地での旧家の主人や隠居たちです。父はお世辞のない人ですから、こんな土地の人気《じんき》には合いません。その気性を呑《の》み込んで何かと面倒を見て下さる人たちを、お礼心《れいごころ》に招いたのでしょう。


 その日は患者の方は早じまいにして、テーブル、椅子《いす》、寝台などを書生たちに片付けさせ、掛物をかけ、秘蔵の鉢植を置きましたら、家は見違えるようになりました。奥の二間の襖《ふすま》をはずすと十八畳になり、広々となったのでした。書生たちは遊びに出しました。支度が調《ととの》った頃にはお兄様もお帰りです。料理は、好いという遠くの家からの仕出しです。ただ給仕《きゅうじ》をする女手が足りないのに困りました。


 その頃土地で美しいといわれる芸者が二人いました。小六、小藤といいました。小六は物静かな女でした。「私は先生に見て頂きたいから」といって、ちょいちょい家へ来て、診察順を待つ間に、母ともお馴染《なじみ》になって話すのでした。父はいつも代診をやって、青楼やそんな家へは決してまいりませんから。それが家で客をするのに女手がないと聞いた時、「私がお手伝《てつだい》にまいりましょう。いつも先生のお世話になっているのですから」と申出ました。


 父は笑って、「それは有難う。立派な御馳走ではないが、お酌がよいとお客が喜ぶだろうから」といいました。


 小六は早くから、少し年増《としま》の芸者と十二、三の雛妓《おしゃく》と一緒に来て、お茶を出したりお膳を運んだりするのでした。きっとこの人たちは同じ家にいるのでしょう。お客たちは上機嫌で、「いつも小六さんは美しい」とか、「小六さんのお酌は有難い」とかいいます。多くは小六と雛妓とが踊って、年増が弾いたり、歌ったりするのです。大分お酒が廻ったと見えて、妙な声をして歌うお医者もありました。父はお酒はいけないのですから、隣の席の質屋の隠居の頻《しき》りに盆栽の話をして、折々料理に箸《はし》をつけては、にこにこしていられます。私もそっと出て来て、母の後からその座の様子を見ていました。その内にお兄様は腰を立てて、「甚《はなは》だ失礼ですが、今夜は拠《よんどころ》ない会があって、ちょっと顔を出さねばなりませんから、中座《ちゅうざ》をいたします。どうぞ皆さん『雨しょぼ』でも踊らせてゆっくりお過し下さい。」
 そういってお立ちになりました。車は早くから戸口に待っていたのです。


「若先生のお許《ゆるし》が出たのだから、さあ、さあ、踊ったり、踊ったり」と、もつれる舌でいう人があります。賑やかに三味線が鳴り初めて、雛妓が立上りました。赤い友禅の袖《そで》の長いのを著《き》ていましたが、誰かの黒っぽい羽織を上に引張って手拭《てぬぐい》で頬被《ほおかぶり》をし、遊び人とでもいうつもりでしょう、拳固《げんこ》を懐《ふところ》から覗《のぞ》かせて歩くのです。

 


雨はしょぼしょぼ、もみじ番所をすたすた通れば、「八、きのうの女にもてたか」「大《おお》もてよ」。わるい道ではないかいな。

 


 ただこれだけの歌ですが、わるい道という所から、裾《すそ》を高々と※[#「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84]《たく》って、白い足に続いた白い腹まで出して、ゆるゆると歩き廻るのです。少し鈍い子のようで、恥しそうな顔もしませんのは、たびたび踊らせられるのでしょう。酔った人たちは手を叩《たた》いて囃《はや》すのでした。いくら土地柄とはいえ、なぜこんな踊をさせるのだろう。お兄様もどこかで見て御存じなのかしら、それともこんなお客たちが喜ぶだろうと思って仰しゃったのかしら。私はとつおいつ考えていました。
「おい、小六さんは踊らないのかい」と肩を叩く人があっても、小六は見向きもしませんかった。


 お医者の中に、この土地で唯一人の医学士がありました。敏捷《びんしょう》そうな三十余りの人です。後になって、その人が小六を妻にしました。養子なのでしたが、家附《いえつき》の娘を棄《す》てたのです。その娘は私の学校友達でした。資産のある家でしょう、後にまた養子が来ました。それは優しい一方の人らしく、患者もあるようでしたから、きっと仕合せでしたろう。小六は妻になってから、二、三人子供が出来たらしく、後年私の子供が大学に這入《はい》った時、小六の子供もいるように聞きました。どんなお医者になったでしょう。


 今は都内の劇場が、ストリップショウの看板を掛けて人を呼び、雑誌の口絵にヌードがなければ売れないという時代です。こんなことも遠い遠い昔語りとなりました。
 

海屋の幅

 

『古書通信』の二月号に出ていた閑人閑語の「オキナのヘコヘコ」という条を見て、思わずほほえみました。貫名海屋《ぬきなかいおく》の「赤壁賦《せきへきのふ》」を訛《なま》ったというのですが、それを読んでまた遠い昔のことを思出しました。


 お兄様がまだ若くて、陸軍へ出られて間もない明治十五年頃でしたろうか、千住の家で書斎にお使いの北向の置床《おきどこ》に、横物《よこもの》の小さい幅《ふく》を懸けて眺めておられました。「流芳」の二字が横書にしてあります。ほかの幅と様子が違うので、訝《いぶ》かし気《げ》に覗《のぞ》きましたら、「これは貫名海屋という人の書で、南画の人だけれど、書にも秀れているのだよ」と教えられたのです。


 こんな話を聴かされますと、私も何だかそれが気に入って、飽かず見詰めるのでした。
 狭い床でしたけれど、そこには時々変った幅が懸けられます。奥原晴湖《おくはらせいこ》の密画の懸けてあったこともあります。晴湖は明治の初めに東京に出て、下谷《したや》に住んで、南画の名手として知られた女の画家でした。佐藤応渠《さとうおうきょ》の半切《はんせつ》もありました。

 


むかしたが思ひつくまの神まつり
    よきに似よとの教なるべし
かぐ山の岩戸の桜匂《にお》ふなり
    神世人の世隔てざるらむ
おかるゝは命ならずやとられつゝ
    時にあふぎの危《あぶな》かりけり
                (扇)

 


 かような歌を覚えています。家へ来て沢山書かれたのでした。
 野之口隆正《ののぐちたかまさ》、福羽美静《ふくばびせい》などもあったのは、同郷の先輩のためでしたろう。福羽氏のは仮表具で、私が伺った時に書いて下すったままでした。


 話が外《そ》れましたが、右の海屋の幅は割に長い間掛かっていました。
「これは茶掛《ちゃがけ》によかろうと思うが」と、或る時お兄様がいわれます。
「お兄様も、お茶をお始めになりますの。」
「いや、石黒《いしぐろ》氏がお茶をなさると聞いたから、あげようかと思って。」
 石黒忠悳《ただのり》氏はその頃の長官でした。茶器は昔から古物を尊び、由緒ある品などは莫大《ばくだい》な価額のように聞きましたのに、氏は新品で低廉の器具ばかりを揃《そろ》えて、庵《あん》の名もそれに因《ちな》んで半円とか附けられたとかいうことでした。きっとそれが気に入って、お贈りする気になったのでしょう。


 お兄様はそれを持って出て、庭にいられたお父様に声を懸けられました。
「お父様、これをいただいて行きますよ。」
「あゝあゝ、持ってお出《いで》なさい。」


 盆栽に見入って、振返りもなさいません。お父様は石州流のお茶をよくなさるけれど、書画には一向趣味をお持にならないのでした。
 お兄様は何と思われたのか、勤めへお出かけに、「今度石黒さんへ行く時、お前も連れて行こうね」とおっしゃいました。そうしたら暫くしてから、ほんとに連れて行かれました。


 お河童《かっぱ》頭に繻子《しゅす》の袴《はかま》、目ばかり光らした可愛げもない子供でした。お兄様のお供をするというのが嬉《うれ》しくて、喜び勇んで出かけたのです。牛込《うしごめ》のお邸《やしき》には黒くて厳《いか》めしい大きな御門がありました。昔の旗本《はたもと》のお屋敷のようです。お座敷へ通っても私はただ後の方に小さくなって、黙って坐っていました。家へ帰ってからお母様に、「薄暗い広いお座敷で、頭の禿《は》げたお年寄が、幅のひどく狭い袴をはいて、芝居の下座《げざ》でつけを打つ男のような恰好《かっこう》をしておられましたよ」と話しました。


 芝居だって猿若座《さるわかざ》を一度か二度しか見ていないのですが、何だか様子が違って見えたのでしょう。
「まあこの子は。人様の噂《うわさ》をするものではありませんよ」と戒められました。
 お兄様は、「黙っていると思ったら、そんな風に見ていたのか」とお笑いになりました。


 その牛込の帰りには長瀬時衡《ながせときひら》氏のお宅へ寄りました。飯田町《いいだまち》辺でしたろう。やはり陸軍の軍医をお勤めで、詩文のお嗜《たしなみ》があり、お兄様とはお話が合うのでした。ここでは気安く種々のお話をなさるし、奥様も歌をおよみになるので、優しく話しかけて下すって、お庭の石灯籠に灯の入るまでゆっくりしておりました。後に奥様は短冊を書いて下さいました。赤十字をおよみになったので、

 


仇《あだ》みかたたすけすくひて万代《よろずよ》に
    赤き心を見する文字かな

 


 綺麗《きれい》にお書きで、それは近年までありました。
 石黒氏に贈った幅はどうなりましたろう。私を連れて行かれたのは、角立《かどだ》たないようにとのお心遣いだったかも知れません。その日には、それについてのお話はありませんでした。後にはお兄様も、石黒氏と立入ったお附合《つきあい》はなさらなくなったようです。
 

浅草文庫 - 小金井喜美子 - 「鴎外の思い出」

写真

 向島《むこうじま》に住んだ頃は、浅草へ行くというのが何よりの楽しみでしたけれど、歩いて行く時は、水戸様《みとさま》の前から吾妻橋《あずまばし》を渡って、馬道《うまみち》を通って観音様の境内へ入るので、かなりの道なのです。でなければ渡しを渡って花川戸《はなかわど》へ出て、待乳山《まっちやま》を越して、横手から観音様へ這入《はい》ります。母や祖母と出ると時間もかかりますし、留守居も頼まねばならぬので、たまたまにしか連れて行ってもらわれません。


 たしか尋常小学の三年生の時でしたろう。学校の成績がよくて、首席になったので、私も大喜びでしたし、家内中の誰もが、「よかった、よかった」と褒《ほ》めて下さいました。
 その晩のことです。お母様が、「まあ、お喜びよ。今度の日曜には、兄様が浅草へ連れて行って下さるとさ」とおっしゃいます。
「え、ほんとう。」
 私は目をくりくりさせて驚きましたが、よく聞くと、どういうお考か、行くのは私だけだとのことで、心配になりました。
「お母様も一緒だといいのだけれど」とはいいましたけれど、とにかく嬉しいので、ただその日が待たれました。


 日曜日は四月始めのよく晴れた日でした。
「さあ行こう」と、お兄様は下駄履きで先に立たれます。
「お土産《みやげ》をね」と、祖母様《ばあさま》が目送されます。


 毎日急ぎ足で学校へ通う道をぶらぶら歩いて、牛《うし》の御前《ごぜん》の前を通り、常夜灯のある坂から土手へ上り、土手を下りて川縁へ出ると渡し場です。ちょうど船の出るところでした。


 私は真中にある仕切りに腰を下します。乗合《のりあい》はそんなにありません。兄様は離れたところに立っていられます。中流に出ますと大分揺れるので、兄様と目を見合せて、傍の席を指しますが、首を振って動かれません。


 ここから見る土手は、花にはまだちょっと間があるので、休日でもそんなに人通りがありません。ただ客を待つ腰掛茶屋《こしかけぢゃや》の緋《ひ》の毛氈《もうせん》が木の間にちらつきます。中洲《なかす》といって、葦《あし》だか葭《よし》だかの茂った傍を通ります。そろそろ向岸《むこうぎし》近くなりますと、芥《ごみ》が沢山流れて来ます。岸に著《つ》いて船頭が船を杭《くい》に繋《つな》ぐのを待って、桟橋めいたものを伝わって地面に出ます。


 花川戸は静かな通りですが、どの家にも下駄の鼻緒の束が天井一杯に下げてあります。
「今日は待乳山はよそうね」といわれて頷《うなず》きました。そこは少しの木立と碑とがあるだけで、見晴しもないのですから。


 いつか浅草寺《せんそうじ》の境内で、敷石の辺から数珠屋《じゅずや》が並んでいます。奥の方のは見本でしょうが、拳《こぶし》ほどもある大きな玉を繋いだのが掛けてあり、前の方には幾段かの鐶《かん》に大小の数珠が幾つも並べて下げてあります。その辺まで鳩が下りています。


 お堂へ上る広い階段は、上り下りの人で押合いの混雑で、その中を分けて行くのです。大きな賽銭箱《さいせんばこ》へおひねりを投入れてお辞儀をするのはお祖母様のまねです。気が附くと兄様が見えません。あたりを見廻しましたら、お籤《みくじ》の並びにあるおびんずるの前に立っていられました。いつか字引で見ましたら、それは賓頭盧と書くので、白頭長眉《ちょうび》の相を有する羅漢とありましたが、大勢の人が撫《な》でるので、ただつるつるとして目も鼻もない、無気味な木像です。それが不似合な涎懸《よだれかけ》をしているのは信者の仕業《しわざ》でしょう。


 高い欄間《らんま》に額が並び、大提灯《おおぢょうちん》の細長いのや丸いのや、それが幾つも下った下を通って裏の階段の方へ廻りましたら、「これから江崎へ行くのだ」とおっしゃいます。
「江崎へ?」
 私が目を見張りますと、「そうだ、お前の写真を撮るのだ。」
 私はびっくりして、口が開かれません。ただとぼとぼと附いて行きました。


 幾分古びた西洋造《づくり》の家の入口を入りますと、幸いに外に客はありませんかった。
「この子を写して遣《や》ってくれ」とおっしゃいます。
「お兄様は」と聞きますと、「己《おれ》は嫌《いや》だ。」
 いつにないむつかしい顔をなさるのです。どうしようもありません。


 そこらにある写真を見ている中に、助手らしい人が出て、光線の工合を見るのでしょう、高いところの幕を延ばしたり巻いたりします。椅子《いす》の際に立たせて、後頭の辺を器具で押えます。気持の悪いこと。
 そこへ五十過《すぎ》くらいの洋服の人が出て来ました。主人でしょう。黒い切《きれ》を被《かぶ》って、何かと手間取《てまど》ります。

 

 やっと終ってそこを出る時、「これから仲見世《なかみせ》だ、何でも買って遣るよ」とおっしゃるけれど、私はむっつりしていました。お母様と一緒だったのなら、きっと泣いたでしょう。何ということなしに窮屈なのです。大事なお兄様が優しくして下さるのに、偏屈な性質だから仕方がありません。
「何が欲しい」といわれても返事が出来ません。何もいらない、といいたいのを我慢していました。それでも仲見世にはいろいろ並んでいるのですから、ちょいちょい立止ります。


「簪《かんざし》かい、玩具《おもちゃ》かい」と、足を止められますので、入らないといっては悪いと気が附いて、小さなお茶道具を一揃い買ってもらいました。
「もっと何か」とおっしゃいます。
「また何か私の読める本でも買っていただきましょう。」
「うん、それもよかろう。今度は皆のお土産だ。」
 雷おこしや紅梅焼《こうばいやき》の大きな包が出来ました。


 雷門から車に乗って帰りましたら、まだ時間は早いのでした。祖母様はにこにこして、「まあ、こんなに沢山お土産を。お前は何を買っていただいたの。」
 そして私の出した包を拡げて見て、「これはこれは、見事なものだね。お雛様のお道具になるね。大事におしよ」とおっしゃいます。

 

 兄様が傍から、「こいつはほんとにしようのない奴だ。遠慮ばかりして、何も入らないというのだもの」といわれます。
「それで写真はどうだったの」と母が聞かれます。
「写しましたけれど、どんなだか。」
 幾日か過ぎて届いた手札形の写真は、泣出しそうな顔をしていました。
「どうしてこんな顔をしているのだろう」といわれて、「だって私、ひとりで心細かったの。」
 兄はこれを聞いて、「では、己《おれ》のせいだったかな」と笑っていられました。

 

 その写真が今あったらと、昔がなつかしく忍ばれます。
 

垂氷

 知人が持って来てくれた菖蒲の花を見て、遠い昔向島《むこうじま》の屋敷の隅にあった菖蒲畑を思出しました。そこは湿地のためか育ちがよくて、すくすくと伸びますので、御節供《おせっく》の檐《のき》に葺《ふ》くといって、近所の人が貰《もら》いに来るのでした。根を抜くと、白い色に赤味を帯びていて、よい香がします。花は白、紫、絞《しぼり》などが咲交《さきまじ》っていて綺麗でした。始めに咲いて凋《しぼ》んだのを取集めると、掌《てのひら》に余るほどあります。畑はかなり広いのでしたから、それを取って染物をするのだなどといって、そこらを汚しては叱《しか》られたものでした。菖蒲じめという料理があります。ほのかな匂《におい》をなつかしむのです。


 菖蒲畑の側にある木戸から、地境《じざかい》にある井戸まで、低い四《よ》つ目垣《めがき》に美男葛《びなんかずら》が冬枯もしないで茂っていました。葉は厚く光っており、夏の末に咲く花は五味子《ごみし》のようで、熟した実は赤黒くて、形は蒸菓子《むしがし》の鹿《か》の子《こ》そっくりです。飯事《ままごと》に遣います。蔓《つる》は皮を剥《む》いて水に浸すと、粘りのある汁が出て、髪を梳《くしけず》るのに用いられるというので美男葛の名があるのでした。一に葛練《くずねり》などともいいました。


 地境の井戸はよい水でした。傍らに百日紅《さるすべり》の大木があって、曲りくねって、上に被《かぶ》さっています。母が洗い物をしていられる時、花を拾ったり、流しから落ちる水に蛙《かえる》がいるので、烟草《タバコ》の粉を貰って来て釣ったりします。花のある間が長いので百日紅といいます。


 裏庭の梅林に小さな稲荷《いなり》の祠《ほこら》のあるのを、次兄が、開けて見たら妙な形の石があったというので、祖母にひどく叱《しか》られました。祖母は信仰も何もないのですが、昔気質《むかしかたぎ》ですから、初午《はつうま》には御供物《おくもつ》をなさいました。先住は質屋の隠居だったといいますから、その頃にはよく祭ったのでしょう。梅の盛りの頃には、花の間から藁《わら》屋根の見えるのがよい風情《ふぜい》でした。軒には太い丸竹の樋《とい》が掛けてありましたが、それも表側だけで、裏手にはありません。その際に高い五葉《ごよう》の松が聳《そび》えていました。私はその太い幹を剥《は》いでは、剥げた皮が何かの形に見えるといって喜んで、それを繰返して遊びました。暫《しばら》くすると、その葉色が悪くなり、弱りが見えて来ました。裏手ですから目立ちませんが、どうしたものかと案じました。父は、これは誰かのいたずららしいと、頻《しき》りに調べていられました。錐《きり》か何かで穴を明けて、鰹節《かつおぶし》などを差込んで置くと、そこから虫が附き始めるというのです。原因は知らず、木はやがて枯れてしまいました。


 五葉の松の近くに裏木戸があって、そこに柳が糸を垂れています。表門の際のほどには大きくありませんが、風が吹くと横ざまに靡《なび》いて、あたりの木を撫《な》でるのでした。木戸を出るとすぐ田圃《たんぼ》です。曳舟通《ひきふねどおり》が向うに見えます。或年長雨で水が出て、隣の鯉屋の池が溢《あふ》れ、小さな鯉や金魚が流れ出たといって、近所の子供たちが大勢寄って来て、騒立《さわぎた》てたことなどもありました。


 正面の庭の奥の、縁からは見えぬあたりに柿の木がありました。何という種類か知りませんが、葉の幅が広く、紅葉すると黄と朱と紅とが混って美しいのです。実は大きくて甘いのですが、喜ぶのは私と次兄とだけでした。家の横手にある無花果《いちじく》とその柿とが私の楽しみで、木蔭に竿《さお》を立てかけて置いて、学校から帰ると、毎日一つずつ落して食べました。鴉《からす》はよく知っていて、色づく頃にはもう来始めます。もっと熟すまで置きたいのですけれど。


 表の方へ廻りますと、冠木門《かぶきもん》まで御影《みかげ》の敷石です。左の方はいろいろの立木があっても、まだ広々していました。後には、ここらが寂しいからと、貸家を二軒立てました。右の方で目立つのは芭蕉《ばしょう》でした。僅《わず》かの間にすくすくと伸び、巻葉が解けて拡《ひろ》がる時はみずみずしくて、心地《ここち》のよいものです。花が咲いて蓮華《れんげ》のような花弁が落ちますと、拾って盃《さかずき》にして遊びました。


 見事なのは門前の柳でした。夏は木蔭が涼しいのですから、よく人が立止っては休んでいました。飴屋《あめや》などは荷を下して、笛を吹いて子供を寄せて、そこで飴細工をするのでした。狸《たぬき》や狐《きつね》などを、上手《じょうず》にひねって造ります。それに赤や青の色を塗り、棒に附けて並べます。大抵の子供は、丸い桶《おけ》に入れてある水飴を、大きく棒に捲《ま》いてもらうのです。色は濃い茶色をしていて、それがなかなか堅くて溶けませんから、子供には長く楽しまれるのでしょう。或時よその年寄が来て、立話をして帰るのを、母が送って出ましたら、門の際の生垣に挿してあった飴の棒を抜いて、しゃぶりながら行ったので呆《あき》れたといわれましたが、そんなに堅いのです。


 家の中は押入が多くて、よく片附いていました。床《とこ》の間《ま》は一間《いっけん》で、壁は根岸《ねぎし》というのです。掛軸は山水などの目立たぬもので、国から持って来たのですから幾らもありません。前には青磁《せいじ》の香炉が据えてあり、隅には払子《ほっす》が下っていました。


 兄が家にいられる時の机の上には、インキ壺、筆、硯《すずり》、画筆に筆洗などがあり、壁際には古い桐の本箱が重ねてありました。折れ曲った所のれんじ窓から、裏庭を越して田圃が見渡されます。遥《はる》か先に五代目菊五郎《きくごろう》の別荘があるとか聞きました。


 冬の夜風が強く吹いて、土の底までも凍りそうな折には、狐が出て遊ぶといわれます。畦《あぜ》をつたって走りながら鳴くので、それで声がとぎれとぎれだというのでした。そんな晩は、蒲団《ふとん》を頭から被って、小さくなって睡《ねむ》ります。夏の夜は蛍が飛びかいますが、誰も気に止めません。


 診察室の次の間に、父の机がありました。古い大きな机で、両側に幾つも引出しがあります。国から持って来ましたもので、調合台に使用するので広く場所を取りました。上には、筆硯《ひっけん》は片隅で、真鍮《しんちゅう》の細長い卦算《けいさん》が二、三本と、合匙《ごうひ》といいますか、薬を量る金属の杓子形《しゃくしがた》のが大小幾本もありました。小さい四角に切った紙を順に列《なら》べ、卦算を圧《おさ》えにして、調合した散薬を匙《さじ》で程よく分配するのです。終れば片端から外して折畳むのですが、よく馴《な》れていて、見ていると面白いようでした。幾つかを重ねて袋に入れて、患者の名を書きます。水薬の方は、傍らに三尺の棚があって、大小さまざまの薬瓶や壺などが置いてあり、その下で調合するのでした。書生などはいませんから、浸剤《しんざい》などになると母が手伝います。
 丸薬は母のお得意でした。私はいつか呑《の》み馴《な》れて、いつまでも愛用しました。兄たちから、そんなに呑んで、といわれるほどでしたが、父は何ともいわれませんかった。原料の這入《はい》った瓶には芳香酸としてありました。きっと健胃剤の類でしたろう。傍らの木の箱に、綺麗にした蛤《はまぐり》の貝殻があるのは、膏薬《こうやく》を入れて渡すのでした。その膏薬も手製です。よい白蝋《はくろう》を煮とかして、壺ようの器に入れてあり、それに「単膏」という札が貼《は》ってありました。その単膏に、さまざまの薬を煉込《ねりこ》むのですが、その篦《へら》が今のナイフのような形をしていて、反《そ》りの利く、しっかりしたものでした、何に使うのか、水銀を煉込むのを面白く思いました。銀色の玉が転《ころが》り出るのを上手に扱うのです。過《あやま》ったら大変です。そこら一面に銀色の小粒が拡がるのですから。


 或年の大雪の降った翌朝のことでした。雨戸は開いたのに、私は少し風邪《かぜ》の気味だといって床にいましたが、横目で見上げると、樋《とい》のない藁葺《わらぶき》屋根の軒から、大小長短幾つもの垂氷《つらら》の下っているのが、射《さ》し初めた日に輝いて、それはそれは綺麗です。「あれが欲しい」といいましたが、「あんな物をどうするの。もう起きなさい」と、誰もかまってくれません。やがて御飯になりました。渋々《しぶしぶ》起きてお膳《ぜん》に向っても、目は軒端《のきば》を離れません。その時、「おい、これを遣ろう」と、後に声がします。振返ると兄が、大きなコップに垂氷の幾本かを入れたのを、笑いながら出されます。「まあ、どこからお取りになりましたの。ありがとう」と、すっかり上機嫌になりました。


 兄から貰った垂氷を、私はお膳の傍に置いて、それを見ながらゆるゆると食事をしましたが、終った頃には、もうすっかり痩《や》せ細って、コップの底には藁屑《わらくず》まじりの濁った水が溜《たま》っているだけでした。その後、何か欲しいというと、「垂氷とどっちだ」と、よく笑いぐさにされました。


 雪国の越後などでは、その垂氷を「かなッこおり」といって、いたずらな子供が手拭《てぬぐい》で捲《ま》いてお湯屋へ持って行き、裸の人に附けて驚かすとか聞きました。

通学

 兄が洋行されてからは、千住の家はひっそりとしました。病家へ出かけられる父の後姿も寂しそうです。向島時代と違って、千住では話の合う人も少いのでしたから。その頃次兄は本郷《ほんごう》で下宿住いでした。それで兄のいられた部屋を使えといわれます。尤《もっと》もそれまでもお留守の時は、そこで本を見て時を過したので、そろそろ退庁の時刻になると、そこらを片附けます。取散らしてあるのはお嫌いでしたから。それで洋行中も、机の上の本を積重ねようとしては、ああお留守だったと、がっかりするのでした。


 本棚の片隅には、帙入《ちついり》の唐本の『山谷《さんこく》詩集』などもありました。真中は洋書で、医学の本が重らしく、一方には馬琴《ばきん》の読本《よみほん》の『八犬伝』『巡島記』『弓張月《ゆみはりづき》』『美少年録』など、予約出版のものです。皆和本で、それぞれの書名が小口《こぐち》に綺麗に書かれたのが積重ねてあって、表紙の色はそれぞれ違いましたが、どれも皆無地でした。その頃流行したのですから、随分出たものでしょうが、その後そんな本は古本屋でも見たことがありません。それよりあの本棚にあれほどあった予約本がどうなったのでしょう。幾度かの転居で知らぬ間に見えなくなり、観潮楼の本棚にはありませんかった。後年兄が『八犬伝』の序文を書かせられた時にも、その昔愛読したことをいっております。『馬琴日記鈔《しょう》』の跋文《ばつぶん》にも、馬琴に向って、君の真価は動かない、君の永遠なる生命は依然としている、としています。つまり贔屓《ひいき》なのでしょう。その予約本の行方《ゆくえ》については、ついに聞きませんでした。


 その内私は、福羽《ふくば》氏のお勧めで女学校に入りましたので、本郷の次兄のいられた一室に、祖母と一緒に住むようになりました。入学試験があるというのですが、千住の小学校を出たばかりで世間知らずで、物は試《ため》しということがあるからと受験しましたら、合格したのでした。


 女学校では生徒の年がさまざまで、若い人もあれば、一方には地方から選抜されて来た年嵩《としかさ》の人もありました。私などは風体が目立って、野暮臭《やぼくさ》いと皆が笑ったでしょうけれど、当人は平気なものでした。髪は銀杏返《いちょうがえ》しが多く、その中に一、二人だけ洋装断髪の人がいました。授業の内では語学は珍しいのですが、国語漢文などは抜萃《ばっすい》のものばかりで、張合《はりあい》のないことでした。


 始めの下宿は二階のある家でしたが、近火《ちかび》があったので、学校に近い平家の下宿に移りました。そんな世話は皆次兄がなさいます。御自分も一緒に引越されます。引越など造作もないと思っていられます。次兄の室は別ですから、夜勉強が済んでお茶でもという時には呼んで来て、その日にあったことなどを話合います。祖母も兄の時から下宿住いには馴《な》れていられますから、苦になさいません。どこの家でも食物などは、それぞれに癖のあるもので、今晩はとろろ汁です、などといわれると困りました。私は食べたことがないものですから、箸《はし》を取りかねます。そんな日には次兄は、どこかで鮓《すし》など買って来て下さるのでした。祖母は私どもの学校の留守には、いつも裁縫をしていられます。千住から次々と仕事を持って来て、少しも手をあけてはいられません。どうかして途絶えた時には継ぎものです。古い絹の裏地など、薄切れのしたのに継《つぎ》を当てて細かに刺すのです。年寄には軽くてよい、新しい金巾《カナキン》などは若い者のにするがよい、といって、決してお使いにはなりません。或時父がそれを見て、全く二重ですねえ、と目を見張らせます。まあ出来上りを見て下さいと、笑ってお出《いで》です。やがて張り上げると、すっぺりして立派になるのでした。昔から何に依らず質素にと心懸けて、物を粗末にはなさいません。


 私は手紙にいろいろのことを書いては、西洋の兄へ出します。学校のこと、下宿のこと、その他さまざまです。間もなく便があって、下宿はやめるがよい、おばあ様にもお気の毒だし、女の子の下宿は好ましくない、というのです。ちょうど学期の終の時でしたから、引上げて千住へ帰りました。


 これからどうして通わせようかということになりましたが、兄の出立後は、供をしていた与吉という車夫が父のになっていました。頑丈《がんじょう》な男でしたが、年を取っており、無口で無愛想なので兄のお気に入りでした。人込《ひとごみ》だろうが、坂道だろうが、止めろ、と声を掛ければすぐ止めます。用事の外は口を開きません。それが素朴でいいとおっしゃいましたが、父の病家廻りのお供としては、先々では喜ばれませんかった。それに父の病家は近くが多く、車で行くのは田舎《いなか》ばかりですから、女の子の供にはあれがよかろう、ということになりました。与吉の家内はいつも勝手の手伝いに来るので、張物《はりもの》や洗濯《せんたく》も上手にします。人の噂《うわさ》では、商売をしていたとかいいました。器量もよくないし、髪の毛の薄い小がらな女でしたが、正直なので母は喜んで使われました。与吉のことを、いつでも、「よきさあ、よきさあ」と呼びました。その頃学校は方々へ移る時で、上野の両大師の際へ引越したので、千住から通うのには近くなったので好都合でした。尤《もっと》もそれも少しの間で、また一橋《ひとつばし》へ引移り、ついに卒業まで、車でそこへ通ったのです。


 今まで噂に聞いた道々を、毎日車で通います。野菜市場の混雑を過ぎ、大橋を渡って真直に行けば南組の妓楼《ぎろう》の辺になりますが、横へ曲って、天王様のお社《やしろ》の辺を行きます。貧民窟といわれた通新町《とおりしんまち》を過ぎ、吉原堤《よしわらづつみ》にかかりますと、土手際に索麺屋《そうめんや》があって、一面に掛け連ねた索麺が布晒《ぬのざら》しのように風に靡《なび》いているのを珍しく思いました。兄のいつもお話になった秋貞《あきさだ》という家の前は、気を附けて通りますが、それらしい娘はつい見うけませんかった。縁がないらしくまだ出会いません、などと西洋への手紙に書いたものです。


 そこを過ぎて三島神社の前を通ります。その横からお酉様《とりさま》へ行く道になるのですが、私はお参りしたことがありません。いつもひどい人出だとのことで、その酉の日には、大分離れたここらまで熊手《くまで》を持った人が往来します。その前日あたりから、この辺の大きな店で、道端に大釜《おおがま》を据えて、握り拳《こぶし》くらいある唐の芋ですが、それを丸茹《まるゆで》にするのです。その蓋《ふた》を開けた時にでも通りかかると、そこら中は湯気《ゆげ》で、ちっとも見えません。それくらい量が多いのです。お酉様は早くから参るのですから、前日から支度をします。その茹で芋の三つか五つかを、柳でしょうか竹でしょうか、そうした物で貫いたのを環《わ》にして店に盛り上げます。熊手を肩に、その芋の環を手にしたのが、お酉様の帰りの姿でした。


 私が幼かった頃、いつも母の膝《ひざ》の上にいたがりますので、兄は私を、おかめ、おかめ、といわれました。母が熊手で、おかめがそれに附いていて離れないというのでした。そんな詰らないことも思出されます。


 両大師の際の学校の頃は、少し早く行くと、そこらの草原は露が深くて、歩けば草履《ぞうり》の裏がすっかり濡《ぬ》れるほどでした。寒い朝そこらに佇《たたず》んでいますと、北国から来た列車の屋根が真白に雪をかぶっています。それを珍しく見ました。私どもの教室へ、まだ洋行前の幸田延子《こうだのぶこ》氏が、よく参観に来ていられました。或時遠い教場から美しい声が聞えるので耳を傾けましたが、それは後の柴田環《しばたたまき》氏なのでした。


 車で来る人は、私の外にも二、三人いました。跡は先生です。与吉は前にいったように無口ですが四、五人集まりますと、いつか与吉が親分らしく、外の車夫が手下《てした》らしく見えるのが不思議でした。私が帰る時に見ますと、外の車夫はすぐ車を引出しますのに、与吉はのっそり立上って、ゆっくりと来て梶《かじ》を跨《また》ぐのです。そんな時私は恥しくて、顔を伏せていました。腹の内では、また西洋へ書いて出す手紙の材料が出来たと思いながら。
 

兄の帰朝

 

 兄が洋行から帰られたのは、明治二十一年九月八日のことでした。家内中が幾年かの間待暮《まちくら》していたのですから、その年も春が過ぎてからは、その噂《うわさ》ばかりしていました。少し前に帰朝された人に、「年寄たちに様子を話して下さい」とお頼みでしたので、その方が訪ねて下すって、親切にいろいろ話して下さいました。日常生活から、部屋の様子、器具の置場などまでして話して下さるので、どんなだろうか、あんなだろうかと想像をも加えて、果《はて》がありません。
「夜帰って来て、幾階もある階段を昇るのに、長い蝋《ろう》マッチに火を附けて持ちます。それが消える頃には部屋の前に著《つ》きます」と聞いた弟は、細長い棒を持って来て、「これくらいですか」などと尋ねます。
「いいえ、そんなに長くはありません。箱をポケットに入れて、消えれば次のを擦《す》ります。どこでも擦れば附きますから、五分マッチともいいます。」
 そうした話を、何んでも珍しく聞くのでした。


 祖母は夫が旅で終った遠い昔を忘れないので、「旅に出た人は、その顔を見るまでは安心が出来ませんよ」といわれます。母は、「そんな縁起でもないことを仰しゃって」と、嫌《いや》な顔をなさいますが、心の中では一層心配していられるのです。親戚《しんせき》西氏の近親の林氏は人に知られた方でしたが、洋行された留守宅で、商人を呼寄せて何か拡げさせて興じていた最中に、不幸の電報が届いたとのことで、その話には誰も心を打たれました。ですから、「慎んで待受けねば」という気持が強いのでした。


 かねて父の往診用の人力車はあったのですが、兄の帰朝のためにとまた一台新調して、出入の車夫には新しい法被《はっぴ》を作って与えました。帰朝の日には新橋《しんばし》まで迎いに出すという心組《こころぐみ》でした。


 ところが兄は、同行の上官石黒氏を始め、その外にも連《つれ》があって、陸軍省から差廻しの馬車ですぐにお役所へ行かれましたので、出迎えは不用になりました。


 私は早くから千住の家へ行って待っていました。兄はあちこち廻って帰られたので大分後《おく》れましたけれども、どこかで連絡があったと見えて、橘井堂《きっせいどう》医院の招牌《かんばん》のあるところから曲って見えた時は、大勢に囲まれてお出《いで》でした。土地がらでしょう、法被を著た人なども後から大勢附いて来ました。そして揃《そろ》って今日の悦《よろこ》びをいうのでした。父がその人たちに挨拶《あいさつ》をします。気の利いた仲働《なかばたらき》が、印《しるし》ばかりの酒を出したようです。家の中では、旧《ふる》い書生たちまで集って来て悦びをいいます。祖母は気丈な人でしたけれど、お辞儀をしただけで、涙ばかり拭《ふ》いて、物はいわれませんかった。私はそれを見て、同じように涙が止りませんでした。父はにこにこして煙草《タバコ》を吸われるだけ、盛《さかん》に話すのは次兄一人です。


 やがて私は、家の車で送ってもらって帰りました。その頃小金井《こがねい》は東片町《ひがしかたまち》に住んでいました。始めは弓町《ゆみちょう》でしたが、家主が、「明地《あきち》があるから」といって建ててくれたのです。弓町では二棟借りていました。国許《くにもと》から母と妹とが来たので狭くなったからです。東片町は畠の中の粗末な普請です。庭先に大工の普請場があって、終日物音が絶えません。新築がつぎつぎに出来るためでしょう。向い側には緒方正規《おがたまさのり》氏が前から住んでいられましたが、そこはお広いようでした。その頃郵便局のあった横町から這入《はい》るので、左へ曲ると行止りになる袋小路《ふくろこうじ》でした。小金井はアイヌ研究のために北海道へ二カ月の旅行をして、この月六日に帰ったばかり、それで十日からは授業を始めますし、卒業試問もあるというのです。その頃はそんな時に試験があったのでした。その準備もせねばならず、北海道からは発掘した荷物が来るのですから、繁忙を極めていました。


 その頃の東片町は、夜になると寂しいところでした。私の部屋のある四畳半は客間の続きですが、雨戸なしの硝子《ガラス》戸だけでした。いつか雨続きの頃、主人は会があって不在の晩、静かに本を読んでいる内に夜が更《ふ》けました。ふと気が附くと、窓の前でペタッ、ペタッという音がします。何かしら、と首を傾けても分りません。暫くすると、また音がします。高いところから物の落ちる音ですが、それが柔かに響くのです。気味が悪いけれど、思切って硝子戸を少し開けて、手ランプを出して見ましたら、やっと分りました。それは大きな蝦蟇《がま》が窓の灯を慕って飛上り、体が重いのでまたしても地面に落る音なのでした。蹲《うずくま》ってこちらを見る目が光っています。翌日早速厚い窓掛を拵《こしら》えました。その家は、私どもが引移った後には長岡半太郎《ながおかはんたろう》氏が長く住んでいられました。


 話が脇路《わきみち》へ反《そ》れました。兄は帰朝後、新調の車で毎日役所へ通われます。私は閑《ひま》があれば兄を訪いました。私への土産は、駝鳥《だちょう》の羽を赤と黒とに染めたのを、幾本か細いブリキの筒へ入れたのです。御出発なさる時に『湖月抄《こげつしょう》』と本間《ほんけん》の琴とを買っていただきましたから、「もう十分ですのに」とは申しましたが、若い時ですからやはり喜びました。その羽を覚《おぼ》つかない手附《てつき》で帽子に綴《と》じつけなどしました。


 そうして九月もいつか二十日ほど過ぎた或日、独逸《ドイツ》の婦人が兄の後を追って来て、築地《つきじ》の精養軒《せいようけん》にいるという話を聞いた時は、どんなに驚いたでしょうか。婦人の名はエリスというのです。次兄がそのことを大学へ知らせに来たので、主人は授業が終るとすぐ様子を聞くために千住へ行ったという知らせがありました。さあ心配でたまりません。無事に帰朝されて、やっと安心したばかりですのに、どんな人なのだろう。まさか詰らない人と知合になどとは思いますけれど、それまで主人の知己の誰彼《だれかれ》が外国から女を連れて帰られて、その扱いに難儀をしていられるのもあるし、残して来た先方への送金に、ひどくお困りなさる方のあることなども聞いていたものですから、それだけ心配になるのでした。


 夜更けて帰った主人に、どんな様子かと聞いて見ても、簡単に分るはずがありません。ただ好人物だというのに安心しました。事情も分ったらそれほど無理もいうまいとの話に頼みを懸けたのです。


 それから主人は、日ごとというように精養軒通いを始めました。非常に忙しい中を繰合せて行くのです。次兄はまだ学生ですし、語学も不十分です。兄は厳しい人目があります。軍服を著《き》て、役所の帰りに女に逢《あ》いには行かれません。それに較《くら》べると主人は気楽ですから、千住では頼《たよ》りにして、頻《しき》りに縋《すが》られます。父は性質として齷齪《あくせく》なさいません。どうにかなるだろうくらいの様子でしたが、母は痩せるほどの苦労をなさいました。何しろ日本の事情や森家の様子を、納得の行くように、ゆっくり話さねばなりません。かれこれする内に月も変りました。


 その頃の主人の日記に、「今日は模様宜《よろ》し」とか、「今日はむつかし」などと書いてありますのは、エリスとのことでしょう。前にもいったように、北海道で発掘した人骨を詰めた荷物がつぎつぎと著きますので、それらは決して人任せにはせられません。どんな破片でも大切なのですから。但しそれで忙しいのは楽しみらしいのですが、今度のことは、私としては、兄のためというばかりでなく、父母のためにも、いいかえれば家の名誉のためにも尽力してもらいたいと思うのですから、主人の日々の食事にも気を附け、そろそろ寒くなるにつけて、夜は暖かにしてなどと気を配ります。もともと主人は洋行中から名代の病人だったので、ただ養生《ようじょう》一つで持ちこたえていたのでした。私が小金井へ来ました時、「よく評判の病人のところへよこしたなあ」と笑ったくらいです。今度のことは、すらすら運ぶ用事とは違いますから、主人も千住へ行くと、夜更けに車で送ってもらうのです。用談も手間取りますが、そうした中でも未開な北海道の旅行中に幾度も落馬したこと、アイヌ小屋で蚤袋《のみぶくろ》という大きな袋に這入《はい》って寝て睡りかねたこと、前日乗った馬が綱を切って逃げたために、土人と共に遠路をとぼとぼ歩いたことなどを話して、心配中の人々を暫時《ざんじ》でも笑わせなどしました。


 日記にはなお賀古《かこ》氏と相談したともしてあります。賀古氏も定めし案じて下すったのでしょう。でも直接その話には関係なさらなかったようです。


 十月十七日になって、エリスは帰国することになりました。だんだん周囲の様子も分り、自分の思違えしていたことにも気が附いてあきらめたのでしょう。もともと好人物なのでしたから。その出発については、出来るだけのことをして、土産も持たせ、費用その外の雑事はすべて次兄が奔走しました。前晩から兄と次兄と主人とがエリスと共に横浜に一泊し、翌朝は五時に起き、七時半に艀舟《はしけぶね》で本船ジェネラル・ウェルダーの出帆するのを見送りました。在京は一月足らずでした。


 思えばエリスも気の毒な人でした。留学生たちが富豪だなどというのに欺かれて、単身はるばる尋ねて来て、得るところもなくて帰るのは、智慧《ちえ》が足りないといえばそれまでながら、哀れなことと思われます。


 後、兄の部屋の棚の上には、緑の繻子《しゅす》で作った立派なハンケチ入れに、MとRとのモノグラムを金糸で鮮かに縫取りしたのが置いてありました。それを見た時、噂にのみ聞いて一目も見なかった、人のよいエリスの面影が私の目に浮びました。
 

いさかい

 門を静かに開けて、敷石を踏んで玄関にかかると、左は勝手へ行く道、右の荒い四つ目垣の中は花畑ですが、すがれ時《どき》で目に附く花はありません。格子戸《こうしど》の中では女中が掃除をしていました。


 ふと早口の甲高《かんだか》い声と、静かな諭《さと》すような声が聞えます。こんなことがあるとは聞いていましたが、今が初耳でした。立って行こうとする女中を、手を振って止めて、「用事があって来たのではないのだから、取次がないで下さい」と小声でいうと、女中も心得たもので、そのままそこにいました。足音を忍ばせて門を出るまで、声はまだ聞えていたようでした。


 門前は人通りもあり、車も往来しています。今そんな道を歩く気はしないので、すぐ向いの小路に這入《はい》りました。そこらの屋敷町をうねりうねり行って、薔薇新《ばらしん》の前を通ります。あまり人通りはありません。


 歩きながら考えました。何のことか知りませんが、私にはただお兄様がお気の毒でなりませんかった。今日は土曜日ですから、昼前はお役所でしたろう。夜はまたきっと何かの会でしょう。それでなくても、いつも書きものは溜《たま》ってお出《いで》なのですから、大事な時を潰《つぶ》すというばかりでなく、そのお気持の悪さを思いやって、お機嫌の悪い時のお兄様の俯向《うつむ》いた額に見える太い脈を思浮《おもいうか》べるのでした。


 がやがやいう子供たちの声を耳にして、気が附きますと、少しの明き地に大勢集って、地面に白墨で何か書いて遊んでいたのを、うっかり踏んでしまったので、「御免なさい」と詫《わ》びました。


 吉祥寺《きっしょうじ》の横手の門まで来ると、かなりな家の葬式でもあるのでしょう、今日は開放《あけはな》しになっていて、印半纏《しるしばんてん》の男たちが幾人か立廻っていますし、人込《ひとごみ》を透かして、参道の左右に並べた造花や放鳥らしいものがちらちら見えます。通りへ出ると、表門の前には車が並んで、巡査が交通整理をしているようです。通りを横切って曙町《あけぼのちょう》に這入ります。会葬者らしいのがまだ続いて、寺の門へ向って行きます。左側に大きな材木屋があって、種々の材木が高々と並んでいます。人の噂には、もとこの辺で草取をしていた老婆があって、それが貯蓄してこんなになったのだといいます。その孫ででもありましょうか、今の主人らしい人には、卑しい様子もありません。


 家に帰ると、出迎えた女が、「大変お早ようございましたね。お留守でしたか。」
「いいえ」とばかり答えて上るなり、そのまま座敷の縁側に坐って、ぼんやり庭を見ていました。南さがりになっている芝生《しばふ》に、色の褪《さ》めた文字摺《もじずり》があちこち立っています。


 いつも団子坂へ行くのを楽しみにして、お兄様がお家の時は、近く買われた古本などを見せていただき、その説明をも聴いて、時の立つのを忘れるのでした。お母様のお部屋では取止《とりと》めもないことを語合《かたりあ》って、つい笑い声も立てました。暇乞《いとまごい》をすると、用がないからと、いつも送って下さいます。そのままでお出かけですから、「被布《ひふ》の上前《うわまえ》が汚れていますよ」といいますと、「こうすればよかろう」と、下前を上にして平気でいられるのを笑ったりなどもしました。そんなですから、いつも裏通りばかりを歩きます。今日はお留守でしたろう、お家なら聞きつけてお出になるのですから。でも今日などはお目にかかりたくありません、お話する気もありませんから。家に不穏の空気が漲《みなぎ》る時は、誰も誰もつつましやかにしています。昔はそうしたことなどありませんかった。私は一人でそんなことを思っていました。


 その時入口が開いて、女が急いで這入って来て、「団子坂の檀那様《だんなさま》がお見えになりました」といいます。びっくりして出ると、そこに軍服を著《き》たお兄様が、いつもの微笑をして立っていられます。
「来てくれたってね。失敬した。」
 私はきまりが悪く、「さあどうぞ」と上っていただいて、床の前に座蒲団《ざぶとん》を直して、「あんまり御無沙汰《ごぶさた》をしていましたから」と、呟《つぶや》くようにいいながら、違棚《ちがいだな》にあった葉巻《はまき》の箱を下して前へ出しました。私の家では質素な生活はしていましたが、主人が嗜《たしな》むので、葉巻だけはいつもあるのでした。


 何といい出したものかと胸騒ぎがします。あんな様子を見られて、さぞかしおいやだろうと思うのに、私の跡を追うようにしてお出《いで》になったのはと思うと、うっかり口も開かれません。いつもお忙しいのですし、私の方からはよく伺うのですから、お出になるのはまあお正月位のものだったのです。お兄様はいつまでもだまっていらっしゃる。私も葉巻をお附けになるお手元をただじっと見ていましたら、お顔を上げて、「お前は近頃石本《いしもと》さんに会うかい」といわれました。


 石本さんとおっしゃるのは、大臣石本新六《しんろく》氏の夫人です。お茶の水女学校の出身者の内では有力な方でした。
「あの方は会にはいつでもお出になりますから、私さえ出れば、お目にかかられますよ。」
「そうか」と、また暫く無言でしたが、「お前も知っている通り、おれは勤向《つとめむ》きのことでは人に批難をされるようなことはしないがね。ただ家庭のことで、かれこれいわれると困るのでなあ。」
 苦笑せられるお顔を見てはいられません。今まで決してそんなことなどおっしゃらなかったのに、何かお気にかかるのでしょう。
「折があったら話して置いておくれ。」
「ええ、それは誰でも親しい者は知っていることですから。」


 石本氏は長く陸軍次官をお勤めになって、立派なお方でしたけれど、強いところもおありになるのでしょう。重い御持病がおありでしたから、お気の立った時などはおむつかしいのでしょう。お兄様は十分控目にして、いつも謙譲な態度でいられますが、時には衝突なすったこともあるように聞きました。尤《もっと》も職務上のことについては、職を賭《と》しても争われたのは勿論《もちろん》です。


 それまでの陸軍大臣は寺内《てらうち》伯で、お兄様はその信任を得ていられましたが、政変のためにお罷《や》めになって、石本次官が昇進なさいましたのは、明治四十四年八月末のことでした。九月も半過ぎでしたろうか、官邸へお移りになった石本夫人が幹事の同窓会があって、私は始めて官邸というものに這入りました。いつもより人も大勢集っていられます。きらびやかではなく、荘重とでもいいましょうか、お邸はなかなか広いようでした。あちこち見て歩く内、応接間というような室に、硝子の箱に紫色の天鵞絨《ビロード》を敷いて、根附《ねつけ》が百ばかり、幾段かに並べてありました。その頃主人が根附を集めていたものですから、つい目に附いて、立止って見ていました。外人などは、さぞ珍しく思うでしょう。あたりに人がいなくなったので控室へ戻ると、夫人が独りでいられます。


「お広いようでございますね。唯今あちらに根附がございましたので、ゆっくり拝見しておりました。御主人様の御趣味でしょうか。」
「いいえ、あれはここの備品なのですよ。あなたはあんな物が好き。」
 よい折と声を低くして、「兄がいつも御主人様のお世話になります。正直過ぎる人なので、いっこくですから、さぞ失礼をも申すでございましょう。宜《よろ》しくお取りなしを願います。」
「いいえ、いっこくといえば主人こそお話になりません。どなたにでも無遠慮にずけずけと物をいいまして、端《はた》の者がはらはらいたします。奥様はお若いのですッてね。」
 そうおっしゃったので、「はい、美しい好《い》い方ですけれど、お育ちになった御家庭がわれわれと違いますから……。」
「そうですってね。皆さんからちょいちょいお噂を聞きますよ。」


 お兄様がお気になさるのは、そうした人の噂でしょう。人はどんなことをいうのだろう。もっと聞きたいと思う内に、ぞろぞろ皆さんの足音がするので、そこを離れました。


 その後はさしたることもありませんかった。お兄様はお役所の仕事の御多忙の中から、創作に翻訳に絶えず筆を執っていられます。お好きなことですからお紛れになるのでしょう。その頃には長篇なども書いていられたのでした。文部省展覧会の第二部主任でしたから、洋画の鑑査もなさるので、朝上野、それから陸軍省、それからまた上野へというようなお生活でした。


 大臣も御持病はあっても勤めていられたようで、お兄様の日記には陸相の晩餐会《ばんさんかい》に行く、翌日礼に行くなどと見えています。


 その日記の十二月二日の条には、皇儲《こうちょ》石本陸相の身体を懸念あらせられ、岡《おか》侍医を差遣《さしつかわ》せさせ給うと聞き、岡の診察するに先だちて会見せんと岡に申し遣るとあり、四日には、官邸に行き、皇儲の思召《おぼしめし》により岡の来診の時会談して診察に立ち会うともあります。人目に附くような容体におなりだったのでしょう。年末には大臣は国府津《こうづ》に避寒に行かれたようです。


 翌四十五年の一月五日の新年宴会に賜餐《しさん》がありました。その宴のまだ始まらない内に岩佐氏が卒倒せられたので、お兄様が近寄られると、岡玄卿《おかげんきょう》氏が人工呼吸をなさるので、その手伝いをなすったそうですが、ついに逝《ゆ》かれたそうです。岡氏も岩佐氏も侍医で、御陪食に参内《さんだい》せられての出来事でした。そんなお席で、大礼服を召した患者とお医者たちと、どんなでしたろうと思います。


 十日が岩佐氏の葬送で、その日には大臣は帰京されたのですが、その後はだんだんと御様子が悪く、熱があるとか、舌根が腫《は》れたとか聞きましたが、四月二日についに薨《こう》ぜられました。大臣就任後八カ月ばかりでしたでしょう。


 午後一時に逝かれ、三時には聖上から西郷吉義《さいごうよしみち》氏を見舞として遣されました。大臣長男、軍医橋本監次郎の二人とともに、お兄様は接見なすったのです。その日の来診者は、青山胤通《あおやまたねみち》(東大教授)、本堂恒次郎(陸軍軍医)、岡田和一郎(東大教授)、平井政遒《せいゆう》(陸軍軍医)の四人でした。四日には石本邸へ通夜に行き、式場接待掛をせられました。大臣の後任は上原《うえはら》中将です。


 月日はただ過ぎゆきます。夫人は御丈夫そうに見受けられ、お子さんも大勢お持ちのようでしたが、暫く立った後に人伝《ひとづ》てに聞きましたら、夫人も御主人と同じ病気でお亡くなりになったそうでした。人の命ほどわからないものはありません。わからないといえば、この四十五年は明治大帝崩御《ほうぎょ》の年でした。
 

向島界隈

 向島《むこうじま》も明治九年頃は、寂しいもので、木母寺《もくぼじ》から水戸邸まで、土手が長く続いていましても、花の頃に掛茶屋《かけぢゃや》の数の多く出来て賑《にぎわ》うのは、言問《こととい》から竹屋《たけや》の渡《わたし》の辺に過ぎませんでした。その近く石の常夜灯の高く立つあたりのだらだら坂を下りた処が牛《うし》の御前《ごぜん》でした。そこからあまり広くもない道を二、三町行った突当りに溝川《どぶがわ》があって、道が三つに分れます。左は秋葉《あきば》神社への道で割合に広く、右は亀井邸への道で、曲るとすぐに黒板塀《くろいたべい》の表門があります。邸に添って暫く行った処に裏門があり、そこからは道も狭くなって、片側は田圃《たんぼ》になります。川の石橋を渡って、真直といっても、じきにうねうねする道を行くと小梅村で、私どもが後に引移った処でした。石橋に近い小さな家に、早くお国から出て来られたお父様とお兄様(長兄)とが住んでお出《いで》のところへ、お祖母様《ばあさま》、お母様に連れられて、お兄さん(次兄)と私とが来たのでした。お父様はお手医者として、殿様のお供で上京したのですから、ほんとはお邸内に住むはずですし、また手頃な家もないではありませんでしたが、その頃のお手当はいかにも僅《わず》かなので、お兄様の学費のこともあり、私どもも出て来ますと暮しがむつかしかろうからと、わざと近い邸外に住むことにしたので、患者も少しは来ますし、往診もちょいちょいありました。近所の婆さんが、煮焚《にたき》の世話をしてくれていたそうです。


 私どもが著《つ》いた明くる朝、お父様がお出かけになるのをじっと見ていた私は、お母様の耳に口を寄せて、「あのおじさんが、何か持って行くよ」といいました。
「まあ、この子は。お父様ではありませんか。」
 皆に笑われて、真赤になってお母様の蔭に隠れました。ゆうべはごたごたしていてよく分らず、一、二年の間にすっかり見忘れたのも道理です、お写真などもなかったのですから。袋戸棚から紙入を出して、懐《ふところ》にお入れになったのを私は見たのです。


 今まで広いところで育ったのに、庭というほどのものもなく、往来に向いた竹格子《たけごうし》の窓から、いつも外ばかり眺《なが》めていました。目に触れる何もかも珍しくて、飽きるということがありません。毎日通る人の顔も、いつか見覚えました。お邸の御家老の清水さんという人が、お家にお風呂《ふろ》はあるのでしょうに、毎日お湯屋へ行かれます。小雪の降る日にも湯上り浴衣《ゆかた》で、傘をさしてお帰りです。お母様が一度御挨拶《ごあいさつ》をなすったので知りました。著物《きもの》は持っていられません。女中でも取りに行くのでしょう。恰幅《かっぷく》のいい、赭《あか》ら顔の五十位の人でした。


 その頃のお湯屋は、長方形の湯槽《ゆぶね》の上に石榴口《ざくろぐち》といって、押入じみた形のものがあって、児雷也《じらいや》とか、国姓爺《こくせんや》とか、さまざまの絵が濃い絵具で画《か》いてあり、朱塗の二、三寸幅の枠が取ってあって、立籠《たちこめ》る湯気が雫《しずく》となって落ちています。そこを潜《くぐ》って這入《はい》るので、人の顔など、もやもやして分りません。どんな寒中でも、長くはいられないでしょう。けれども昔の人は熱い湯に這入りつけていましたし、それが幾分誇気味《ほこりぎみ》でもあったらしいのです。


 近くにはお湯屋がないと見えて、大勢人が行きます。拍子木《ひょうしぎ》の音が聞えるのは、流しを頼むので、カチカチと鳴らして、三助《さんすけ》に知らせます。流しを頼んだ人には、三助が普通の小桶《こおけ》ではない、大きな小判形《こばんがた》の桶に湯を汲《く》んで出します。暇な人は流しを取って、ゆっくりと時を過すのでした。


 女たちも子供連れなどは昼間に行きます。よく芸者などが客や朋輩《ほうばい》の噂《うわさ》をしていました。夜は仕事をしまった男たちが寄って来て、歌うやら騒ぐやら、夜更《よふけ》まで賑《にぎ》やかなことでした。


 御家老の清水さんの奥さんのお藤さんといいますのは、大きくなってから聞いたのですが、もと殿様のお部屋様《へやさま》でした。藩主は早く夫人が亡くなられて、お子様もなくてお独りでした。お手廻りのお世話をさせるために、江戸でお召抱えになったのがそのお藤さんで、当時はそんな邸向の奉公人ばかりを口入《くちいれ》する請宿《うけやど》があったのだそうです。どんな家の生れか知りませんが、年も若く、美しくて利発な人で、請宿では隠れた処にも痣《あざ》や黒子《ほくろ》のないように、裸体にして調べたとかいいました。女芸一通りは出来たので、お国に落ちついてからは、召仕《めしつかい》に習字のお手本を書いて渡したとか聞きました。


 お国のお山の上に社《やしろ》があって、何をお祀《まつ》りしてありましたか、家中の信仰も厚く、皆お参りをするのでした。それで心願の人たちが上げた額なども多い中に、松の木に藤の咲きかかった大きな額がありました。いつ誰が上げたのか、何の願だろうかと噂をしましたが、これは清水さんがお藤さんを慕って奉納せられたので、維新の騒がしさが静まって、殿様始め重《おも》な家来たちが東京住いになりました頃、御殿を下《さが》ったお藤さんは清水さんの奥さんにおなりになったものですから、これはきっと神様の御利益《ごりやく》だったろうといわれました。それまで清水さんは、久しくやもめでいられたのです。


 その後お邸では、年二回位家中の家族を呼んで饗応《きょうおう》せられるので、向島中の芸者が接待に出ました。そんな時など、家老の奥さんだというので、溜《たま》りの間《ま》に集って控えている女たちに、「皆さん、今日は御苦労様です」と、裾《すそ》を引いてずっと通りすぎる様子などは、さすがにそれだけの品が備《そなわ》っているといわれました。私などが幾らか人の顔立《かおだち》なども分るようになってから、ちらちら話を聞いていましたのに、背こそすらりとしていますが、色白というのでもたく、顔立もよいとは思われぬものですから、「まあ、あの方がお若い時はそんなに美しかったの」と、呆《あき》れたようにいいますと、お父様は笑って、「若い時の美人は猿になるというからなあ」とおっしゃいました。


 清水さんは御子息さんにお嫁さんもあり、お孫さんもおありでした。お父様の病家で、よくいらっしゃいます。御殿の話などが出ますと、「私が御殿におりました時には」などと、お藤さんは平気で話されるとのことでした。お藤さんはずっと後まで御丈夫で、お心易《こころやす》くしていました。お兄様の誕生日などに、団子坂の家へお出のことなどもありました。

 東京へ来ましても、学校へ通うのにはまだ間がありますし、そこらを見て歩きたいのですが、狭い家へ荷物が著いたり、それを片附けたりするので、なかなかどこへも連れて行ってもらわれません。それでも亀井家のお墓所弘福寺《こうふくじ》が近くにあるので、まずそこへだけはと、お祖母様とお母様とに連れられて、お参りに行きました。


 家を出て土手の方へ向って行きますと、左手は前に書いたお湯屋で、右手の広い空地《あきち》に傘屋がありました。住いは奥まっていて、広場が傘の干場でした。そこはきっと大きな家を壊した跡なのでしょう。地面に杭《くい》が一面に立ててあって、蛇《じゃ》の目《め》、奴《やっこ》、その他いろいろの傘が干し並べてありました。大きな字のあるのは商家からの頼みでしょう。小僧さんが二人、目くら縞《じま》の前掛を首からかけて、油だらけになって油引きをしていました。日が強く当るので、油の匂いがぷんぷんします。それだけにまた雨の日は、打って変って寂しいのでした。


 少し行きますと、左側は松平《まつだいら》という華族の邸でした。やはり黒板塀の門ですが、あまり大きくはありません。亀井家が四万三千石でしたから、それよりも石高《こくだか》が少かったのでしょう。でも御内福だという噂でした。松平という家は多いのですから、どこの大名なのか存じませんが、ここもお父様の病家でした。小さいお子さんを乳母《うば》が背負って、よく薬取りに来ました。そのお乳母さんが話好きで、お子さんもお父様に髯《ひげ》のあるのを怖《こわ》がらず、お菓子があると、「これはバンコ(犬)に遣ろうか、森さんに上げようか」などとおっしゃるのでした。その松平家へ往診なさいますと、奉書の紙に大きなカステラが三切れとか、立派なお菓子が五つとか出ます。ですから松平家へ往診と聞くと、お兄さんや私はそのおみやげをあてにして喜んだものです。お兄様のことは覚えません。多分もう寄宿舎でしたろう。


 松平家の正面が弘福寺です。門前に小さな花屋があって、本堂までずっと長い石畳の道でした。黄檗宗《おうばくしゅう》のお寺ですから、下にずっと瓦《かわら》を敷き詰めて、三方腰掛になっているのは支那風なのでしょう。御墓所は本堂の右手裏にありました。江戸で亡くなった方ばかりですから多くはありませんし、存外質素なのでした。お参りしてから、お祖母様とお母様とがおっしゃいました。

「もう国へ帰ることはあるまいから、内の墓所もここにしましょう。」
「百里もある遠方では御先祖のお墓参りも出来ないから、お寺へ頼んで見ましょうね。」
「静男に異存のあるはずもないのだから。」


 帰って相談した上、お寺へも頼み、お国の墓所の土を少し取寄せて、小さな標の石を建てました。私が小学へ通うようになってからは、お祖母様が散歩がてら送り迎えなどして下さる時、いつもお参りになりました。お祖父様《じいさま》は江戸からお国へお帰りの途中、近江《おうみ》の土山《つちやま》の宿でお亡くなりになって、その地へお埋めしたのですから、お国のはもっと古い仏様ばかりです。大震災後にお寺の墓地が移転することになって、亀井家のは全部掘上げてお国へ送られ、森家のは同じ宗旨のお寺をと探した末に、やっと三鷹村《みたかむら》の源林寺と極《き》まり、それまでに亡くなったお父様、お兄さん、お兄様のお骨を移しましたが、昔の小さな標がまだ源林寺の墓地の隅にあります。お祖母様、お母様のは御遺言で土山に埋めました。

 弘福寺のすぐ傍に牛の御前があります。ほんとの名前は牛島神社です。石の鳥居をくぐって社殿までの右側に、お神楽殿《かぐらでん》があって、見上げる欄間《らんま》には三十六歌仙の額が上げてあったかと思います。左側の石の手洗鉢《ちょうずばち》にはいつも綺麗な水が溢《あふ》れていて、奉納の手拭《てぬぐい》の沢山下がっているのには、芸者の名が多く見えました。それに並んで、実物よりもよほど大きいかと思われる黒い石の牛が蹲《うずくま》っていて、大きな涎掛《よだれか》けが掛けてあり、角もいろいろ結びつけてありました。境内からは、塀のすぐ上に堤の桜がよく見えます。社殿は古びた清素な建築で、賽銭箱《さいせんばこ》の上に吊《つる》した大きな鈴も黒ずんでいました。下った五色の布を引いて拝します。その後側の裏門を出ると、桜餅で有名な長命寺《ちょうめいじ》の門前で、狭い斜めの道を土手に上ると言問《こととい》です。


 牛の御前の向い側にしもた家《や》らしいのが二、三軒、その並びに芸者屋が一軒ありました。千本格子の入口に大きな提灯《ちょうちん》が下って、〆八《しめはち》という名が書いてあり、下地《したじ》ッ子《こ》とでもいうのでしょう、髪だけ綺麗に結った女の子が、襷掛《たすきが》けで格子を丁寧に拭《ふ》いていました。いつかお母様とその前を通りかけた時、人と立話していた芸者が、「お出掛けですか?」といって、寄って来ました。お邸へ来るので知っているのです。「お嬢さんですか?」と、しゃがんで私の両手を取ります。びっくりして、手を引込めようとしましたが離しません。「お遊びにいらっしゃいな」といい、「お学校への道ですからいいでしょう」といいます。私が土手下の小学校へ通い始めた頃でした。やっと別れた帰り路に、「〆八は愛嬌《あいきょう》があって、評判がいいのだよ」とお母様はおっしゃいましたが、私は何だか嫌《いや》でした。


 それから朝学校への道でよく逢います。あの人たちは朝は遅いかのように聞きましたのに、きっと牛の御前に朝詣《あさまいり》をするのでしょう。私を見かけると、大きな手を広げて通せん坊をします。道の片端を走抜けようとしますと、また寄って来ます。嫌がるのが面白いのでしょう。私は顔を真赤にして逃出すので、夢中ですから引掻《ひっか》いたかも知れません。すぐ傍の料理屋らしい家の長い板塀に附いて、学校への道を左へ曲りますと、大きな声で笑うのが後に聞えました。帰りは友達と一緒ですし、逢ったことはありません。あまり嫌ですから、水戸邸の方から行ったこともありましたが、道のりが倍もあって寂しく、それに時間もかかりますので、仕方なしに駈抜《かけぬ》けるのでした。


 その頃の私の学校通いの姿は変なものでした。手織縞《ておりじま》の著物《きもの》はよいとして、小さな藁草履《わらぞうり》は出入の人が作ってくれたので、しっかり編んで丈夫だからと、お国から持って来たのでした。鼻緒はお祖母様が赤い切《きれ》で絎《く》けて下さるのです。日の照りつける時は、傘を持たせると忘れたり破ったりするからと、托鉢《たくはつ》のお坊さんの被《かぶ》るような、竹で編んだ大きな深い笠《かさ》を冠《かぶ》ります。その頃お兄様は絵をお書きになったので、その笠には墨で蘭が画いてありました。赤い切で縫った太い紐《ひも》が附いていて、顎《あご》で結ぶのでした。荷物を斜めに背負って、ちょこちょこ出かけますと、茸《きのこ》が歩いて行くといって笑われますが、一向平気なものでした。その荷物は、読本と縦四寸横六寸位の小さな石盤《せきばん》とで、木の枠に石盤拭きが糸で下げてあります。遣いつけたら離されません。学校へ置いて来たらといわれても、いつも往《ゆ》き返りに背負っていました。石筆《せきひつ》に堅いのと柔かなのとあって、堅いのを細く削って書くのでした。


 学校は大きな料理屋の跡らしく、三囲《みめぐり》神社の少し手前でした。立木が繁って、大きな池があり、池には飛石が並んでいました。子供たちが面白がって渡っては、よく落ちたものでした。運動場はかなり広い砂地で、細い道を隔てて田圃でした。その隅に丸太が立っていて、牛島小学校と染めた旗が附けてありました。


 冬になりますと、男の子たちは柵《さく》から抜出して、田圃の稲株の間に張った厚氷を、石で割って持って来ます。お辞儀をしてそれを分けてもらってはしゃぶりました。よく中《あた》らなかったことと思います。


 教室の数はかなりあったようです。お兄さんは上の級にいられて、成績はいいがいたずらだといわれていました。今も覚えているのは読方の時間です。先生が一くぎりずつ読まれますと、二、三十人いる男女の生徒が、一緒に続いて読むのですが、妙に節を附けて読む先生の癖をまねて、その賑かなこと、学校の傍を通る人が立止るほどでした。

 少しして小梅村へ引移りました。二百余坪の地所に、三十坪ばかりの風雅な藁屋根の家でした。それまでは何しろ往来に近い手狭《てぜま》な家で、患者が来ますと困るからです。今度の家は大角とかいった質屋の隠居所で、庭道楽だったそうで、立派な木や石が這入《はい》っていました。人の話を聞いてお父様がお出かけになって、一度御覧になったらすっかりお気に入って、是非買うとおっしゃいます。曳舟《ひきふね》の通りが田圃を隔てて見えるほど奥まった家なのですから、私の学校へも遠くなるし、来る病人も困るだろうから、今少し出這入《ではいり》のよい場所を探したらと止めてもお聴きにならないで、とうとうそこになったのです。庭の正面に大きな笠松の枝が低く垂下《たれさが》って、添杭《そえぐい》がしてあって、下の雪見灯籠《ゆきみどうろう》に被っています。松の根元には美しい篠《ささ》が一面に生《お》い茂っていました。その傍に三坪ほどの菖蒲畑があって、引越した時はちょうど花盛りでした。紫や白の花が叢《むら》がって咲いていましたので、お母様が荷物を片附ける手を休めて、「まあ綺麗ですね」と、思わずおいいになると、お父様は、それ見ろとでもいいたそうに、笑って立っていられました。


 門前には大きな柳があり、這入った右側は梅林でした。梅林の奥に掘井戸があります。向島は湿地で、一体に井戸が浅いのですが、それでも水はよいのでした。お父様はお茶がお好きなので、水のよいというのをお喜びです。その井戸に被さるようになった百日紅《さるすべり》の大木があるのが私には珍しくて、曲った幹のつるつるしたのを撫《な》でて見ました。庭と井戸との境には低い竹の垣根があって、見馴《みな》れない蔓《つる》がからんでいますのを、「これは何でしょう」と聞きましたら、お父様は、「それは美男葛《びなんかずら》といってね。夏は青白い花が咲くのだ。もう莟《つぼみ》があるだろう。実が熟すると南天のように赤くて綺麗だよ。蔓の皮を剥《は》いで水に浸すと、粘《ねばり》が出るのを髪に附けるのだとさ。それで美男葛というのだろう」とおっしゃいました。


 柿の木もあり、枇杷《びわ》もあり、裏には小さな稲荷様《いなりさま》の祠《ほこら》もありました。竹の格子から外を見ているのと違って、ここでは勝手に遊ばれるので、学校の少し遠くなった位何でもないと思いました。お国を出てから今日まで我慢をしていらっしゃったのですから、お父様はお家の時はいつもお庭でした。

 賑やかな花の頃に、運動場からその花を見上げるばかりで、土手へはそんなに上りません。それでも風が吹くと、運動場は落花で真白になります。私たちは散った花びらを掻寄《かきよ》せて遊びました。女の子たちが続けて休むのを、病気かと思いましたら、掛茶屋へ手伝いに行くのだそうです。雨の日には皆来るので、それが分りました。大抵は近くの子たちですが、渡しを越して来るのも少しはあったようでした。花の咲いている間に、一、二度位は白髭《しらひげ》や梅若《うめわか》辺まで行って見ます。


 夏には流灯会がありますが、これは二、三日の間のこと、秋は百花園の秋草見物があり、「おん茶きこしめせ、梅干もさぶらふぞ」の招牌《かんばん》は昔ながらでも、それは風流の人たちが喜ぶので、小さな子たちには向きません。楽しみなのは渡しを向うへ越すことで、お休みの続く頃か、試験の済んだ跡などに連れて行ってもらいます。


 斜めの道を川の方へ下りますと、土手際に並んだ杭に、ざぶざぶと水のかかるところだけ苔《こけ》が真青に附いています。もやってある船に乗込んで、人の溜《たま》るのを待つ間はそわそわとして落ちつきません。やっと人が集ると、船頭が来て纜《ともづな》を解きます。「さあ出しますよ」と声を懸ける時、一度に、どやどやと乗込まれたりしますと、船がひどく揺れますから、小さくなってしゃがんでいます。


 川の真中へ出ると、船頭はゆっくり棹《さお》をさします。やっと落ちついて後を振返ると、土手の眺めがよいのです。花のある時は薄紅の雲が下りているようですし、人が混雑していても、遠くから見ては苦になりません。花を見ながら上下する屋根船もあります。花のない時も、桜若葉が青々と涼しそうに長く続いて、その間に掛茶屋の緋毛氈《ひもうせん》がちらちらと目に附きます。川には材木を積んだ筏《いかだ》が流れて来たり、よく沈まないことと思うほど盛上げた土船も通ります。下手《しもて》には吾妻橋《あずまばし》を通る人が見えます。橋の欄干に立止って見下している人もあります。そろそろ山の宿の方に近づきますと、綺麗に見える隅田川《すみだがわ》にも流れ寄る芥《ごみ》などが多く、それでも餌《えさ》でも漁《あさ》るのか、鴎《かもめ》が下りて来ます。


 岸へ上った辺は花川戸《はなかわど》といいました。少し行くと浅草聖天町《しょうでんちょう》です。待乳山《まっちやま》の曲りくねった坂を登った上に聖天様の社があって、桜の木の下に碑があります。また狭い坂を下りると間もなく、観音様の横手の門へ出ます。その辺にはお数珠屋《じゅずや》が並んでいたようです。まず第一にお参りをしようとお母様にいわれて、十八間《じゅうはちけん》というお堂へ上ります。大勢の人々に毎日踏まれて、板敷《いたじき》はすっかり減っています。御本尊の安置してある辺は暗くて、灯が沢山附けてはありますが、真黒な格子の奥なのですから、ただ金色に輝いているだけで、はっきりとは分りません。広い畳敷の上に坐って、頭を垂れて念じ入っている人たちがあります。一間丸位の大太鼓があって、坊さんが附いているのはどんな時に打つのでしょう。格子の前の長さ一丈余もある賽銭箱《さいせんばこ》へ、絶間《たえま》もなくばらばら落ちるお賽銭は雨の降るようです。赤い大提灯《おおぢょうちん》の差渡し六、七尺、丈は一丈余もあるのが下っています。「魚がし」と書いてあったようでした。梁《はり》に掛けてある額には、頼政《よりまさ》の鵺退治《ぬえたいじ》だとか、一つ家の鬼女だとかがあります。立派な馬の額にも、定めし由緒があるのでしょう。濡《ぬ》らして打ちつけたらしい紙礫《かみつぶて》が、額の面一面に附いていました。太い円柱に弁慶の指の跡というのがあって、そこへ指を当てて見る人もありました。安産のお守《まもり》を受けたり、御神籤《おみくじ》を引いている人もあります。御賓頭盧《おびんずる》の前で、老人がその肩や膝《ひざ》を撫《な》でては自分のその処をさすることを繰返しています。その木像は頭の形はもとより、目も鼻も口も分らず、ただすべすべしているのは、どれだけの人にさすられたのでしょう。それに涎掛《よだれかけ》などのしてあるのは妙な恰好《かっこう》です。


 お堂を降りた処には筵《むしろ》を敷いて、白髪の老婆のどこやら品のあるのが、短い琴を弾いて、低い声で何か歌っていました。小さな子が傍にいて、人の投げてくれる銭を拾います。琴は品のよい楽器で、立派なお座敷に似合うように思いましたのに、何という哀れな様子でしょう。琴糸は黄色なものと思っていましたのに、ひどく古びて灰色に見えますし、その音もさっぱり立ちません。前を大勢人が通るので、琴の上までひどい埃《ほこ》りです。お母様は、「お気の毒な」と、口の中でつぶやいて、そっと銭を筵の上に置かれました。


 隣りには砂絵を画《か》く人がいます。その男の前には、砂が綺麗《きれい》にならしてあり、傍には大きいのや小さいのや五色の砂を入れた袋が置いてあります。人が集りますと、何やら口上《こうじょう》をいいながら、袋から一握りの砂を出して、人の方へ向けてずんずん書き始めますが、字もあり絵もあり、その器用なのに誰も感心いたします。若い女の姿などを画いて、著物の模様にところどころ赤い砂を入れます。その内にあまり人が集って、苦しくなったので抜けて出ました。


 近くの居合抜《いあいぬき》に、大勢人がたかっています。鳩の餌を売るお婆さんの店が並んでいて、その上の素焼の小皿に、豆や玄米が少しずつ入れてあるので、その上へ鳩が来ると、短い棒でそっと追います。買ってもらって、人通《ひとどおり》の少い方へ蒔《ま》きますと、山門の上から見下していた鳩が、一度にぱっと羽音を立てて下りて来て、人に踏まれそうな処まで集ります。やっと歩く位の子供が、よちよち手を拡げて追っても平気です。すぐに食べ終えてまた舞上ります。誰もが少しずつ遣るものですから、参詣《さんけい》の多い日の夕方などには、もう下りて来ないとのことでした。


 お堂の左手に淡島様《あわしまさま》があります。小さな池に石橋が掛っていて、それを渡る時には、池の岩の上にいつも亀が甲を干していました。お堂の中には、小指の先ほどの括《くく》り猿《ざる》や、千代紙で折った、これも小さな折鶴《おりづる》を繋《つな》いだのが、幾つともなく天井から下っています。何を願うのでしょうか。


 淡島様の裏の方に、真白な毛色の馬が狭い処に入れられて、「御神馬《ごしんめ》」という札が掛けてあります。格子の前に、鳩のよりは少し大きい位の皿に餌が入れてありますが、遣る人はないようです。それを可哀そうに思いました。

 

 反対側に写真師の江崎があります。随分古くからそこにいるのだそうで、家内揃《そろ》ってよく写しに行きました。そこらあたりには楊枝店《ようじみせ》が並んでいます。


 見世物小屋《みせものごや》のある方へ行って、招牌《かんばん》を見て歩きます。竹の梯子《はしご》に抜身《ぬきみ》の刀を幾段も横に渡したのに、綺麗な娘の上るのや、水芸《みずげい》でしょう、上下《かみしも》を著《き》た人が、拍子木でそこらを打つと、どこからでも水の高く上るのがあります。犬や猿の芸をするのもあったようです。尤《もっと》も一々這入ったのではありません。中の見物席は、ただ地面に筵が敷いてあるだけとか聞きました。その裏手は一面の田圃でした。新花屋敷《はなやしき》が出来て、いろいろの動物が来たり、菊人形が呼び物になったのは、ずっと後のことです。一廻りしますと仲見世へ出ます。仁王門《におうもん》から広小路《ひろこうじ》まで、小さな店がぎっしりと並んでいます。大方玩具屋《おもちゃや》ですが、絵草紙屋《えぞうしや》などもありますし、簪屋《かんざしや》も混っています。絵草紙は美しい三枚続きが、割り竹に挿《はさ》んで掛け並べてありました。西南戦争などの絵もあったかと思います。役者のもあったのは、芝居町が近かったからでしょう。やはり玩具屋なのでしょうか、特別に小さいお座敷の模型、お茶道具、お勝手道具と、何でも小さい物ばかり並べてあるのを、飽きずに眺《なが》めたりしました。


 小路を這入った処に小料理屋があって、新栗のきんとんがおいしいというので、その時節にはよく立寄りました。お留守をした人におみやげにするのです。五重塔のある側に綺麗なお汁粉屋があって、そこのお雑煮《ぞうに》のお澄ましが品のいい味だというので、お母様は御贔屓《ごひいき》でした。お兄さんは、お餅が小さくて腹に張らないから嫌《いや》だといわれたとて、皆笑いました。雷門前では、お父様へのおみやげに、かりん糖や紅梅焼を買います。お父様はお茶をお飲みの時、「ちょっとした菓子よりこの方がよい」と、和三盆《わさんぼん》を小匙《こさじ》に軽く召上るのですから、おみやげはほんのお愛想です。


 それから、浅倉屋へ寄ります。ここは名高い古本屋ですから、小さい子供などに用はないのですが、教科書の取次などもしていましたかしら。店の三方は天井まで棚を造って、和本がぎっしり積上げてあるのを、尊い物のように仰いだ覚えがあります。そこらには人力車が客を待っているので、「乗って行くかい」とおっしゃいますが、「まだ歩けます」といって、吾妻橋を渡ります。その真中に立って見渡しますと、さっき乗った渡舟が上流をゆるゆる漕《こ》いで通ります。鴎が幾つか、せわし気に舞っていたりしました。
 

薬師様の縁日

 

 私たちが向島から千住《せんじゅ》へ引移ったのは明治十三年でした。移った家には区医出張所という招牌《かんばん》が出してありましたが、それが郡医出張所と変り、ついでまた橘井堂医院となりました。最初はどこからかお医者が出張するのでしたろう。お父様も週に二回ずつ向島から通っていられましたが、あの長い土手をうねうねと、鐘《かね》が淵《ふち》から綾瀬《あやせ》を越して千住まで通うのは、人力車でもかなり時間がかかる上に、雨や風の日には道も案じられるので、やがてお邸の諒解《りょうかい》を得て、引移ることになったのです。いつか向島にも五、六年住馴《すみな》れて、今さら変った土地、それも宿場跡などへ行くのは誰も彼も気が進まず、たとえ辺鄙《へんぴ》でも不自由でも、向島に名残《なごり》が惜しまれるのでした。


 千住の家は町からずっと引込んでいて、かなり手広く、板敷の間が多いので、住みにくいからと畳を入れたり、薬局を建出したり、狭い車小屋を造ったりしました。ちょうどその辺に大きな棗《なつめ》の木と柚《ゆず》の木とがあったので、両方の根を痛めないようにと頼んだのでした。向島での病人は、みんな居廻《いまわ》りでしたが、ここでは近在から来る人が多いので、車を置く場所を拵《こしら》えたのです。代診二人、薬局生一人、それに勝手を働く女中と、車夫とが来ました。今までは家内だけで暮していたのに人が殖えて、お嬢さんといわれるのはよいのですが、「書生さんに笑われますよ」とか、「女中が見ていますよ」とかいわれるのが窮屈でした。

 

 庭を正面にした広い室に大きな卓があって、その上には、いつも何かしら盆栽が置いてあります。片隅には診察用の寝台、その傍の卓にはいろいろの医療器械や電気治療具などもありました。痺《しび》れる病人に使うのでしょう。皆ざっとした物でしょうけれど、幼い私には目新しくて驚かれました。

 

 薬局は二方硝子《ガラス》の室で、幾段かの棚があり、大小さまざまの瓶が並んでいました。小さな戸棚が取附けてあって、そこには劇薬が並べてあるので、錠が懸けてありました。丸薬、膏薬《こうやく》などの製剤具もありました。

 

 丸薬では向島時代が思出されます。いつも夜なべ仕事に拵えるので、お父様がお薬を調合してお出しになると、大きな乳鉢《にゅうばち》でつなぎになる薬を入れ――ヒヨスもはいったようでした――乳鉢で煉《ね》り合せ、お団子くらいのよいほどの固さになった時、手に少し油を附けて、両手で揉《も》んで、右の親指の外四本の指先に少しずつ附けて、左の掌《てのひら》で丸めるのです。かなり熟練が入るのですが、お母様はお上手《じょうず》でした。私などが手を出して見ましても、とかく不揃《ふぞろい》になるので嫌われます。八畳の間の吊《つり》ランプの下でするのですが、その片隅に敷いた床の中で、ばらばらという幽《かす》かな音を聞きながら、いつしか私は睡《ねむ》るのでした。翌日はそれを拡《ひろ》げて蔭干《かげぼし》にし、硝子の大きな瓶に一杯にして置いて、量を計っては患者に渡します。

 

 千住の家では、凸凹《でこぼこ》の金属の板を張ったのに、細長くした材料を横に入れ、同じような板の両端に把手《とって》の附いたので押して、前後に動かしますと、二、三十粒の丸薬が一度に出来ます。大変重宝のようですが、手製の方がしっかり出来るということでした。しかし今は薬局生が拵えますから構いません。

 

 きょうは膏薬の原料を拵えるというと、外へ火を持出して、鍋《なべ》に白蝋《はくろう》を入れて煮立てます。外にも何か這入《はい》るのかも知れません。十分に溶けた時に鍋を下して、さめてから器に入れて置きます。単膏という札が貼《は》ってあります。水銀とか、芫菁《げんせい》とか、それぞれ薬を入れて煉るのです。よく膏薬篦《べら》といいますが、なかなかしっかり出来ていて、それでよくしないます。まあ今のナイフのようです。

 

 或時書生さんがお勝手まで駈《か》けて来て、真赤な顔をして、頻《しき》りに嚔《くさめ》をして苦しそうなので、「どうなすったの」と聞きましたら、「今薬局で芫菁を磨《す》っているのですが、どんなに我慢をしても、あれには叶《かな》いません」とのことで、それから暫《しばら》く外へ出て休んでいました。


 夜お父様にお話したら、「それはその人の体質だよ。知らずに芫菁のいる木の下に休んでも、すっかり負ける人もある」とおっしゃいま

した。芫菁は発泡に使うのです。その書生さんは山本鼎《かなえ》さんのお父さんで、修業中に手伝いをしていられたのでした。


 庭には立木が多いのですが、その間の何もない処を選んで、高い台の上に備前焼らしい水瓶が据えてあります。平常は栓《せん》がしてありますが、雨が降って来ますと、亜鉛の漏斗《じょうご》の大きなのを挿入れます。夕立の激しく降る時にはひどい音がしますし、霰《あられ》などは撥返《はねかえ》って、見ているのが面白いのでした。雨が止みますと取下して、硝子の瓶に相当の漏斗をさし、濾紙《こしがみ》を敷いて静かに濾《こ》すと、それはそれは綺麗な水が出ます。真水でいけない時に、蒸溜水の代りにそれを使うのでした。


 移転後暫《しばら》くするにつれて、患者が来るようになりました。午後の往診も度々あって、代診の人たちもなかなか忙しく、自然収入も多くなるのでしょう。そんなことが続くと、お父様は、「きょうは奢《おご》ろう」と、皆を連れてお出かけです。私も一度だけ連れて行かれました。その時は浅草でした。私はお父様と一緒に家の車に乗り、書生さんたちはそこらで拾って乗ります。男ばかりだからと、黄八丈《きはちじょう》の著物《きもの》に繻子《しゅす》の袴《はかま》でした。お母様たちと出る時は、友禅のお被布《ひふ》などを著せられます。その日はまず江崎へ寄って写真を撮りました。それからそこらの料理屋へ這入って、皆にお飲ませになります。お父様は一猪口《ひとちょく》くらいしか召上らないので、私が口取《くちと》りを食べている傍で、皆の様子を機嫌よく見ていられます。車夫もその日は優待です。お母様のおみやげは折詰でした。


「当分はまた働いてくれるよ」と、後でお父様はおっしゃいました。出来て来た写真を見ますと、皆まじめな顔をして、袴をはいて並んでおり、私はおかっぱ頭を少しかしげて、お父様にくっついています。車夫は背が非常に高いので、端に立っているのが、鎗《やり》を立てたようだと、皆で笑いました。その写真は近年まで持っていましたが、今あったらさぞ面白いでしょう。
 私の通う小学校までは、一町ばかりです。二階建の校舎がまだ新しくて、さっぱりしていました。最上級でしたが、来る人は少くて、男生徒が五、六人、女は私を入れて僅《わず》か三人でした。一人は同じ町の外科病院の娘さんで内田さんといい、一人は千住《せんじゅ》名物軽焼屋《かるやきや》の娘さんで牧野さんといいました。二人とも銀杏返《いちょうがえ》しに結っています。私一人は長く伸したおかっぱでした。

 

 その頃初めて縁日を見ました。学校の近くにある薬師様で、八日の縁日には賑わうのでした。近在から来ている女中の定が、目が少し赤いから、お薬師様へお参りしたいといいましたら、お母様は、「山本さんにお頼みして、お薬を拵えておもらいよ。だが、そこらが片附いたら、お参りはしてお出《いで》。賑かだろうから」とおっしゃったので、私も附いて行きました。


 夜は外へは出ませんでしたから、灯の一杯にともったのが綺麗でした。薬師は左の方なのですが、ひどく明るい右の方へ行きますと、道の右左ともに二階建の大きな家が並んでいます。それは貸座敷なのです。表二、三間は細い格子《こうし》になっており、中は広い座敷で、後は金箔を押した襖《ふすま》で、ちょうど盛粧をした女たちが次々と出て並ぶところでした。近寄らなくても、往来からよく見えます。どれも大きな髷《まげ》に結って、綺麗な簪《かんざし》をさし、緋の長襦袢《ながじゅばん》に広くない帯、緋繻子の広い衿《えり》を附けた掛《かけ》という姿です。すっかり順に並びますと、その前へ蒔絵《まきえ》の煙草盆と長い煙管《キセル》とを置きます。これを張見世《はりみせ》というのでしょう。右の出入口は広い板敷で、上には大きなランプが幾つか吊してあり、若い男が角の大きな下足札《げそくふだ》に長い紐《ひも》を附けたのを二、三十本も右の手に持って、頻りに板敷を叩《たた》きます。終りに板の間の上をうねうねと揺すぶって、鼠鳴《ねずみなき》をするのです。それから外へ出て、格子を叩いています。入口には三所ほどに、高く盛塩《もりじお》がしてありました。縁起を祝うのだそうです。内田病院の前まで行きましたが、あっちでもこっちでも下足札の音がします。遅くなるからと引返して、左の道を急ぎました。


 それから程なく、往来から家の中の見えるのはよくないからと、格子の前に白い日覆《ひおおい》のような物を掛けるようになりました。

 

 それらの二階建の家に混って、大きな仕出屋《しだしや》がありました。大勢の男女が働いています。これは貸座敷ばかりへ食物を入れるので、ここらでは台屋《だいや》といいました。食物は足附きの大きな台に幾つでも並べて、被《おお》いなどはしないで、それを男が頭の上に乗せ、柄の長い提灯で足許《あしもと》を照しながら、さっさと歩きます。古い絵などにあるのと全く同じで、珍しく思いました。その食物を台の物というのです。


 薬師様が近くなると、ぞろぞろと人が続いて、あたりにはカンテラの油煙《ゆえん》が立昇ります。雨も降らないのに、恐ろしく大きな傘を拡げて、その下で飴屋《あめや》さんが向鉢巻《むこうはちまき》で、大声でいい立てながら売っています。「飴の中から金太《きんた》さんが飛んで出る。さあ買ったり買ったり。」
 白い飴の棒を刃物でとんとんと切りますと、おどけた顔が切口に出るのを面白く見ていました。


 傍に金魚屋がいます。大きな小判形の桶《おけ》を幾つか並べた中に、金魚が沢山泳いでいます。中でも丸々と太って、尾が体の倍ぐらいもあるのはリュウキンというのでしょう。品があって見事ですが、そんなのは幾つもいません。「立派だねえ」と、見とれていました。小ぶりなのが一杯いるのも綺麗ですし、鮒尾とかいって、尾の小さいのが、はしっこく元気に動きます。金魚屋は硝子の薄い丸い玉を、細い赤い糸で編んだ目の荒い網に入れ、水を少し入れて渡します。私も金魚を買うことにしました。小さな叉手《さしゅ》を出して「どれでも欲しいのをおすくいなさい」というのですが、なかなか思うようにすくえません。とうとう金魚屋さんに頼みました。落したら大変と、大事に提げて帰ります。お座敷の卓の上の鉢植と並べて、飾りましょうと思いながら。


 美しいのは簪屋さんでした。横四、五尺、両側は三尺足らずの屋台で、障子のような囲いをして、黍殻《きびがら》のようなものを横に渡したのに、簪が一杯刺し並べてあります。外に小さな箱に入れて、立てかけたのもありますし、小さな硝子の簪などは、幾本かを一緒に筒に立ててあります。大きな撮細工《つまみざいく》の薬玉《くすだま》に、いろいろの絹糸の房を下げたのが綺麗です。赤や黒塗の櫛《くし》に金蒔絵したのや、珊瑚《さんご》とも見える玉の根掛《ねがけ》もあります。上から下っているのは、金銀紅の丈長《たけなが》や、いろいろの色のすが糸です。この店には、小さな吊しランプが二つも下げてありました。売る人はその前に腰を掛けて、煙草を吸っています。立止って動かないのは女ばかりです。


 それから地面に直ぐに筵《むしろ》を敷いて、玩具《おもちゃ》類を盛上げているのもあります。

 

 また面白いのは虫売で、やはり小屋掛けですが、その障子は市松《いちまつ》模様に貼《は》ってあり、小さな籠《かご》が幾つともなく括《くく》りつけてありました。さまざまの虫が声を揃《そろ》えて鳴いています。野原や庭で鳴いているのは、近くへ寄っても鳴きやめるのに、雑沓《ざっとう》の中でよく鳴いていることと思います。その店にはなお、大きな籠に黒絽《くろろ》を張って、絵の具で模様を画いたのに、蛍が一杯這入っていて、その光が附いたり消えたり、瞬《またた》きするようで綺麗でした。やはり黒絽で張った小さいのが、まだ幾つも下げてありました。

 

 人の大勢たかっている処は見ないで行きましたが、道の傍の土の上に筵を敷いたのに小さな子を寝かして、傍に親らしいのが坐って、お辞儀をしているのがあります。子供は眠っているのか、じっとしています。「可哀そうね」といいましたら、定は笑って、「子供はどこからか借りて来たのだそうで。肥えた子は安くて、痩《や》せたのが高いといいます。」これを聞いた私は、「まあ」と呆《あき》れました。哀れに見える方がお金が貰《もら》えるのでしょう。


 もうそろそろ外れという処に植木屋がありました。小さな草花の鉢が並んでいるかと思いますと、根に土を附けたまま薦《こも》で包んで、丈の一間くらいもある杉とか、檜とかいう常磐木《ときわぎ》も廻りに立ててあります。如露《じょうろ》で水を沢山にかけるので、カンテラの光が映ってきらきら光ります。


 そこの正面がお堂なので、定がお参りする間待っていますと、植木を買おうとしている人もありますが、始めは法外なことをいうらしく、買手の方でもむやみに値切ります。それでは売られぬという、買われぬという、さんざん押問答の末に立去ろうとしますと、急に、「負けます、負けます」と呼止めて、やっと話が纏《まとま》ります。初めからお互に相当の値をいったらと思いました。でもそれが縁日の景気になるのでしょうか。


 裏門を出ると狭い土手です。定がいいました。
「ここからずっと行くと私の家の方です。」
「西新井《にしあらい》といったね。」
「ええ、お大師様のある処で、大きな植木市が立ちますよ。そら、すぐそこが軽焼屋のお店です。」
 毎日学校で席を並べていても、お家などは知らなかったのです。後に上野広小路にお店が出来て、帳場に坐っていた丸髷《まるまげ》のおかみさんがその人でした。


 小橋の方へ帰りますと一杯の人だかりで、高い声が聞え、三味線の音がしています。
「ああデロレンですね」と、定はいいました。どこか近くに奉公していたと見えて、何でもよく知っています。


 細い流のある辺に高い台を拵えて、男が頻りに語っているのは、宮本武蔵《みやもとむさし》の試合か何かのようでした。傍の女の三味線は、そのつなぎに弾くだけで、折々疳走《かんばし》った懸声《かけごえ》をします。集った人たちが笑ったりするのは、何かおかしなことでもいうのでしょう。


 遅くなるから、大抵にして帰りましたが、目を円くしてその話をしましたら、ちょうど土曜日で、本郷から来ていたお兄さんが笑って、「五十稲荷《ごとおいなり》の縁日へでも連れて行ったら、目を廻すよ」といわれました。けれどもその名高い縁日は見ませんでした。五日と十日とがその日だったのでしょう。


 或日玄関に人が来て、書生さんといつまでも、話をしています。気短かな書生さんは、だんだん声高になり、無愛想にもなります。その人は、「どうかお薬をいただかして」と繰返しているようです、お母様が呼んで聞きましたら、「いえ、お宅に家伝のお薬があるでしょうといいます。そんなものはないといっても聞きません。それはあなたが知らないのです。年寄がそういいます。遠方からわざわざ来たのですから、先生のお帰りを待って戴《いただ》いて行くというのです。田舎の人は実に強情《ごうじょう》で困ります」と、さも不平らしくつぶやきます。


「まあそう一概にいわないで、気の済むようにして上げたいものですね」とお母様のおっしゃるのに、傍からお祖母様が、「それは『ろくじん散』をいうのではないかえ」といわれます。
「ほんとにそうかも知れません。聞いて見ましょう」と、その人に逢って聞きますと、やはりそうなのでした。
「よく聞伝えて来て下さいました。お年寄のおっしゃるのは御尤《ごもっと》もです、お国にいた時には随分出たお薬ですから。」


 書生さんはそっちのけです。まだ座敷の隅にある百味箪笥《ひゃくみだんす》――今は薬ばかりでなく、いろいろの品の入れてあるその箪笥から、古い袋を取出して、もう薬研《やげん》にかけて調合はしてあるのですから、ただ量だけを計って、幾包かを渡しますと、「さぞ年寄が喜びましょう」と、にこにこして帰りました。


 後で聞きましたら、それは何代目かの人の発明で、鹿の頭の黒焼を基にしたのだそうです。胃腸の薬で、持薬にするとのことでした。一藩中どこの家にも備えてあって、家伝の妙薬といわれ、あまりに需要が多いので、幾ら山国でもなかなか原料が間に合いません。山蔭に竈《かまど》を据えて、炭を焼くようにして、始終見廻るのでした。頼んだ人夫《にんぷ》に心懸けのよくないのがあって、そっと牛の頭を混ぜて持って来て、そのためにひどく面倒になったことがあるそうです。今もチャーコールなどというのがありますから、きっと効《き》き目があったのでしょう。


 車小屋が出来る時、板が間に合わないので、少しの間葭簀《よしず》を引いて置きましたが、やがてそれを捲《ま》いたのが、片隅に寄せてありました。茶の間の前の軒に雀《すずめ》が巣をかけて、一日幾度となく、親雀が餌《えさ》を運びます。早く夕御飯をしまった私は、少しの米粒を小皿に取って、右の葭簀の一本を抜いて来て、その先に附けて巣のある辺へ出しましたら、すぐに銜《くわ》えて這入りました。それが面白いので、毎日極《き》まって遣りますと、時刻が来ると親雀の方で、軒先にいて私を待つようになりました。それが幾日も続きました。


 或日軒端《のきば》にけたたましい音がするので、何事かと思って見上げましたら、親雀が気が狂ったかのように羽ばたきして、くるくる廻ります。ただ事ではないと思って、書生さんを呼びました。「きっと蛇です」といいます。「いつ来たのでしょう」「どこにいるの」「早く追って」などといいますと、書生さんは田舎から来て、蛇などには馴れていると見えて、短い棒を手にして梯子《はしご》を登って行って、樋《とい》の中にすっかり嵌《は》まって巣を狙《ねら》って、逃げようともしない蛇を、やっと追立ててくれました。蛇が動き出して、客間の軒へ移りましたので、棒を入れて撥《は》ねましたら、ばたりと庭へ落ちました。それは一間足らずの青大将だったのです。
「殺しましょうか」と書生さんがいいます。

「田圃の方へでもお逃しなさい」と、蛇の大嫌いなお母様は、もう奥へお這入りです。

 

 蛇は庭を横切って裏の方へ行きますから、裏門を開けて見ていました。蛇がずるずるとそこの溝川《どぶがわ》へ這入ったかと思うと、今まではそれほどいようと思わなかった蛙が一度にがあがあ鳴出して、潜《もぐ》るのもあれば、足を伸して泳ぐのもあり、道へ飛上るのもあって、大騒ぎです。蛇は勢よく鎌首《かまくび》を立て、赤い舌を吐いてあちこちします。その気味の悪いこと。その辺の子供たちや、通りがかりの人が立止って見ています。蛇は蛙を追い追い水を伝わって遠退《とおの》きます。大勢の人たちもそれに連れてぞろぞろ行ってしまいました。

 

 明治天皇の東北御巡幸の時は、千住方面から御出発でした。広くもない往来は、朝の内から厳重な警戒です。千住まで皇后陛下の御見送りがありました。それで学校はお休みだったのでしょう、私は通りへ出て、橘井堂医院の大きな招牌《かんばん》の蔭から覗《のぞ》いて見ました。そこらの人たちが並んでいます。赤筋の這入った服の騎兵が、鎗《やり》を立てて御馬車の前後を警固して行きます。騎兵の人々に遮《さえぎ》られて、よく拝されません。やがて皇后陛下の御馬車が近づきました。折よく辺りに人もいませんかったので、御馬車の中も幾分見えました。御《お》すべらかしのお髪《ぐし》、白衿《しろえり》にお襠《うちかけ》、それらがちらと目の前を過ぎました。御陪乗の人はよく見えません。続くお馬車に、やはり御すべらかしが二人乗っていられました。それからまだ次々と御供が続きます。御小休所は三丁目の中田屋という、北組第一の妓楼の本宅で、店とはすっかり別になっていて、大層立派な建築のように聞きました。


 お父様は平生《へいぜい》決して妓楼へはいらっしゃらないのですが、その折は前以て病気の人でもあってはと、お出になったかに聞きました。
「外に場所はないのかねえ」「何だか勿体《もったい》ないような気がする」などと話合いましたが、土地がらだけに、何かある時に勢力があって、指折られるのは妓楼なので、致方《いたしかた》なかったのでしょう。


 その頃お兄様は陸軍に出ていられました。極った時間にお帰りなのに、それが後れて、少し薄暗くなって来ますと、私はもうじっとしていられません。通りまで出て、招牌の蔭から往来を見詰めています。そこの角は河合という土蔵造りの立派な酒屋で、突当りが帳場で、土間《どま》の両側には薦被《こもかぶ》りの酒樽《さかだる》の飲口《のみぐち》を附けたのが、ずらりと並んでいました。主人は太って品のいい人でした。後に河合の白酒というのが出来た時に、そこの家かとも思いましたが、聞いても見ませんでした。
 その隣りは天麩羅屋《てんぷらや》でした。廻りは皆普通の店ですのに、そこだけが一軒目立っていました。註文《ちゅうもん》でもあるのか、盛《さかん》に揚げて、金網の上に順よく並べているのを遠くから見ていますと、そこへ一人の男が来て、いきなりそれを一つ撮《つま》んで、隣の酒屋へ入りました。店の人は心得たもので、伏せてあるコップをゆすぎ、一つの樽の飲口から小さな桝《ます》に酒を受けて、コップに移して渡します。立った男は天麩羅を一口食べては酒を一口飲み、見る間に明けて、さっさと出て行きます。私はただ呆れて見ていました。


 往来の遥《はる》か彼方《かなた》から、菊の葉の定紋《じょうもん》の附いた提灯《ちょうちん》がちらと見えますと、私はすぐ家へ向って走ります。けれども車夫は足が早いのですから、とても駈抜《かけぬ》けられないと思った時は、途中にある横道の河合の蔵の蔭に這入って遣り過します。狭い道ですから、人力車が通る時は、傍の垣根にぴったり附いていないでは危いくらいです。門灯の下で車夫は汗を拭《ふ》き拭き笑っています。お兄様は、玄関の太い黒光りのする大黒柱《だいこくばしら》に倚《よ》りかかって、肋骨の附いた軍服のまま、奥へも行かずに立っていられます。
「詰らないことをするものではない。危いではないか。暗くなってから通りへ一人で出てはいけないよ」と、むつかしい顔をしておっしゃるので、それからは家で待つことにしました。


 その頃毎朝御出勤前に牛乳をお飲みになるのでしたが、時間までになかなか間に合いません。それにあまりお好《すき》でもないと見えて、追っかけて玄関へ持って来ても、よく手を附けずにお出かけです。その頃ですからコーヒーはないのでしょう。どうかしてお飲ませしようと、いろいろのものや葡萄酒なども入れたりしたらしいのですが、お見送りして引返すと、大黒柱の許《もと》に、お盆に乗せた薄紅色の牛乳があったことなどを思出します。


 私どもが他へ移った後には、その敷地に河合の土蔵が建ったように聞きました。
 

花園町の家

 

 私のような年になると、もはや未来はないと同じですから、思出すのはただ過去のことばかりです。
 兄が亡くなられて三十余年になりますから、その壮年の頃といえば六十余年前になるでしょう。最初に兄が一家を構えたのは根岸最寄《もより》で上野御隠殿下《ごいんでんした》の線路のすぐそばの新築の家でした。上野の坂下の方から曲り曲って這入《はい》るのです。あたりは広々としていますし、間取も日当りも好いので、探し当てた次兄はお得意でしたが、すぐ傍を通る汽車をそれほどにも思わなかったのでしょう。


 私が始めて尋ねた時には、千住からお母様が職人を連れて来ていられました。間もなく輿入《こしい》れなさる新嫁さんのお荷物は、持って来てもらわぬようにとはいってはありますけれど、あちらはお家柄だから幾分の心構えはしなければというのでした。
「千住の家も気になるから」と、まだお兄様のお引けにならぬ夕方早くにお帰りです。「では私もそろそろお暇《いとま》にしましょう」といいますと、次兄は、「何かおいしそうなものをこしらえて置いてお帰り」といわれます。脇田という書生と臨時雇の馴《な》れぬ女との作ったものでは満足出来ないでしょう。お母様が千住からお持ちになったものはあるのですけれど、有合せの材料で何か作って、暮れぬ中にと急ぎます。乗物は人力車しかないのですから。


 出際《でぎわ》にまたしても地響をさせて通る汽車に驚いて、「よくお兄様は我慢なさるのね」といいますと、次兄は、「嫌だろうけど、外になかったから」と、割合に平気です。縁側から見ますと、向いの右手に御隠殿の急な坂の片端が見えるのでした。汽車は目の前を通り過ぎます。


 御婚礼の日には、私は風を引いて出ませんかった。新婚のお二人は、家へ尋ねて下さいました。袿姿《うちかけすがた》の立派なお写真を見て、式に伺われなかったのを残念がりました。


 その後風が癒《なお》ってお尋ねした時は、新しいお荷物が並んで、床の間には袋をかけたお琴や三味線もあり、老女と女中とがいて賑やかでしたが、お兄様も次兄もまだお帰りでなく、どこにも馴染《なじみ》の顔は見えません。お姉《ね》え様《さま》は優しく待遇して下さるけれど、何だか落ちつきませんかった。


 そこへお客です。「榎本の叔母《おば》です」と仰しゃいます。老女に髪を結ってもらいに来たとのお話でした。品のよい太り気味のお方でした。
「買物もありますから」と、その日は急いでお暇しましたが、お兄様は間もなくその家をやめて、上野の山下にある赤松家の別邸へ移られました。あの汽車の音には、やはりお困りでしたろう。その家には前後二回伺っただけでした。


 東照宮下から動物園の裏門の方へ曲って、花園町というのに今度のお家があります。山を右にして左側がお邸《やしき》です。もと上野山へ納める花を造っていたとのことですが、日当りはあまり好くないようですから、大した花は出来なかったでしょう。生垣《いけがき》の間の敷石を踏んで這入るのでした。右へ曲って突当りがお玄関で、千本格子の中は広い三和土《たたき》です。かなり間数があったようで、中廊下の果の二間がお部屋、そこから上った二階がお書斎でした。八畳位でしたろうか、折廻しの縁へ出て欄干に寄ると、目の下の中庭を越して、不忍池《しのばずのいけ》の片端が見えます。眺めがよいというのではありませんが、あの頻繁《ひんぱん》に目の前を汽車が往復した家とは比較になりません。ただ夜更《よふけ》には動物園の猛獣の唸声《うなりごえ》がすると、女中たちはこわがりました。


 お部屋へは、よくお客が見えます。それが皆長座なさるのです。そこで始めて落合直文《おちあいなおぶみ》氏や市村※[#「王+贊」、第3水準1-88-37]次郎《いちむらさんじろう》氏などにお目にかかりました。裏の窓から少し離れた二階家に、たしか大沼枕山《おおぬまちんざん》という方が患っていられました。体が御不自由の御様子で、附添《つきそい》の人の動作がよく見えます。戸が皆開け放されているので見通しです。いつもお出になる賀古《かこ》さんは顔を顰《しか》めて、「あんなになりたくないなあ」といわれましたが、後年お望どおり突然ともいうべき御容体で、御自分はお亡くなりになりました。


 或時お兄《に》い様《さま》は風邪気《かぜけ》だといって寝ていらっしゃいました。下のお部屋です。そっと顔を出して、「いかがです」といいましたら、目くばせをなさるので、その方を見ますと、鳩が二羽来ています。こんな狭い庭にと思いましたが、清水堂からでも下りたのでしょう。じっと見ていらっしゃるので、手近にあった筆をとって、

 


鳩ふたつあさりて遊ぶ落椿《おちつばき》
    あかき点うつ夕ぐれの庭

 


と懐紙に書つけて「ただこと歌でつまらないでしょう」といいましたら、「このお茶と同じだね」と仰しゃいました。そこにあったお茶はさめて、色も香もないのでしたから、思わず笑ってしまいました。


 今度の家には弟も同居して、神田《かんだ》の学校へ通っていますし、赤松さんのお妹さんが二人、皆きれいな方でしたが、やはり来ていられます。大勢の家族ですから、部屋数はあっても、食事の時などなかなかの騒ぎです。下宿していた次兄も大抵来ていられて、夜など家人を集めて声色《こわいろ》をおつかいになります。団十郎《だんじゅうろう》がお得意でした。お兄様はお厭《いや》だろうと思いますのに、次兄はそれでも気軽にお兄様の御用をあちこちなさるので、「篤《とく》、篤」といって、御機嫌は悪くもありませんかった。


 お妹の勝子さんと仰しゃるお嬢さんは元気な方で、後からお兄様に飛びついたりなさいます。私などは幼い時から、お兄様は大切の方と、ただ敬ってばかりいるのでしたから、心の中でまあと思いましたが、お母様など、「登志子さんもあんな気風だったら」など仰しゃるのにまた驚きました。

 

 お客様でいつも夜が更けます。その頃西洋の詩を訳して『国民之《の》友』へ寄せることになって、お兄様が文字と意味とをいって、それぞれにお頼みになります。中には意味だけいって、お自由にと仰しゃるのもありました。名のある方にまじって、私のような何も知らぬ者が片隅に首をかしげていた様子を思いますと、いくら昔のことでも背に汗が流れます。


 知らぬ間に時が過ぎます。電話もない頃ですから、家から迎いの車が来ます。更けて寂しい道を車に揺られて、口の中で出来かけの訳詩を呟《つぶや》きながら帰るのでした。雨の日なども行って、転んで著物《きもの》を汚して、お姉え様のお召を拝借して帰ったことなどもありました。


 そろそろ暑くなった頃の或土曜日に行きましたら、相変らずのお客です。「好いお茶碗《ちゃわん》はお人数に足らないし、お菓子もどうかと思う」と、お姉え様はおろおろしていらっしゃる。広小路まで出なければ何もないのでした。


 そこへお母様が見えました。「そんなに心配なさらなくてもいいでしょう」と、傍に店を開いたばかりの氷屋で、大きい器に削り氷を山盛り買って来させて、別の器に三盆白《さんぼんじろ》を入れ、西瓜《すいか》の三日月に切ったのを大皿に並べさせて、「これだけ出して、後は捨ててお置きなさいまし。寒い頃なら好物の焼芋にするのだけれど、招待したお客ではなし、間に合えばいいでしょう」と、削り氷に三盆白をかけて、私どもにも下さいました。気を揉《も》んだ後なので、お姉え様もおいしそうに召上ります。
「赤松などではお客があっても、家内の者がお相伴《しょうばん》するのではありませんから。」
「それはお客に依り、時に依ります。どんなものでも皆で食べれば結構です。」
 そんな話が交されました。


 後になって賀古さんなどがお出になり、寒い日などでお酒が出ても、湯豆腐位でお済ませになるし、それで誰も不服らしくはありませんかった。


 お祖母様が新嫁さんが見たいと仰しゃるのはお道理と、ちょうどその頃千住にお医者の会があって、お兄様に何かお話をといわれていたので、御一緒に車を並べてお出かけでした。お医者の方々はお兄様のお話を聞くために超満員だったといいました。その頃そんな折の会場はいつも郡役所でした。お姉え様は三味線をお持ちになったのです。長唄《ながうた》の何か一くさりを弾いてお聴かせになったのでしょう。後でお医者の方たちはお兄様のお話を喜び、お姉え様の長唄を聴いた者は、その音締《ねじめ》に感じ入ったのでした。お父様お母様の御満足が思いやられます。間もなく不運なことが起ろうなどとは、誰もが思いもかけませんかった。
 

団子坂の家・曙町の家

 昭和二十年三月二十日のことでした。かれこれ五十年近くも住み馴れた本郷曙町《ほんごうあけぼのちょう》の私の家へ、強制疎開の指令が来て、十日以内に引払えとのことです。どことて空襲の来ぬ処があるはずもなし、やっと目黒《めぐろ》辺で地方へ疎開した人の家を探して移ることにしましたが、さて荷物運搬の便がありません。曙町の通から吉祥寺《きっしょうじ》前まで、広く取払われて道路になるので、私どもの家並は皆取崩されるのですから、荷物を山と積上げたトラック、馬力《ばりき》で一杯です。自然競《せ》りあげられて、一台千円などという法外な値となります。向側は何事もなくて、立派な家が並んでいます。そこの人たちはそれぞれ地方などへ疎開して、空家《あきや》に留守番だけがいるのでした。そこでそのお家へ、大切な品はよく梱《くく》って幾つか預け、手廻《てまわり》の品だけ持って引移りましたが、どんな些細《ささい》な物にも名残が惜しまれるのでした。少し落ちついたら運んでくれるという約束でしたから、毎日のように電話をかけたり、見廻りに人を遣っていましたが、やっと都合が附いて、明日はという前日、四月十三日の夜の大空襲で、白山《はくさん》から巣鴨《すがも》まで、残らず焼野原となってしまいました。長年心懸けて貯えた書物や、貴重品などが皆灰になりましたが、ただ幸《さいわい》だったのは、主人が遺した沢山な蔵書を、この不安な世の中でも、ここで焼いては済まぬからと、全部大学に寄附することにしてありましたのを、やはり車が思うようにならず、幾度かに分けてようよう運び終ったことでした。それも焼ければそれまでとあきらめていましたが、大学は幸に無事でした。


 私たちがこの曙町に住むようになったのは、兄が団子坂上に移ってからなのです。兄は洋行から帰った当座は、池《いけ》の端《はた》の花園町におりました。そこで「舞姫」や『国民之友』の夏期附録となった『於母影《おもかげ》』などが出来たのです。ちょうど動物園の裏門前の邸で、奥まっていましたから、裏二階から不忍池は見えませんでした。夜が更けると猛獣の声が気味悪く聞えます。電車のない頃ですから、遅くなった時など、宅から迎いの車が来たことなどもあります。徹夜などは一向平気でいられました。まだ若かった私は、兄と知名の方たちとのお話を、いつも片隅で耳を聳《そばだ》てて、飽く時なく聞いていたのでした。


 兄は間もなく、俗に太田の原という処に移りましたが、そこは暫くの仮住いでした。後に夏目漱石《なつめそうせき》氏の住まわれた家なのです。それから団子坂に移りました。それまで千住で郡医などをしていた父は年も老いたので、兄と一緒に住むためにと、父母連れ立って地所を探して歩いた時、団子坂の崖上《がけうえ》の地所が目に止ったのです。団子坂はその頃流行の菊人形で、秋一しきりは盛んな人出でしたので、父も人に誘われて見に来たこともありましたし、近くに「ばら新」という、有名な植木屋のあるのも知っていたのです。その地所には板葺《いたぶき》の小屋が建っていました。そこに立ちますと、団子坂から、蛍の名所であった蛍沢や、水田などを隔てて、遥《はる》かに上野谷中《やなか》の森が見渡され、右手には茫々《ぼうぼう》とした人家の海のあなた雲煙の果に、品川《しながわ》の海も見えるのでした。その眺望に引きつけられて、幾度も来て見るごとにいよいよ気に入ったので、近い平坦《へいたん》な太田の原から、兄を連れて来て取極《とりき》めたのでした。細長い地所でしたが、持主に懸けあって、裏隣の地所もいつか譲受《ゆずりう》ける下約束もしたのです。そこは小家ながら茶がかった室もあり、古びてもしっかりした土蔵が附いていました。質屋の隠居の住いだったのです。後に修繕して、そこに兄の蔵書が納められました。


 建増《たてまし》をするために、今まで住んだ千住から大工を連れて来たり、売買の仲介をした坂下の千樹園というのに、狭い庭の設計などをさせました。それは母が引受けたのです。兄も暇の時には、引入れた臥牛《ねうし》のような石に腰を掛けたり、位置を考えて据えつけた蹲《つくば》いの水をかえたりなどなさるのでした。少し落ちついてから、私は子供を連れて、父の部屋にした四畳半の茶室に行って見ましたら、松の鉢植や、鳥籠などを置いて、薄茶を立てていられました。連れて行った子が指《ゆびさ》すのを見ますと、蜀山人《しょくさんじん》の小さな戯画の額で、福禄寿《ふくろくじゅ》の長い頭の頂へ梯子《はしご》をかけて、「富貴天にありとしいへば大空へ梯子をかけて取らむとぞ思ふ」としてありました。主人の小金井は額は嫌いなので、子供は見附けないのでした。
「あれはどういうのですか。」
「前の人が置いて行ったのだ。いって遣ったが取りにも来ない。」
「お兄様は何とおっしゃるの。お家に似合いませんね。」
「おれの部屋だから構わんのだろう。」
 そんな物に趣味を持たぬ父は、お茶の道具を丁寧に片附けながら、「もう鳥の餌を作らねば」と、小さな鉢や木箱などを幾つか取出して、頻《しき》りに交ぜたり摺《す》ったりしていられました。
「昔のお薬の調合のことを思出しますね。」
 子供は珍しそうに見詰めておりました。


 出来上った新築の二階家の玄関は、母の趣味で広い式台が附き、塗縁《ぬりぶち》の障子が建ててありました。「こうして置かねば、お邸のお部屋様やお姫様方をお招きするのに似合わないから」というのでした。旧藩主の方々をお招きしたいというのが、かねてからの母の願いなのです。この二階が観潮楼です。


 崖の見晴らしに建てたのですから、俗に雪月花によしというわけで、両国に花火のある夜などは、わざわざ子供を連れて見せに行ったりしました。まだその普請中に行きますと、祖母などが、「もっと近くへ越してお出《い》で。私は出られぬし、ちょいちょい逢いたいから」といわれますし、主人が終生出入する心組《こころぐみ》の大学へも、それほど遠くもないからと、曙町に地所を見附けて移りました。鶏声《けいせい》が窪《くぼ》といわれた坂上で五百坪ばかり、梅林や大きな栗の木があり、通りかかった人が老松の生繁《おいしげ》ったのを見て東海道の松並木のようだといいました。土井の邸跡で、借地なのです。向い側は広い馬場でした。昔将軍がお鷹野《たかの》のお小休に、食後の箸《はし》を落されたといういい伝えで、二本の大杉が鬱蒼《うっそう》とそそり立っていて、遠く白山坂上からも見えました。朝など雉子《きじ》の鳴く声がします。夜は梟《ふくろう》の声があちこちにします。家は歪《ゆが》みかかって支柱のある小さな古家でしたが、水がよいのと、静かなのとを主人が喜んで極めたのでした。


 住いが近くなったので、団子坂への往《ゆ》き来《き》が繁くなります。観潮楼の広い二階は書斎と客室とになって、金屏風《きんびょうぶ》が一双引いてありました。これも母の趣味なのです。そこで「雲中語」などの合評会が開かれ、後には歌会も催されました。
 或時お兄様が、「今度の歌会に石という題があるが、お前も詠んで見ないか」とおっしゃいました。


千曳《ちびき》の石胸に重しと夢さめて
    なほ夢の間の安さをぞ思ふ


と書いて見せましたら、ただ笑っていらっしゃいました。それきり詠めともおっしゃらず、詠みもしませんでした。それでも、「歌会の日には手不足だから手伝いに来ておくれ」とおっしゃるので、下座敷に行っておりました。レクラム本から選んで、西洋料理めいたものをあれこれと作るのでしたが、母はバタ臭い物はお嫌いなので、お塩梅《あんばい》もなさいません。
「少しサラダでも召上って御覧になったら」と申しますと、笑って手を振っていらっしゃいます。お人数だけ冷えていい物は附並べて、私はお暇《いとま》をします。夕食の時におりませんと、老母や主人子供の食事が女中任せになって困るので、会の様子は後に行った時に伺うのでした。


 観潮楼歌会のあったのは明治四十年頃でしたが、ちょうどその頃常磐会《ときわかい》というのも出来ました。それは前年の夏、兄や賀古《かこ》氏が、小出《こいで》、大口《おおぐち》、佐佐木氏等を浜町《はまちょう》の常磐にお招きして、時代に相応した歌学を研究するために一会を起そうという相談をしたのでした。このことを賀古氏から山県《やまがた》公へ申上げたら、お喜びになって、「力を添えよう」とおっしゃいました。その集りをした因縁で、常磐会という会の名を兄が附けました。


 私にはその方が似合《ふさ》わしいからといわれますので、おりおりは出詠しました。最初の題は故郷薄《ふるさとすすき》、初雁《はつかり》というのでした。
「何とお詠みになりました」と伺いましたら、四、五首ずつおっしゃいましたが、初雁の方で、「雁今来《きた》る」といわれましたから、私は笑って、「それだけで後はなくっても聞えますね」と申しましたら、「ほんとだ」と、大きな声でお笑いになりました。

 

 何しろ非常にお忙しいので、ちょっとの暇にお詠みになるのでしたが、御自分が首唱なすったためでもありましょうか、随分多くお作りになったようです。選者は五人でしたが、だんだん変りました。井上、鎌田、大口、須川、佐佐木の諸氏など、かなり続いたようでした。小出翁もいられましたが、亡くなられました。

 

 月ごとの歌題は葉書で通知がありました。選歌の載る『たづ園』という雑誌も送っていただいておりました。
『たづ園』は広島県沼隈《ぬまくま》郡草戸《くさど》村の小林重道という人が出していられました。井上通泰《いのうえみちやす》氏のお弟子《でし》で、井上氏が岡山へ赴任せられた頃からの熟知なのでしょう。それは井上氏の機関雑誌ともいうべきもので、同氏の「金葉集《きんようしゅう》講義」「南天荘歌話」「南天荘歌訓」「無名会選歌」、同氏選の「競点」などと、賑かなことで、それに常磐会選歌、次選歌、五人の選者の歌も出るのでした。


 曙町の宅のお向いに箕作元八《みつくりげんぱち》氏がいられましたが、夫人の光子様は小出氏のお弟子で、常磐会ではよく当選なさるのでした。
「今月はいかがでした」などと、門口《かどぐち》でお目にかかるとお話をしました。兄から、「お前も小出さんへ伺って御覧」などといわれて、一、二度お訪ねしたことがありました。曙町の様子などを聞かれましたので、二本杉のお話をしましたら、「それは天狗《てんぐ》の寄合《よりあい》によい処ですね」といわれました。光子様も、「いつもその通りお口が悪いのです」とおっしゃいましたが、間もなくなくなっておしまいになりました。もと英照皇太后《えいしょうこうたいこう》宮にお仕えした方で、山県公の眷顧《けんこ》を受けられ、その詠み口がお気に入っていたと聞きました。後に和装の立派な歌集なども出たようでした。椿山荘《ちんざんそう》の七勝の歌などもあります。


 選者の二人の点があると次点、三人なら当選です。四人は稀《まれ》で、五人はまずないようでした。兄も当選などはあまりありません。私などはもとよりです。山県公は音羽大助《おとわだいすけ》の名で加っていられました。後には古稀庵主《こきあんしゅ》としてあります。その侍女の吉田貞子という方もお詠みになるので、「今度はお前のはよかった」など、楽しそうにお話になるよしを兄が申しておりました。いつでしたか獣という題で、私の当選した歌に、

 


恐しき獣なれども檻《おり》の内に
    餌《え》をまつ見ればあはれなりけり

 


「こんな歌を詠む人も選ぶ人もどうかと思うね」と兄からいわれました。
 観潮楼歌会は一、二年で止み、常磐会は十幾年も続きましたが、『たづ園』を送ってもらいましたのは大正八年まででした。
 

本郷界隈

 

 大学鉄門前の下宿上条《かみじょう》にいた頃は兄も若かったし、そこへ折々遊びに行くのを楽しみにしていた私もまだ小さいのでした。父は千住で開業医をしていられて、人出入はあるのですけれど、私は偏屈な性質で、心安くする人もなく、学校の同級生には、近くの西洋造りらしい屋敷に住んで派手に暮すお医者さんの娘と、土地で名代《なだい》の軽焼屋《かるやきや》の娘とがありましたが、その軽焼屋も大分離れているので、行ったことはありませんかった。ただ家で本を読んだり、裏庭で土いじりをするくらいのものですから、兄に附添って下宿にいられる祖母が、用事があって家へ来られた時に連れて行ってもらうのが楽しみで、祖母の来られるのが待たれました。


 下宿ではいつも好んで鉄門の見える窓の際にいました。いろいろな人の出這入《ではいり》が珍しいのです。日蔭に植えた低い檜《ひのき》があるので、外からは見えません。首を伸ばせば時計台は真正面です。その時計は大きなもので、五尺あるとか聞きました。始めて行った時、頭の上でちょうど時を打つカーン、カーンの音を聞いて、珍しいあまりに大声を挙げて、「鳴りましたよ、鳴りましたよ」といって、「静かになさい」と叱《しか》られました。あまり大き過ぎるためか、時は正確ではなかったそうです。月に一回、裏から梯子《はしご》をかけて、登って行って捲《ま》くのだとか聞きました。


 上条の下宿人は、大抵学生さんですから、昼間は皆留守で静かです。祖母は一心に裁縫していられます。次から次と千住から持って来られるので、仕事の絶えたことがありません。裁縫が切りになりますと、買物に連れて行って下さいます。私は大喜びで、お河童《かっぱ》の頭を振り振り附いて行きます。賄《まかない》の菜の外に、何か兄の口に合う物をというのですが、つい海苔《のり》、佃煮《つくだに》、玉子などということになるのでした。


 下宿を出て右へ行くと、間もなく大学の境を離れて無縁坂です。坂の下り口の左側に小店や小家が並んでいる中に、綺麗な家の一軒あるのは妾宅《しょうたく》だということでした。化粧した美しい女が、いつも窓から外を眺めているという、学生たちの噂《うわさ》でした。或《ある》学生さんが買物をするとて、お札を剥出《むきだ》しに掴《つか》んで、そこの窓の方を見ぬようにして通り過ぎたのですが、気が附いたらその札がありません。人通りの少いところだから、その辺にきっとあるとは思うけれど、またその窓の前を探しながら通りたくないので、ぐずぐずしている間に時が立ってしまった。もう誰か拾ったろうと残念がりました。半円札でしたか、一円札ですか。なぜ銭入に入れて行かなかったろう、せめて袂《たもと》にでも入れて行けばよいのにと、祖母が呟《つぶや》きました。


 買物は池《いけ》の端《はた》へ出て、仲町《なかちょう》へ廻ってするのです。その仲町へ曲る辺に大きな玉子屋があって、そこの品がよいというので、いつも買います。買って帰って、そんな話をしているところへ次兄が顔を出して、「あの店では怪しい玉子はきっと皆煎餅《せんべい》にするのでしょう」といったので、祖母は嫌《いや》な顔をなさいました。その店の玉子煎餅も名代《なだい》で、いつも買ってありました。


 そこから広小路《ひろこうじ》へ出るところに、十三屋という櫛屋《くしや》があって、往来端《ばた》に櫛の絵を画いた、低くて四角な行灯《あんどん》が出してありました。祖母が切髪を撫附《なでつ》けるのに、鼠歯《ねずみば》という、ごく歯の細かい櫛を使うので、それがあるかと聞きましたが、ありませんかった。黄楊《つげ》の木で造った品ばかりを商う、暗くて古風な店でした。


 広小路へ出て右へ曲った右側に、千住の軽焼屋の店が出来たので、ついでに見に行きました。店にいた女の人は、同級生のお友達によく似ていましたから、姉さんか、それでなければおばさんだったでしょう。軽焼種というのを売るのです。それは牛皮のようなものですが、焼けば大きく脹《ふく》れるといいます。けれどもいつもそのままで食べました。珍しく大きな軽焼を白雪といいました。握り拳《こぶし》くらいあります。それもおいしいですけれど、本郷には大きな缶がないので、湿るからといって、人数だけ買って帰りました。


 大学の構内を通り抜けて、赤門《あかもん》を出て左へ曲って、本郷の通りへ行きますと、三丁目の角に兼康《かねやす》という小間物《こまもの》の老舗《しにせ》があります。美しい髪飾のいろいろ並べてあるのを、客は代る代る取出させて見たりしています。そうした様子を、右手の横から、神農《しんのう》の薬草を持った招牌《かんばん》が見詰めているようです。その神農の白髪と、白髪の長いのとがお父様に似ているといったら、祖母に笑われました。


 すぐ傍に岡野という菓子屋があります。これも老舗で、店の正面の神棚に、いつも灯明《とうみょう》がきらきらしています。その下の格子戸《こうしど》を透して、大勢の職人が忙し気に働いているのが見えます。そこで乾いた品を少し買います。祖母が千住へ行く時、弟への土産《みやげ》のためです。木の葉の麺麭《パン》といって、銀杏《いちょう》、紅葉《もみじ》、柿の葉などの形の乾いた麺麭に、砂糖が白く附けてあるのが弟の好物でした。


 名高い粟餅屋《あわもちや》もすぐ傍です。先に歩いていられた祖母が振返って、「きょうはよかった。気を附けていても、近頃は休んでばかりいたのに。さあ、見て行きましょう」といわれます。「何ですか」という私の手を引っぱって、程好《ほどよ》いところに立たれます。広い店の奥まったところに、三人の職人がそれぞれ木鉢を前にしています。その木鉢は餡《あん》と胡麻《ごま》と黄粉《きなこ》とになっているので、奥にいるのが粟餅をよいほどにちぎっては、その三つの鉢へ投げるのです。調子づいて来ると、その早いこと、小鳥の落ちるようだといいましょうか、蝶《ちょう》の舞うようだといいましょうか、ひらひら落ちるのがちっとも間違いません。実に熟練したものです。感じ入って見詰めていますが、近所の人には珍しくもないようです。それは見馴れているからでしょう。沢山の註文《ちゅうもん》があると見えて、出来たのを入れた箱が積んであります。


「あれは園遊会などの余興にも出るのだよ。囃《はや》しにつれてするのを曲取《きょくどり》とかいうそうだよ。まあ御覧、上手《じょうず》に投げるではないか」と、祖母も感心していられます。ほんとに鮮かな手際《てぎわ》です。三人の職人もそれぞれに順よくまぶして、傍の箱に並べるのです。その出来立を買いましたら、別の人が傍の箱から取って包んでくれました。その晩はその話をして、特別おいしく頂きました。


 なお少し行きますと、左手は春木座《はるきざ》のある横町です。それほど高級の芝居ではありませんから、上手の役者ばかり出るのではないでしょうが、いつも非常な繁昌《はんじょう》です。そこでは客の脱いで上った下駄を、帰りまでに綺麗に掃除して置いてくれるというので評判でした。


 粟餅の立見《たちみ》などをして遅くなったので、急いで帰ります。その途中藤村《ふじむら》で、父からの頼みの羊羹《ようかん》を買いました。藤村は大学の横手にあるよい菓子店です。下宿で兄がそれを見て、「この羊羹は上等だね」といわれたのに、祖母は得意そうに、「書生の羊羹とは違いますよ」と答えられました。書生の羊羹というのは焼芋で、それが兄の好物なのでした。
 

兄の手紙

 

 主人が亡くなって、まだ心の落附かぬ内に、私の家には疎開、焼失、移転などと、次々にいろいろなことがあったので、何をどこへ遣ったか覚えてもおらず、何かと書附けた手帳なども見喪《みうし》なったような騒《さわぎ》ですから、分らぬ物も多いのです。最初から、これだけはと心懸けた品を、三つ四つの包に拵《こしら》えて、その頃はどこが安全ともいわれませんが、親戚《しんせき》にしっかりした鉄筋コンクリートの建築があるので、とにかくそこへ預けました。どうなっても不足はいわぬという約束です。


 その五階の建物も、三階までは罹災《りさい》しました。後でその構内へ落された焼夷弾《しょういだん》を拾い集めたら、幾百とあったそうで、その殻が小山のように積んでありました。落ちた折の恐ろしさが想像せられます。預けた品は一階の隅の物置のような室に入れてあったので、幸い助かったといって、終戦後返されたのを喜びましたが、一箇だけ不足していました。二間続きの広い室で、床から天井までいろいろの物がぎっしり積上げてあったのですから、見えないのも無理はないと思いました。
 けれども人間は勝手なもので、無事な品を喜ぶにつけても、「ほんとにあれは惜しかった。こちらの方ならそれほどでもないのに」などと、勝手をいっていました。


 ところがその後その室を整理することになって、全部の品を持出した中に、こんな物があった、そちらのらしい、と寄越《よこ》されたのがそれなのでした。入れて置いた紙の箱は潰《つぶ》れ、上包《うわづつみ》は煤《すす》け破れて、見る影もありませんが、中の物は無事なので、天佑《てんゆう》とはこのこととばかりに嬉《うれ》しく思いました。


 それを順々に拡げて見て、幾日かを過しました。人から贈られた書簡ばかりを集めて置いたので、古いところでは福羽美静《ふくばびせい》、税所敦子《さいしょあつこ》、小池直子、松《まつ》の門三艸子《とみさこ》、橘東世子《たちばなとせこ》、松波資之《まつなみすけゆき》、小出粲《こいでつばら》、中村秋香《なかむらしゅうこう》、賀古鶴所《かこつるど》、与謝野寛《よさのひろし》、同晶子《あきこ》の方々のもの、現存の人でも皆二、三十年前のものばかりです。その中で私が一番大切に思うのは、兄が小倉や戦地から寄越された長い長い手紙です。小倉在勤は明治三十二年六月から三十五年三月まででしたから、随分古いものなのです。


 それらの手紙を、どんなにか忙しい中から書いて下すったのだろうと思うと、当時の私の無遠慮と無智とが顧みられて、顔が赤らみます。その頃は主人の健康も勝《すぐ》れず、子供も四人いまして、前途のこと、経済上のこと、その他何かと心を苦しめていたのでした。思ってはならぬ、いってはならぬと承知していることまでも、子供らの寝静まった夜などに、書きに書いては送ったのでした。読む人が何と思うかなどということは考えもしませんかった。ただ兄に手紙を書くということが、私の慰安なのでした。その寂しさに甘えた心持だったのでしょう。


 その頃は森の母も頻《しき》りに手紙を書かれたようでした。母は面白い人で、「私は字のお稽古《けいこ》をしないのだから」と、書いたのを決してお見せになりませんでした。小倉との手紙の往復の始ったばかりの頃でしょう。母に向って、「お兄さんは随分だと思うよ。私が送った手紙の仮名遣《かなづかい》などを、朱で直して寄越されたのでがっかりした」などと、笑いながらおっしゃいましたが、忽《たちま》ち上達なさいました。次の手紙は母宛《あて》になっていますが、私のために書かれたものなので、母はすぐに団子坂から曙町まで持って来られて、「これはお前の教科書だよ」といって渡されたのでした。


十日の御書状拝見仕《つかまつり》候。庭の模様がへ、北村のおくりし朝顔の事など承《うけたまわり》候。おきみさんより同日の書状まゐり候。家事(姑《しゅうとめ》に仕へ子を育つるなど)のため何事(文芸など)も出来ぬよしかこち来《きたり》候。私なども同じ様なる考にて居りし時もありしが、これは少し間違かと存じ候。おきみさんの書状を見るごとに、何とかして道を学ぶといふことを始められたしと存《ぞんじ》候。道とは儒教でも仏教でも西洋の哲学でも好《よ》けれど、西洋の哲学などは宜しき師なき故、儒でも仏でもちと深きところを心得たる人をたづねて聴かれ度《たく》候。毎日曜午前位は子供を団子坂にあづけても往かるるならんと存候。少しこの方に意を用ゐられ候はば、人は何のために世にあり、何事をなして好《よ》きかといふことを考ふるやうにならるるならん。考へだにせば、儒を聞きて儒を疑ひ、仏を聞きて仏を疑ひても好《よ》し。疑へばいつか其《その》疑の解くることあり、それが道がわかるといふものに候。道がわかればいはゆる家事が非常に愉快なる、非常に大切なることとなる筈《はず》に候。又芸に秀づる人は、譬《たと》へば花ばかり咲く草木の如し。松柏《しょうはく》などは花は無きに同じ。されど松柏を劣れりとはすべからず候。何でもおのれの目前の地位に処する手段を工夫せねばならぬものに候。小生なども道の事をば修行中なれば、矢張《やはり》おきみさん同様の迷もをりをり生じ候へども、決して其迷を増長せしめず候。迷といふも悪《あ》しき事といふにはあらず。小生なども学問力量さまで目上なりともおもはぬ小池局長の据ゑてくるる処にすわり、働かせてくるる事を働きて、其間の一挙一動を馬鹿なこととも思はず無駄とも思はぬやうに考へ居り候へば、おきみさんとても姑に事《つか》へ子を育つることを無駄のやうに思ひてはならぬ事と存候。それが無駄ならば、生きて世にあるも無駄なるべく候。生きて世にあるを無駄とする哲学もあれど、その辺の得失は寸紙に尽しがたく候。ここに方便を申せば、おきみさんは名誉を重《おもん》ぜられ候ゆゑ、名誉より説くべきに候はんか。小生なども我は有用の人物なり、然《しか》るに謫《たく》せられ居るを苦にせず屈せぬは、忠義なる菅公《かんこう》が君を怨《うら》まぬと同じく、名誉なりと思はば思はるべく候。おきみさんもおのれほどの才女のおしめを洗ふは、仏教に篤き光明子《こうみょうし》がかたゐの垢《あか》をかきしと同じく名誉なりとも思はば思はるべく候。これは方便にして、名誉の価は左《さ》ほど大ならずともいふべけれど、名誉より是《かく》の如く観じ候如くに道の上より是の如く観ずるときはおのれの為《な》す事が一々愉快に、一々大切なるべく候。飛んだ説法に候へど、おきみさんへの返事のかはりに、此《この》紙に筆に任せ認《したた》め進じ候。


十四日


母上様

 半紙を四枚綴《と》じて毛筆で書いてあります。年月はありませんが、三十三年の秋の頃でしょう。
 小倉というので思出しましたが、三十二年六月九日に赴任が発表になって、十四日に出立というので、主人が新橋へ参りましたら、大勢の見送りがあったといいます。しかしそれは形式上のことだそうで、十六日に今度は千駄木《せんだぎ》の宅の方へ暇乞《いとまごい》に寄りましたら、もう出立したとのことでした。誰にも時間は知らせないのでしょう。「おかしなことをするのですね」と申しましたが、私は産前でしたから、一切外出しないのでした。


 三十三年一月に兄から母へ寄せた手紙の一節に、「小金井氏財政の事ども承知いたし候」とあり、「当郡病院長澄川といふもの参り話に小金井は咯血《かっけつ》したり云々《うんぬん》と東京より申来《もうしきたり》との事に候。尤《もっとも》咯血したりとて必ず死すとも限らねど或《あるい》は先日腫物《はれもの》云々の報知ありしころの事にはあらずやなど存じ候。秘し居るにはあらずやなど存じ候、いかゞ」とあります。


 この手紙も母が持って来て見せられました。主人は腰の辺に俗にいう根太《ねぶと》の大きなのが次々に出来て、そのために熱も出たのでした。私はそんな手紙は出しませんが、細大漏らさずにいい送る母から聞かれたのでしょう。案じて下さる御親切は喜びながらも、母と二人で笑ったのでした。咯血は主人の教室にいる若い助教授のことでした。その人は耶蘇《ヤソ》信者でしたが、短命で亡くなられました。

 


拝呈。先日は御細書《ごさいしょ》下され候のみならず、其前後に色々御送寄奉謝《しゃしたてまつり》候。然るに先日の御書状あまりに大問題にて一寸《ちょっと》御返事にさし支《つかえ》、不相済《あいすまぬ》と存じながら延引いたし居候内、今年も明日と明後日とのみと相成《あいなり》申候。家内の事は少なりと雖《いえども》、亦久慣の勢力重大なるため、改革の困難は国家と殊《こと》ならずと存候。先頃《さきごろ》祖母様を新築の一室に遷《うつ》しまつらんとせしとき祖母様三日も四日も啼泣《ていきゅう》し給ひしなど御考被下《くだされ》候はば、小生が俄《にわ》かに答ふること出来ざる所以《ゆえん》も御解得なされ候ならんと存候。兎角《とかく》は年長の人々を不快がらせずに、出来る丈《だけ》の事をなすといふに止《とど》め度者《たきもの》と存じ候。然乍《しかしながら》御手紙参《まいり》候ごとに一寸御返事に困るやうなるは、即《すなわ》ち真直に遠慮なく所信を述べて申越され候為にして、外に類なきことと敬服いたし候事に候。小供《こども》も次第に多くなりし為、文事にいとまなきよし承候。これも又似たることにていかなる境界《きょうがい》にありても平気にて、出来る丈《だけ》の事は決して廃せず、一日は一日丈進み行くやう心掛くるときは、心も穏《おだやか》になり申者《もうすもの》に候。小生なども其積《つもり》にて、日々勉学いたし候事に候。物書くこともあながち多く書くがよろしきには無之《これなく》、読む方を廃せざる限《かぎり》は休居《やすみおり》候ても憂ふるに足らずと存じ候。歳暮御忙しき事と御察し申上候。当地は二三日代りに乍寒乍暖《たちまちさむくたちまちあつし》、まだ小寒なるに梅など処々開居《ひらきおり》候。

十二月二十九日雨夜

林太郎
きみ子様

 


 文中に見えています小金井の母は、長岡藩の名流の長女に生れたので、小林虎三郎《とらさぶろう》氏の妹でした。子供が非常に多く、世の変遷のために、幾多の難儀をなさいました。次男に生れた主人などは、小さい時に同藩の家へ養子に遣られ、その養父に附いて上京したのですが、大学南校へ通う内に、頼りにしたその養父に死別《しにわか》れましたので、他家の食客にもなり、母の弟の助力で医学に志して、明治五年の暮に第一大区医学校へ入学しました。それからは至って順調で官費生となり、第一位の成績で卒業したのは明治十三年の夏でした。時に満二十一歳七カ月です。その間に帰郷したのは幾度でもありませんでした。その頃病弱だった実父が亡くなりました。卒業後すぐに洋行、帰朝して教授というようなわけでした。母は一両年してから、弟妹とともに引取られて上京し、近くに住われるようになりましたが、親とはいいながらも、主人との間は割合にあっさりしたもので、森の母と兄とのことを見馴れた目には、ただ驚かれるほどでした。こちらよりあちらで遠慮をなさるので、話は何でも私に取次がせられるのですから、何かと意志の食違いが多くて、お互にお気の毒なのでした。幾年かして弟は戦死し、妹は縁づき、その後に私どもと同じ家で御一緒に生活するようになりました。子供らも追々に物事が分るようになりましてからは、母も何かと孫に話されるので、そうしたことから気分も大きに和《なご》むようになりました。母も主人の健康の思わしくない時などは取越苦労《とりこしぐろう》をなすって、いつかは、「ここのお父さんにもしものことがあっても、私はお前と離れようとは思わない。伯父《おじ》さん(主人の兄)の所へは行きたくない。どんな暮しでもするから、そのつもりでいておくれ」と、涙をこぼしておっしゃるので、「えゝえゝ、行届きませんが、どうでもして御一緒に過しましょう。その内には子供たちもそれぞれに成人しますから」と申しました。


 この問答を聞いた森の母は涙に誘われて、「それはお前の大手柄というものだよ」といわれ、ついで小倉への手紙にもそのことを書いて、「お前も喜んでおやり、きみ子はお母さんから金鵄《きんし》勲章をいただいたから」といわれたので、それから暫くの間、私は金鵄勲章という綽名《あだな》が附けられました。兄からは名誉を重んじるといわれましたが、金鵄勲章などは随分な負担でした。


 次の手紙も母宛ですが、私のために書かれた一節があるので写して置きました。

 


お君さんの安心立命の出来ぬは矢張《やはり》倫理とか宗教とかの本を読まぬ為めと存候。福岡にて買ひし本の内に『伝習録』といふものあり。有触れたる者なれど、まだ蔵書に無き故買ひおき候。これは王陽明《おうようめい》の弟子が師の詞《ことば》を書き取りしものなるが、なか/\おもしろき事有之《これあり》候。中にも、知行一致といふこと反復して説きあり、常の人は忠とか孝とかいふものを先づ智恵にて知り、扨《さて》実地に行ふとおもへり。知ると行ふとは前後ありとおもへり。是《こ》れ大間違なり。譬へば飯といふものを知るが先にて、扨《さて》後に食ふとおもふ如し。実は食はんと欲する心が先づありて飯といふものも生じ、食ふといふ行は初めの食はんと欲する心より直ちに出で来るなり。忠も孝も前後などは無しとの説なり。この王陽明が、「行は智《しること》より出づるにあらず、行はんと欲する心(意志)と行《おこない》とが本《もと》なり」といふ説は、最も新しき独逸《ドイツ》のヴントなどの心理学と一致するところありて、実におもしろく存候。其外仏教の唯識論とハルトマンとの間などにも余程妙なる関係あり。此《かく》の如き事を考ふれば、私の如く信仰といふこともなく、安心立命とは行かぬ流義の人間にても、多少世間の事に苦《くるし》めらるることなくなり、自得《じとく》するやうなる処も有之やう存候。

 


 この次のは三十四年も押詰った頃のもので、翌年の三月には上京されましたから、小倉からの長い手紙は、これが最後になります。

 

 

拝読。良精君近頃健康不宜《よろしからず》候こと承候へども、仰《おおせ》のとほり存外険悪に及ばずして長生せられ候事も可有之《これあるべし》と頼み居候。又々牛の舌御恵贈の由、不堪感謝《かんしゃにたえず》候。翻訳材料となるべき書籍二三、別紙に認《したた》め上《あげ》候。南江堂に可有之候。『明星《みょうじょう》』は当方へも新年に投稿可致旨《いたすべきむね》申来候。然し何も遣《つかわ》すべきものも無之候。近頃井上通泰、熊沢蕃山《くまざわばんざん》の伝を校正上本せしを見るに、蕃山の詞に、敬義を以てする時は髪を梳《くしけず》り手を洗ふも善を為す也《なり》。然らざる時は九たび諸侯を合すとも徒為《とい》のみと有之候。蕃山ほどの大事業ある人にして此言始めて可味《あじわうべく》なるべしと雖《いえども》、即是《これ》先日申上候道の論を一言にて申候者と存候。朝より暮まで為す事一々大事業と心得るは、即一廉《ひとかど》の人物といふものと存候。偶々《たまたま》感じ候故序《ついで》に申上候。荒木令嬢の事、兎《と》も角《かく》も相迎《あいむかえ》候事と決心仕候。併《しか》し随分苦労の種と存候。夜深く相成候故擱筆《かくひつ》仕候。草々不宣。

十二月五日

林太郎
小金井きみ子様
 

賀古氏の手紙

 

『冬柏《とうはく》』の昭和五年十月号の消息欄に、賀古鶴所《かこつるど》氏が与謝野《よさの》氏に宛《あ》てた、次のような手紙が出ています。

 


『冬柏』第七号の消息中に、月夜の村芝居、向島奥の八百松《やおまつ》に催した百選会の帰るさに、月の隅田川を船にて帰られたくだりを拝読して、今より五十年余り昔の事を思い出《い》でました。それは同学中に緒方という温厚な少年がありました。月の夜に柄になく散歩を誘いに来ました。そのまた兄さんは月に酔う人で、或秋の夜に兄弟両人《ふたり》して月に浮かれて、隅田川より葛飾《かつしか》にわたり、田畑の別なく、ひと夜あるき廻り、暁に至りケロリとして寄宿舎に帰って来たことがありました。独逸《ドイツ》にてかようなのを Mondsucht と称しますが、敢《あえ》て精神病には数えませぬ。月に魅せられて、ついうかうかとさまよい出て、市中または林間田野を歩き廻り、覚えず溝川《どぶがわ》に落ち入り、折々は死ぬるものもあるとか聞きました。緒方が月の夜に見えぬと、「またモントズクトか」といったことがありました。緒方のいうには、「月夜に散歩していると、何となくよい気持になり、つい夢心持になって歩き廻るのさ。事は違うが、チャンの阿片《あへん》に酔うた心持もこんなものかしら。」(月狂生)

 


 その前に添えてある与謝野晶子氏の文に、「私が前号のこの欄に月見の事を書きましたら、賀古鶴所先生から早速興味あるお手紙を頂きました。私信ですけれども差支《さしつかえ》がないと思いますから次に載せます。文中の緒方氏は森鴎外先生の「雁《がん》」という小説の中に「岡田」という姓で書かれている医学生です。独逸の留学から帰って早く歿《ぼっ》せられましたが、明治医界の先輩で、今の大阪の緒方医学博士の御一族です」としてあります。


 右の賀古氏の手紙は、私にも興味が深いのですが、その中には不審の点もありますので、春にでもなったらお目にかかって、伺って見たいと思っています内に、翌六年の元日の午後、賀古氏は急逝せられて、そのことも出来なくなりました。


 賀古、緒方の二氏と兄とは、学生時代三角同盟といわれて、いつも行動を共にするのでしたから、お二人とも向島や千住の家へも来られ、泊りなどもなさったので、皆お親しくしていました。いつでしたか、緒方氏が有馬《ありま》土産だといって、筆の柄を絹糸で美しく飾ったのを下すったのが、ひどく嬉《うれ》しかったことを忘れません。そんなわけで、自然家庭の御様子なども知りました。賀古氏は四角な赭《あか》ら顔の大男でしたのに、緒方氏は色のあくまでも白い貴公子風の人でしたが、親孝行なのがよく似ていられました。「雁」に書いてある岡田という青年は、オカダ、オガタという音が似ていますから、その人のようにも取れますが、これは兄の理想とする標準的な青年を写して見たのでしょう。実は「雁」よりも、「ヰタ・セクスアリス」に書いた児島十二郎というのが緒方氏そのままです。卒業の宴会が松源《まつげん》という料理屋であった時、下谷《したや》一番といわれる美しい芸者の持って来てくれた橘飩《きんとん》を、その女の前でゆっくり食べていたというのがその頃の語り草となっていて、幼かった私の記憶にもそれが残っています。


 緒方氏の本名は収二郎ですが、十二番目のお子さんで、御兄弟が非常に多かったのでした。十三郎といわれ弟さんもありましたが、字はどう書くのか覚えません。この弟さんは、兄さんの温厚なのに似ず才気煥発《かんぱつ》した方で、何か失行のあった時、名家の子弟であったためか、新聞に書立てられて、その方を鍾愛《しょうあい》なさる母上がひどく苦になさった時など、緒方氏は母上がお気の毒だといって、寝食を忘れるほどに心配なすったのでした。


 緒方氏がまだ十歳くらいの頃、大阪の家の広い庭で遊んでいられた時に、父上が厠《かわや》から出られたと思うと、手洗の所でひどく咯血《かっけつ》せられました。「それをただ立って、じっと見ていた」と話されたことがありました。父がないのだから母が思い遣られる、とよくいわれましたが、その母上は大勢のお子さんたちをお生みになって、気性のしっかりした方《かた》とのことでした。上のお兄様は陸軍の軍医になっていられ、兄が陸軍へ出るようになった始の頃に、地方へ検閲に行った時の上官で、一緒に写された写真を見ましたが、痩型《やせがた》の弱々しい風貌《ふうぼう》の人でした。


 賀古氏も緒方氏にも妹御《いもうとご》がおありなので、卒業後兄に縁談のあった時に、「あんなに仲よくしていたのだから、どちらの方でも貰《もら》って、ほんとの親戚《しんせき》になったらよかろうに」と、母が勧めたようでしたが、そのままになったのは、兄が承諾しなかったと見えます。卒業後程《ほど》なく緒方氏は大阪へ帰られました。


 賀古氏と兄とは、終生真実の親戚以上の交際を続けました。賀古氏は陸軍の依託学生なのでしたから、すぐに陸軍に出られて、日清日露《にっしんにちろ》の両役にも出征し、予備役へ編入されてから病院を開《ひらか》れたのです。


 兄の洋行中、私が学校へ通うために、祖母と本郷の下宿に暫くいた頃に、賀古氏は病気で入院していられ、若い奥様が附添って世話をしていられました。そこへお見舞に行った祖母は、私へのおみやげというので、お菓子や果物を沢山いただいて来て、「林《りん》と同じに、孫のように思われる」といわれるのを私は笑ったことでした。その予後が思わしくなくて、一生片足を引かれるようになりました。さぞ御不自由のことでしたろう。


 私が小金井の人となりましたのは、賀古氏のお世話なのでした。兄は洋行中でしたから、帰った後にと両親は思っていましたのを、次兄の篤次郎と相談して、独逸へ電報で諾否を問合せて、ずんずん事を運んでおしまいになったのです。昭和四年の九月でしたが、或日賀古《かこ》氏から私宛のお手紙が来ました。


お天気が晴候まま、庫に入り古トランクをかきまわしたる所、こんな古書が出ました故、御手元へさし上げます。誠に御不沙汰《ごぶさた》いたします。漸《ようや》く涼しくなり候まま、近日御伺いいたします。九月十三日、鶴所。

 


 中に兄からの電報が封入してありました。私の縁談の時のもので、こちらからは何とお打ちになったのか知りませんが、それには仏蘭西《フランス》語で、ただ「承諾」の一語があるのでした。電報用紙は桃色の縦四寸、横五寸余のもので、封筒にはいっています。千八百八十八年とありますから、随分古いものなのです。賀古氏の小川町の病院は震災に焼けましたが、蔵が一つ残りましたので、その中にあったものと見えます。


 次兄篤次郎は賀古病院で終ったのですが、その頃は随分お盛んのようでした。次兄の臨終の後で、私どもと夜の更《ふ》けるまで話していて下さるので、お疲れでしょうから、お休みになっては、と申しましたが、おはいりになりません。通夜をして下さるお心持と見えました。ちょうど長兄が旅行中で留守でしたので、幾分かそのためもあったのでしょう。


 病院が手狭《てぜま》と見えて、お住いは小石川水道町《すいどうちょう》でした。召使を代えたいからとのお話で、旧津和野《つわの》藩の人の娘をお世話したことがありました。幾度か事細《ことこま》かな書面を下さるのでした。その娘を連れて伺った時、お座敷に坐っていますと、お庭の中を流れる水の音が、さらさらと優しく聞えました。水道町ですから、水は御自由だったのでしょう。由緒のあるお家らしく、風雅な構えで、障子の腰張《こしばり》に歌が散らし書《がき》にしてありました。その折奥様にもお目にかかりました。賀古氏は常磐会に歌をお出しになるのでしたから、歌人にもお知合が多かったのでしょう。井上通泰氏などは特に御別懇のようでした。ずっと前に、私どもが滝野川《たきのがわ》へ散歩した時、まだ詰襟服《つめえりふく》の井上氏を連れて、掛茶屋《かけぢゃや》に休んでいられるのにお会いしたことなどもありますから、古いお知合だったのでしょう。


 賀古氏の父上は、割合に早くお亡くなりになったので、老年の母上によくお尽しになるのでした。病院にお住いの頃でしょう。夜を更《ふか》してお帰りになると、母上は睡《ねむ》らずに待っていられます。廊下でわざと足音を高くして、「おっかあ、帰ったよ」と、一声お懸けになると、それで安心してお休みになるのだとのことでした。ほんとは何とおっしゃるのか知りませんが、そうお話になるのを聞いて、「御尤《ごもっとも》で」と、幾度も母はうなずきました。兄なども母の晩年には、出這入《ではい》りの度に、廊下づたいに部屋の傍まで来て声を懸けますので、母はどんなにそれを喜んでおりましたか。年寄の気持は、皆同じことでしょう。


 上総《かずさ》の日在《ひあり》に賀古氏の別荘が出来た時、兄もその隣の松山に造りました。その二つに鶴荘、鴎荘の名を附けて、額を中村不折《ふせつ》に書いてもらったのですが、賀古氏の方は簡単でも門がありますから、すぐ掛けられましたけれども、森の方には何もないので、いつまでも座敷の隅に置いたままになっていました。後になって入口の格子《こうし》の上に掛けたとか聞きました。日在へは兄はあまり行きませんでしたが、賀古氏は晩年よく行っていられました。


 今思出してもおかしいことがあります。病院を経営なさる御都合上、幾らか相場《そうば》にも関係なさったらしく、或時好条件の株があるが買ったらと、頻《しき》りにお勧めになるので、金子《きんす》をお預けしたのだそうです。ところがそれが全く思惑《おもわく》違いとなったので、いつものさっぱりした気性にも似ず、ひどくそれを苦になすって、こちらでは忘れた頃になっても、まだ済まなかった、済まなかったとおっしゃる、と母が笑っておりました。


 大正十一年兄の終る時には、よく団子坂へ来ていられました。何んのお話をなさるのでもなく、ただ枕元《まくらもと》に坐っていられるだけでも、兄にはそれが何よりも心丈夫らしく、尋ねた時に賀古氏が来ていられると聞くと私までが、よかった、と思ったことでした。
 大正十二年の震災に病院は焼けましたが、あの悪いお足であちこちお逃げになったのに何の怪我《けが》もなくて、本郷森川町新坂上の御親戚に避難せられました。その冬お見舞として駱駝《らくだ》の毛糸で襟巻《えりまき》を編んで差上げたら、大変お喜びで、この冬は風も引くまいとの礼状でした。ところがその後に風を引いて、なかなか直らぬとのお手紙だったので、襟巻も利き目がなかったと、家で話合いました。その頃には、焼跡に新築を急いでいられるようでした。


 次に載せるのは、翌十三年四月十日に、主人宛に寄せられたものです。


拝啓。今朝与謝野氏来訪、不折《ふせつ》書林太郎君墓銘数葉持参致し、誠によき出来に候。礼金は先づ筆墨料として×円許《ばかり》投じては奈何《いかん》との事に候。三十余枚も書き試みたる趣に候。御序《おついで》の節立寄下され候はゞ幸に候。此書悉《ことごと》くを団子坂に送りやるべきか、奈何(後略)

 


 次に昭和に入ってからのを数通載せます。

 


又寒くなり申候。日露戦役後に於《お》ける兵站《へいたん》衛生作業のあらまし、奉天《ほうてん》戦前後に於けるを当時の同僚安井氏の記したるを、頃日《けいじつ》『軍医団雑誌』といふのにのせ候趣にて、其別冊数部を送りこし候まゝ、筋違ひのつまらぬものなれども、一冊拝呈仕候。此戦役の前半、即ち第二軍に於ける兵站衛生作業、南山役《なんざんのえき》、得利寺役《とくりじのえき》(大石橋《だいせつきょう》、蓋平《がいへい》小戦)、遼陽《りょうよう》戦なれども、此分を記すと云《い》ひし軍医先年病歿、それ切《きり》になり居候。

拝啓。先人の小伝わざわざ御返し下され恐れ入候。台湾名物唐墨《からすみ》下され、有難く存上《ぞんじあげ》候。酒伴の最好物に候。私事十六日上総へまゐり、昨夜帰宅仕候。取りあへず御挨拶迄《ごあいさつまで》、拝具。

御書辱《かたじけな》く拝見仕候。かねて願上候御認《おんしたた》めもの、早く拝見いたし度と存じ候へども、今日も尚《なお》せき少々出で候まゝ、引き籠《こも》り罷在《まかりあり》候。熱は既に去り申候。もし御都合よろしく候はゞ、十日か十一日頃、乍憚《はばかりながら》御来臨下され度希上《ねがいあ》げ候。此度の風しつこくこまり候。早々。

 


 次に載せるのは、昭和五年の葉書と封書とです。

 


「不忘記」拝見仕候。先達て奈良、芳野《よしの》へ御旅行の折、御母上様の御墓所に御参詣《ごさんけい》の事と拝察いたされ候。ふた昔ばかり前か、維新の際長岡藩士の窮状を『しがらみ』にてか拝見仕候。今は夢のやうに、ぼうつと覚え居候。また拝見をいたす事を得ば幸に候。今朝思ひ出で候まゝ、匆々《そうそう》以上。七月十九日朝。

拝啓。一昨日は御書を給はり、辱く奉存《ぞんじたてまつり》候。其節御恵贈の朝鮮産西洋種梨子《なし》、誠にやすらかにして美味、有難存候。彼の争議一件御筆にのせられ候由、以て当今社会の現況を知る事を得べく、楽しみ罷在《まかりあり》候。何卒《なにとぞ》御示下され度希上候。土山の下の終に、深山に佗《わび》しくくらし居り候老僧にかしづきゐる婦人の京の客の帰り行くをたゝずみて遥《はるか》に見送る心情、いかにも思ひやられ候。


林太郎君在職中遺業の一つがどふやら湮滅《いんめつ》せんとするありて、此頃後々迄もはつきり書きて遺したく、それぞれ調べ中に候。昨日も目黒の奥の方の又奥迄人を尋ねまゐり候。どこ迄行きてももとは荒野なりしが、町つづきになりて、ビルヂング様の建物も見え、草屋根の家などは一向見えず、いやに開けたものと呆《あき》れ申候。
千葉あたり田舎の家屋は昔に変らねど、人心のいやに青竹の手すり然と険悪にすれからしになりたるも心にくゝ覚え候。どこか秋の虫をきゝ、肱《ひじ》を枕にゆるりと午睡し得る所はなきかなぞ夢想せられ候。
貴詠ちと御ひまになり候はゞ御認め下され度、是《こ》れ又希上候。匆々不備。九月十二日、鶴所。

 


 賀古氏と兄とは、大学生時代から五十余年にわたって、公私共に変らぬ親友なので、その官人生活の裏面には、いつも多大の配慮を得て、山県公その他へも推薦せられたものでした。その兄が逝《ゆ》いてからの賀古氏は、どれだけお寂しかったでしょう。晩年に主人や私へよくお便《たより》を下さいましたのも、以前にはないことでした。『冬柏《とうはく》』所載の消息なども、そうしたものを書いて自ら慰藉《いしゃ》していられたのではあるまいかと思いますと、お気の毒にもなって来ます。


 昭和六年一月一日、朝から元気で病院の医員たちの年賀を受けられましたが、午後書斎へはいられて、突然発病されたらしく、誰も臨終には間に合わなかったそうです。「己《おれ》は脳溢血《のういっけつ》で逝くのだ」と、いつもいっていられましたので、お望通りだったとはいえ、あまりにはかない終り方でした。兄が逝いてから八年、七十六歳だったのです。


 お墓は駒込吉祥寺《きっしょうじ》で、山門を入って右側です。本郷にいます頃は近いものですから、庭の花を持っては、よくお参りしましたが、疎開以来遠くはなりますし、だんだん私も老年になりますので、お彼岸くらいにしかまいられません。
 

古い手紙

 

 兄の洋行されたのは明治十七年八月で、船はフランス船メンサレエ号というのです。ベルリンへ著《つ》かれたのは十月十一日でした。出立後家族の者は、ただ手紙の来るのばかりを待っていました。翌十八年の正月にカードを送られた時の私と弟との喜びは非常なものでした。ついぞそうした物は見かけませんでしたから。


 忙しかったでしょうに、よく手紙を下さいました。こちらからも度々出したものでした。「独逸《ドイツ》日記」というのに、「家書到《いた》る」ということが、月に二、三回はきっと見えます。それが滞独中ずっと続いています。日記もよく附けていられました。


 その頃千住に佐藤応渠《おうきょ》という人がいられたのに、お兄様は詩を見ておもらいになって、親しくなさいました。学者としてあがめられても、もともと漢方のお医者でしたから、時代後れで、質素なお暮しでした。私が稽古《けいこ》に通った関澄《せきずみ》桂子さんともお附合《つきあい》なのです。その佐藤翁が新年に私へ下すったお手紙があります。

 


新禧《しんき》万祝、御歌いとをかしく、御出精のほど見えはべれ。加筆返上、其後御兄さまより御便りはありしや、いかゞ。あらば御聞せ下され。

 


其まゝに千代の鏡と氷るなり
    結びあまりし今朝の薄氷《うすらひ》
大きみの千世の例《たとえ》と老がつむ
    心の根芹《ねぜり》もえやしつらん

 


など、思ひ候まゝかいつけ上候。桂の君にもよろしく御伝《おつたえ》ねぎ上候。かしく。

 


   おきみさま御もとへ[#地から3字上げ]元萇《げんちょう》

 


別紙憚《はばかり》ながら御とゞけねぎ上候。

 


 元萇は翁の本名です。別紙というのは桂子さんへのお便でした。佐藤翁の手紙も写して独逸へ送りました。
 二月七日の「独逸日記」には、「朝家書至る。妹の歌に」として、

 


こと国のいかなる鳥の音をきゝて
    立かへる春を君やしるらん

 


と書留めてあります。


 前後しましたが、十七年十二月二十八日の日記に、「佐藤元萇師の書到る。郵筒に一封書寄数行啼《いちふうしょすうぎょうをよせてなく》と題したり。披《ひら》けば紅葉《もみじ》いくひらか机上に翻《ひるがえ》りぬ。葉の上に題したる詩に、只知君報国満腔気《ただしるきみがほうこくまんこうのき》、泣対神州一片秋《ないてしんしゅうにたいすいっぺんのあき》の句ありき」としてあり、十八年九月十三日の条にも、「朝家書又至る。応渠翁の書に曰《いわ》く。参商一隔、いかにおはすらんと筆はとれど書やるすべもなく、こゝろ迷ひぬるは、綣恋之情《けんれんのじょう》かたみに同じかるべし。まづ尊堂も弊盧《へいろ》も無事なるはうれし。扨《さて》本月一日大洪水、堅固なる千住橋並《ならびに》吾妻橋押流し、外諸州の水災抔《など》惨状、こは追々新聞等にて御聞《ごぶん》に触《ふれ》候はん。略之《これをりゃくす》。五月雨《さみだれ》にこゝろ乱るゝふる里をよそに涼しきつきや見るらむ、など口にまかせ候。政之。御令妹このほど御歌は上達、感入《かんじいり》候也。書余譲後信《こうしんにゆずる》。努力加餐《かさん》。不宣。七月十一日。応渠再拝。牽舟賢契榻下《けんしゅうけんけいとうか》」とあります。


 飛んで二十年三月二十五日の条に、「応渠翁中風《ちゅうぶう》の事、山海万里を隔てゝ徒《いたずら》に心を傷ましむるのみ」とありますが、もうその頃は千住にお住いではなかったでしょう。終りの御様子は存じません。その頃私は毎日遠路を学校通いで、学校以外のことは何も知りませんかった。


 学校入学前に貰った、別の人の次のような手紙があります。

 


弥《いよいよ》御機嫌よく、御悦申上候。相かはらず来月十九日納会相催し候まゝ、何とぞ/\御ばゝ様御同道にて御出《おいで》願ひ上候。遠方故《ゆえ》御出なくば、御詠にてもいたゞき度、此段申上候。過《すぐ》る比《ころ》福羽君に一寸《ちょっと》御目にかゝり、御咄《おはなし》きゝ候間、ちと/\三八在宿に候まゝ、御とまりがけにても御出待上候。万々拝顔のうへ申入候。めでたくかしく。

きみ子君に

三艸子《みさこ》

 

 

 これは松《まつ》の門《と》三艸子といって、大野定子と並んで歌よみといわれていた人でした。人あたりのよい方で、福羽氏ともお知合だったと見えます。色白の顔にお化粧をなすって、口紅の赤いのが目に附きました。当時子供だった私には、あまり見かけない御様子なのでした。濃い黒髪がつやつやしていたことを覚えていますが、髪形はどんなでしたか、記憶にありません。人の噂《うわさ》では芸者だったともいいますが、どうでしょうか。歌会などへいつも一緒に行って下さる祖母も、「あんな御様子の方ではねえ」といっていました。それでただ一度伺っただけで、学校へ行くようになってからは御無音《ごぶいん》に過ぎました。


 小金井へ縁附いて、程《ほど》過ぎてからのことです。少し落附いて何かして見たいと思う時に、兄が井上通泰《いのうえみちやす》氏の紹介で松波資之《まつなみすけゆき》氏へ伺って見よと申されました。井上氏は兄の親友賀古鶴所《かこつるど》氏と別懇なのでした。


 何でも牛込見附《うしごめみつけ》からかなり行って、四谷《よつや》見附の辺のお堀端《ほりばた》から松の枝が往来へ差し出ているのが目につくあたりにお住いだったと思います。痩形で、少し前屈《まえかが》みの恰好《かっこう》の静かなお年寄でした。優しい奥様もいらっしゃいました。


 その頃私は小さい子供を持っていましたので、来よとおっしゃった日にも伺いかねるのでしたが、その頃下すったお手紙は、大師流というのでしょう、大変見事なものでした。

 


御文ありがたく拝見、此間は御はじめてなるに、まことに御早々にて、失敬いたし候。あとにて、

 


近からばしひてとめてもしきしまの
    道のことごとかたらむものを

 


と申候。お歌いづれもおもしろく、此調子にて御すゝみなされ候はゞ、追々よき御歌かずかず出申《いでもうす》べく候。右御返事まで。
 尚《なお》来月の会にはかならず御出待入《まちいり》候。きのふも婦人方よたり計《ばか》りにて御うはさいたし候。

 

十八日

寸介由伎《すけゆき》

 


七日には御つかへのよし、さてさて残念なる事に御座候。在宿の事はいそがしく、前より申上かね候。其内御近所へまゐる序《ついで》御坐候まゝ、其時参上申承るべく候。又御主人様へも御目にかゝり、面白き御咄しも承度《うけたまわりたく》候。右御返事まで。

十二月五日

寸介由伎
きみ子様

 


 お名前はいつも万葉仮名で、判で捺《お》したようでした。
 手紙ではありませんが、小出粲《こいでつばら》氏の筆の跡も残っております。小出氏は常磐会の歌の選者の一人です。もと石見《いわみ》浜田の藩士で、初め荒木寛畝《あらきかんぽ》に画を学ばれましたが、武芸を好まれて、宝蔵院流の鎗術《そうじゅつ》の皆伝を受けられたそうです。井上通泰氏が小出氏とお心安かったのは、嗜好《しこう》が同じだったからかも知れません。井上氏も棒をお遣いになって、その御秘蔵の棒に石上《いそのかみ》という名を附けられたと聞きました。石上は「ふる」の枕詞《まくらことば》です。


 小出氏の墨蹟は、常磐会の題詠を見て下すったので、次の如くです。

 


春雨

春雨は降るとも見えず薄月《うすづき》の
    匂ふ軒端に梅の花ちる

此歌よろしけれど、或は類歌あるべく、いさゝか陳腐のきらひあり。

 


川霞《かわがすみ》

薄月の空に匂ひて川ぞひの
    柳をぐらく霞たなびく

 




魚《うお》つりし人は帰りて柳かげ
    つなげる舟に月のぼりきぬ

 


○印の歌さし出し可申《もうすべく》候。

 


 なお余白に、

拝啓このほどは御病人ありて御取込のよし、千万御察《おさっし》申上候。
森様へも一寸御尋ね申上度候得共《たくそうらえども》、おのれも風邪等にて御不音《ごぶいん》申訳なく候。

 


 すべて朱で書いてあります。宛名《あてな》も宿所も皆朱なのです。
 こんなにして常磐会へ出して下すっても、拙いのですから入選しません。曙町の住いの向いに箕作元八《みつくりげんぱち》氏が住んでいられ、その夫人光子さんも小出氏のお弟子で、この方はよく入選なさるのでした。


 曙町の家は旧土井邸の跡で、杉の大木が二本あって、それが白山《はくさん》の上からも見えていました。昔将軍が狩に出て、野立《のだて》せられた時、食後に箸《はし》を二本立てられたのが成長したのだなどといわれます。夜は梟《ふくろう》の塒《ねぐら》です。小出氏が、どんな処か、といわれた時にその話をしましたら、天狗の寄合《よりあい》に好い場所ですね、といわれました。光子さんにその話をしましたら、また先生の例の癖、と笑われました。小出氏の亡くなられた時の兄の追悼の句があります。

 


おもしろいおやぢと春のつれて行く
 

福羽氏の手紙

 近頃あちこち移転するために、手廻りのものを片附けました時、古い手紙の束を見出しました。種々の人のがありますが、その中で一番古いのは福羽美静《ふくばびせい》氏のです。封筒はありませんが、文面に拠って大抵時がわかります。


 福羽氏は津和野藩士ですが、中央に出て出世をなすったので、西周《にしあまね》氏の男爵、福羽氏の子爵が郷人の誇なのでした。福羽氏は侏儒《しゅじゅ》でした。親御《おやご》さんが、その体では見込がないから廃嫡する、といわれた時、どうか少し待って下さい、必ず何か為遂《しと》げますから、と泣いてお頼みになり、江戸へ出て国学を専攷《せんこう》して、世に許されるようになりましたので、明治天皇御即位の時の制度などは、福羽氏の創意に基《もとづ》いたように聞きました。御所では両陛下の御歌を拝見せられ、元老院議官というお役をお勤めでした。その頃私がぽつぽつ三十一文字《みそひともじ》を並べましたので、亀井家で何かお集りのあった時、お父様が福羽氏にお目にかかって、私のことをお頼みになったのです。無論お兄様とも相談の上でした。福羽氏は快く承知なすって、「昼は勤めで忙しいから、泊りがけでお出《いで》なさい」とおっしゃったというので、六番町《ろくばんちょう》のお邸へ、祖母と一緒に折々伺いました。お手紙の数通はその頃のもので、唐紙の巻紙に書いてあります。

 


浦千鳥


右御出詠なさるべく候。過日の詠草御返し申上候。

十八日

森きみ子様

美静

 


池水鳥
山松

右弐題御出詠可被成《なさるべく》候。此程の歌点検致し候。かしく。

十二月四日
森きみ子さま御返事

美静

 


 福羽氏はいつも馬車で出入なさいます。その頃夫人はいらっしゃいませんでした。お写真を見せていただきましたが、すらりとした立姿、おすべらかしに緋《ひ》の袴《はかま》、宮中へ参内の時のお姿でしょう、お品がよくて立派なものでした。御主人が侏儒のお体に大礼服を召したのとお並びになったら、どんなでしたろうか。それはそれは大切な奥様でしたが、ふとした病気でお亡くなりになったのです。お医者もそれほどの大事とはいわなかったそうで、いよいよ御臨終という時傍らにいたお医者に大喝して、「帰れ」といわれたそうです。さぞかし残念に思召《おぼしめ》したでしょう。


 最初の奥様のお子に逸人《はやと》様という御養子をなすって、お孫様もありました。逸人様は地方のお勤めですが、御邸内に広いお家がありました。御上京の折のお住いです。


 お邸には若くて美しい御召仕《おめしつかい》がいまして、六つか七つくらいのお嬢様がありました。祖母などは、親しげにお名前を呼んで、お心やすくしていました。夕方お馬車の音を聞くと、そのお嬢様と御一緒に走り出てお迎えをします。お体が小さいので、馬丁が扉を開けてから、お下りにならなければお姿は見えません。往来の人は空《から》馬車が走ると思っていたといいます。


 始めて伺った時には、前日お客来だったそうで、床の間に皇后陛下(後の昭憲皇太后《しょうけんこうたいこう》)のお短冊が掛軸になって掛っていました。赤地に金箔を置いた短冊に、美しいお字で書かれていました。早速写しとりましたが、幾年か立つ内にその手帳を失い、お歌も忘れました。


 広いお座敷の襖《ふすま》が黒塗の縁で、浅葱色《あさぎいろ》の大きな紋形がぽつぽつあるのを、芝居で見る御殿のようだと思いました。お庭は広く、立樹も多くて、六番町の化物屋敷と人はいいました。きっと荒れた邸をお買いになったのでしょう。曲りくねったお廊下などがあって、隠れん坊をするに好いのです。小さいお嬢さんと夢中になって遊んでいると、お祖母様に叱《しか》られます。


「今日はお習字だよ」と仰しゃると、墨を磨《す》るお手伝をします。毛氈《もうせん》を敷き、太い筆を執っていろいろお書きになる時には、きっと一、二枚はいただきました。或人が、いただいたお短冊が百枚になったからと、それを版にしたのを幾冊か持って来たことがあり、その一冊もいただきましたが焼きました。


 仲秋の名月の頃、月見に連れて行こうと仰しゃって、お嬢さんとも御一緒にお供をしました。その時始めて馬車に乗りました。上野の八百善《やおぜん》へ行ったのでした。料亭も、その時始めてはいったのでした。樹が繁っていますから月はよく見えなくて、葉隠れに光が射《さ》すだけです。ただおずおずと珍しい御馳走《ごちそう》をいただいていました。お嬢さんは平気です。いつもお出《いで》になるのでしょう。


 或時宮内省からのお使が、女官のお手紙を持って来ました。中奉書《ちゅうぼうしょ》の二つ折に美しい散らし書《がき》で、なかなか読めません。

 


ちか/″\くれのおめでたさ、どなたも同じ御事に悦入《よろこびいり》まゐらせ候。弥《いよいよ》御勝《おすぐれ》あそばし、寒さの御障《おさわ》り様もあらせられず、御さえ/″\敷《しく》入らせられ候御事、数々御めで度く、御よろこび申上げまゐらせ候。左様に候へば、此御まな料、まことに麁末《そまつ》の御事におはしまし候へども、歳末の御祝儀申上まゐらせ候しるしまでにさし上まゐらせ候。なほ幾久しくまん/\年までも相変らずといはひ入まゐらせ候、すゑながらどなた様にもよろしく御申伝へ戴《いただ》け候やう、ねがひ上まゐらせ候。御目録にて失礼の御事、よろしく御断《おことわり》申上まゐらせ候。めで度かしく。

 


なほのことの外ひえ/″\しく、随分御自愛遊ばし候やう、ねがひ上まゐらせ候。なほ又新年に相成候はゞ、不調法の詠草伺《うかがい》申上度、よろしくねがひ上まゐらせ候。めで度かしく

直子
福羽美静様人々

 


 福羽氏は御覧になると、御自分のお名前の肩へ墨を引いて私に下さいました。御覧になった印でしょう。珍しいお手紙と、取って置きましたのが残っています。


 その内に新しい奥様を、お国許《くにもと》からお迎えになりました。これということもない、おとなしやかなお方でした。種々の先生が来られます。お花、お茶、お香、双六《すごろく》の先生などまで来られます。地方出の奥様に、子爵夫人としての教養をお附けになるのでしょう。若いお召仕は、その頃は見えませんかった。種々の人が出入するので、或時お妹さんと仰しゃる方にお目にかかりました。白髪まじりの大がらなお方でした。福羽氏は指さして、「これは、かわ女房だよ」と仰しゃいました。何のことか分りませんかったが、若いという反対の方言かと思われます。そのお連合《つれあい》らしい中年の人が執事めいたことをしていられました。


 いつか、一年ほど過ぎました或日、お父様のところへ福羽氏のお手紙が来ました。珍しいことです。

 


前略。
おきみ様事、東京女子師範学校中の高等女学校に募集致し候専修科と申《もうす》へお出し候はゞ如何哉《いかがや》。是《これ》は追々新聞広告に見え候通り、当月十五日迄《まで》に願書御出被下《おんだしくだされ》たく、右科中に英語、和文、音楽(○是は西洋ピヤノより舞踏まであり)、日本の琴も間にあり。右学ばせ候はゞ可宜《よろしかるべき》かなど考候。御考承度《うけたまわりたく》、不取敢得貴意度《とりあえずきいをえたく》候。早々。

二月三日

美静
森静男様

 

尚々皆様へ宜敷《よろしく》御願申候也。

 


 こんな不規則な稽古では仕方がないと、誰もいっていたのでしたから、すぐ願書を出しますし、洋行中のお兄様にも通知します。田舎育ちの者が、知人もない中央の学校へ受験に行くというのを案じたのでしたが、すぐに独逸から返事が来て、不合格でも心配するなとあったので、気が楽になりました。


 幸に入学しましたが、入学すると今までと違って、ぐずぐずしてはいられません。乗物の不自由な頃ですから、お祖母様と一緒に本郷の素人《しろうと》下宿に移り、そこから学校通いです。それでもう福羽邸通いはやめました。
 学校を終るとすぐに縁づきましたので、福羽氏にはいよいよ御疎遠になりましたが、事あるごとにお知らせだけはしておりました。

 


御文細々拝見、先般も難有《ありがたく》候。皆々様、御安全めで度、くれぐれ御悦申上候。小生年賀にて森さまへさし上候事細々御示。御老人さまへは歓之事《よろこびのこと》難有存候。此度森さま御祝品御入念痛入《いたみいり》候。御礼御序《おついで》に御頼《おたのみ》申候。猶《なお》あなたよりも御祝之品に預り痛み入候。いづれ是《これ》より御礼可申上《もうしあぐべく》候。扇子丈《だけ》あり合《あわせ》を呈《ていし》候。御入手可被下《くださるべく》候。御出張之先之事、御案も候半。森御老人之事、くれぐれ御案じ上候。猶ほあなた様方も御留守者《は》嘸々《さぞさぞ》御配意と存じ申候。学士院之選挙人と申候。いかゞ相成候哉と存候。此方よりは出し置候事候。先は右一応之御礼迄申上候。匆々《そうそう》謹言。

七月四日

美静
小金井様参ル

 

くれぐれ御用心専一に存候。かしこ
尚々出来合之団扇《できあいのうちわ》等御笑らんに入候。

 


一寸《ちょっ》と文呈上候。秋暑之処御安全慶賀之至《いたりに》候。扨《さて》先般は御来車被下《くだされ》、且《かつ》御土産に預り候所、足痛にて御目にかゝり不申《もうさず》、失礼致候。其後御書面にも預《あずかり》候所、平臥《へいが》中故《ゆえ》御無音申候。此節少々快方候、併《しかし》他出致し兼《かね》候まゝ御無礼仕《つかまつり》候。此えり麁物《そぶつ》ながら呈上(○蘭の絵ハ御苑ニアル分ヲ写させ申候)。御笑留《ごしょうりゅう》被下度、外粗大なる冬瓜《とうがん》一つ御目にかけ申候。まづ過日之御礼迄如此《かくのごとく》候。匆々謹言。

九月十日

美静
小金井きみ子さま参ル

 


 この二通の手紙は、一つは主人が北海道へアイヌ研究に出張した時のことらしく、時期も七月でしたし、当時お父様も工合が悪かったのでしょう。学士院云々もその頃のことでした。


 後の一通は、わざわざお使で私に下すったのです。半襟は新宿御苑《しんじゅくぎょえん》の蘭の花を染めた珍しいもので、幾十年を経てすっかり色はあせながら、今も手筥《てばこ》の中にあります。なお粗大な冬瓜とありますのは、全く珍しく見事な物で、親類中に分配していただきました。御養嗣逸人氏は園芸の研究家で、今世にもてはやされる福羽苺《いちご》というのは同氏の創《はじ》められたものと聞きました。


 唯今私は二番町の親戚の家におりますが、昔伺った二番町の福羽氏の邸宅はどの辺かと尋ねても、知っている人がありません。何しろ半世紀どころか、七十年も前のことですから。
 

電話

 電話は文明の利器ですけれど、私どものように、いつも世に後れた家庭では、それほど利用もしないのでした。主人は、専門が解剖というためもありましょうが、諢名《あだな》を仙人と呼ばれ、新しいものは真先にという気風ではありませんでしたが、大学教授でしたので、電話は願出れば無償で引いてもらわれたのです。その電話の出来た始めの頃でした。郷里の若い娘の勤口《つとめぐち》の世話を頼まれましたが、幸いに知人に電話交換局の人があって、そちらへ世話をしてくれました。交換手なのですが、先方へ線を繋《つな》ぐ時、声が漏れて来るのを耳にしますと、お嬢さんが友達を誘って遊びに行く打合せをしたりするのを、田舎者だものですから、大胆なことかのように来て話すのでした。


 兄の家では、役所との関係もありますので、大分早く引かれましたが、先方からかかって来れば格別、あんまりお使いにはならなかったようでした。万年筆がお嫌いだったように、新しいものはあまりお好きではないのです。そういう点ではかえって母の方が進んでいて、「そちらに電話がないと不便だから引いておもらいなさい。私が病気になった時に、早く知らせたいと思うから」などといわれました。


 兄は電話での応対なども下手《へた》でした。電話へ出ると、平常と違った切口上《きりこうじょう》になるのでした。兄は数学というものが不得手なので、電話番号が覚えにくいらしく、何かの字を当てて覚えようとなさいます。譬《たと》えば親戚や自宅の電話番号なども、六七四というのを空(むなし)と覚えるという風で、自宅の二五七九を、「太藺(ふとい)と七子(ななこ)だ。織物二つで覚えいいだろう」などといわれましたが、余人にはそれもむつかしいというので、後には「藤色七子」と赤い紙に書いたのが、電話器の下の柱に貼《は》られたようでした。ですから時に番号が変りでもしますと、それはそれは苦い顔をなさいました。


 いつでしたか、夜分《やぶん》になって尋ねましたら、お嫂《ねえ》さんはお留守です。まだ小さかった類《るい》さんは病気で寝ていました。ちょっと話していますと、電話のベルが頻《しき》りに鳴ります。女中が出ますと長距離らしいのです。取次いでも、兄は頭を振るだけで、出ようとなさいません。行合せた私が出て見ましたが、よその家のことですから、はっきりしたことはいわれません。「どうしましょう」と伺いますと、「捨てておけ」とおっしゃいます。電話はいよいよ鳴ります。その頃いたつるという若い女が出て、何とかいって切ったようでした。お嫂さんはどこかへお出かけで、その晩はお帰りにならないのですが、さすがに類さんが心懸りで、様子を問おうとせられた電話なのでした。そんなことはよくあるのだそうで、何だかお気の毒で、早々にお暇《いとま》しましたが、帰りしなに勝手へ出て女中に聞きましたら、「行くなとおっしゃるのに、お出かけになったのです」と、女中も不服そうでした。類さんは熱があるらしく、その枕元《まくらもと》で兄の何かと慰めてお出《いで》の声が聞えます。こんな時には皆困ったことでしょう。


 このつるというのは、まだ若いのに、無口で、寂しい顔立ちをした女でした。やかましく叱られても口答《くちごたえ》もせず、いつもいいつけられた通りに牛乳瓶の消毒などをしていました。何か面倒な家庭の子でしたろう、暫《しばら》く世話になっていたようでした。
 その頃私の家には、どこからか迷って来た鳩がいました。近くの白山《はくさん》神社の群から離れたのかも知れません。それがよく馴《な》れて、卵をかえしたり、雛《ひな》をはぐくんだりします。それを見せるといって、類さんを連れて来ました。そんな時はつるも楽しそうで、晴やかな笑顔をしていたのですが、するとそこへ、「早くお帰りなさい」という電話です。「遊び過ぎました」といって、急いで帰る時の女の顔は、いつものように寂しそうでした。
 

建碑式

 

 七月九日の鴎外の命日に、詩碑の除幕式があるという通知を受けて、団子坂へ行きました。だんだん年を取るので、孫に連れて行ってもらいます。車で大観音の前を通りますと、四万六千日《しまんろくせんにち》だというので賑《にぎや》かです。三十幾年前もこんなだったと思います。今か今かというような、兄の容体を案じながら通った時の気持が思出されます。その頃の大観音の高いお堂は焼け失《う》せて、今は何か小さな物が建っているだけで、ここにも世の変遷が見られます。森の家も、いかめしかった門は影も形もありません。毎朝兄が出勤せられる時、馬丁が馬を引いて来るのを佇《たたず》んで待っていられた軍服姿が思出されます。


駒《こま》ひくをまつ朝戸出《あさとで》の手すさびに
    折りてぞ見つる梅の初花


 明治四十年頃の歌です。その梅なども、もとよりありません。昔駒寄せのあった向側に机を並べて、来会者に記名させる人々が待っています。筆を持ちますと、知人の名が目に附いて、もう来ていられるな、と思います。

 

 そこら一杯に人の並んでいられる傍を通って前の方へ出ますと、於菟《おと》さんが笑顔で立っていられます。今日の式まで、何かとさぞ御苦労だったでしょう。佐佐木信綱《ささきのぶつな》氏が見えます。私と同年位なのに、よく遠くまでお越しになったこと。あちこちに知ったお顔も見えますが、ただ目礼だけして置きます。席に落ちつきましたら、隣に石井柏亭《はくてい》氏、千ヶ崎悌六《ちがさきていろく》氏がいられるので、『冬柏《とうはく》』の歌会のあった頃を思出しました。前列から振返って目礼せられたのは額田《ぬかだ》医学博士御夫妻でした。兄が臨終の時お世話になった方です。


「沙羅《さら》の木」の詩が合唱せられて、式が始まりました。曾孫たちの小さな手で、幕がするすると除かれます。谷口吉郎《たにぐちよしろう》博士の設計に拠るということで、特に明治の煉瓦《れんが》を集めて十三間《げん》の塀《へい》を作り、二尺五寸に三尺六寸の横長の黒御影石《みかげいし》を嵌《は》めこみ、それに永井荷風《ながいかふう》氏が「沙羅の木」の詩を書かれたのです。その傍には詩に歌われた根府川石《ねぶかわいし》をあしらった沙羅の木の白い花が一つ二つ夢のように咲いています。
 左寄りに大理石の兄の胸像があります。これは武石弘三郎《たけいしこうざぶろう》氏の力作で、博文館で文界十傑を募集した時当選したのに対して、損得を離れて製作せられたものでした。長く処を得なかった胸像もよく掃除せられ、黒花崗《かこう》と耐火煉瓦とを四角に積重ねた美しい台の上に据えられて、晴上った日に照らされ、つぎつぎと花を捧《ささ》げる小さな曾孫たちを笑顔で見下されているようです。


 私は近来耳が遠いのですから、佐佐木氏のお歌を始め、つぎつぎとお話下さる皆様のお言葉がはっきり聴分《ききわ》けられなくて残念です。そんなわけですから、近頃は人の集まる処へは出ないことにしています。もし出れば無言劇でも見るような気になっているより外はありません。耳が遠いといえば尾崎行雄《おざきゆきお》氏が与謝野《よさの》さんの歌会へお出になって、いつも聴音器(イヤホーン)を卓に置いていられたお姿を思出すので、私も使って見ましたが、工合よくまいりません。それで今日もぼんやりしていたのですが、傍の孫が袖《そで》を引くので、見返ると岡田八千代《おかだやちよ》女史が笑顔で立っていられました。これこそ三十余年ぶりにお目にかかるのですが、ちっともお変りになりません。


 碑の建ったあたりは、母がいつも草取りをせられた処です。腕まである長い手袋をはめて、頭は頂の辺が薄くなっているので、日が照ると手拭《てぬぐい》を乗せるのでした。西洋婦人の帽子が羨《うらやま》しいといわれました。そして小さな草まで抜かれます。それが済んだ後を掃くのは座敷箒《ぼうき》です。柔かでないと隅々まで綺麗《きれい》にならぬといわれるのでした。


 そんな姿で門前までも平気で出て、駒寄せの間なども丹念に掃除せられます。私はその頃蓬莱町《ほうらいちょう》に住んでいたのですが、借家でも庭は広くて正面に赤松の林があり、隣は墓地で大竹藪《おおたけやぶ》がありました。静かでよいのですけれど、そんなですから、ひどく草が生えます。私も土いじりが好きですから、よく草取りをします。母が来られると、「御覧なさい、草取りをしました。綺麗になったでしょう」と申します。母は笑って、「こんなでは駄目だよ。すぐ伸びるから。私のは毛抜で抜くようにするのだから」と御自慢です。あの『十六夜日記《いざよいにっき》』で名高い阿仏尼《あぶつに》が東国へ下る時に、その女《むすめ》の紀内侍《きのないし》に貽《のこ》したといわれる「庭《にわ》の訓《おしえ》」一名「乳母の文」にも、「庭の草はけづれども絶えぬものにて候ぞかし」といってあります。そんなことを口にして、「昔から草は伸びるものとなっているのですね」などと、母と語合うのでした。


 草取りをしてくたびれると、母は隣り境にある臥牛《ねうし》のような大石に腰を下して休まれます。それは観潮楼が出来上った時、千樹園という植木屋が勧めて入れたもので、子供たちはその背の上を面白がって歩くのでした。その石は今もきっとそこらにあるでしょう。気の利いた女中が掃除の済んだ跡で、飛石に雑巾《ぞうきん》をかけましたら大層喜ばれましたので、それから何か母の機嫌を損《そこな》うと、すぐ飛石洗いをすると笑われました。


 兄も庭の綺麗なのがお好きでした。縁の隅に麻裏草履《あさうらぞうり》が置いてあって、食後などには折々庭へ出て見られるのですが、上る時には必ず元のように裏返しにして置かれます。心ない客が燐寸《マッチ》の軸などを庭に投げたりするのをひどく嫌って、客が帰るとすぐに拾わせるのでした。


 庭には大盃という楓樹《ふうじゅ》があって、根元につくばいが据えてあり、いつも綺麗な水が溢《あふ》れるようにしてありました。苔《こけ》のついた石に紅葉の散っている時などはよい眺めでした。或建築家が、乾いた庭は息詰りがしてならぬ。水はつくばいの水だけでもよい。庭でそこばくの水を眺めるのは、お茶を飲むのと同じ気持がするといわれました。兄はよく草履ばきでその石の上に跼《かが》んで、そこらを見ていられました。明治二十九年の句に、「亡父を憶《おも》ふ」として、

 


俤《おもかげ》やつくばひのぞく秋の水

 


というのがあります。


 こんなことを思返している内に式は終ったのでしょう。あたりの人々のぞよめく気はいがし始めました。
 

 

 昭和十八年十二月十三日のことです。弟潤三郎《じゅんざぶろう》から来た葉書に、「工合が悪いので医者へ行ったら、萎縮腎《いしゅくじん》との診断です。とうとう父上、兄上と同じ病気に懸《かか》りました。いずれ跡を追うことになるでしょう」とありました。びっくりして他へ行くはずだったのを止《や》めて尋ねましたら、家はひっそりとしています。あまり静かなので黙ってそっと上って襖《ふすま》を開けますと、潤三郎は机に倚《よ》ってこっちを見て笑っています。外に誰もいないので玄関の戸の開く音も聞えなかったのでしょう。「人をびっくりさせてはいけないよ」と、紙に書いて見せますと、「いや、それほど重くはないそうで、ただ長くかかるといわれたものだから」といいます。


「長くかかってもいいではありませんか。お兄様のは一、二年だったけれど、お父様のはよくなったり、悪くなったり、随分時がかかったでしょう。老年になれば誰でもする病気ですから、気を附けて体の調節を図ったら、きっとよくなりますよ。安静にしているのが第一ですから、あまり出歩かぬことですね。」
 私はこう書いて見せて、その日は帰りました。


 潤三郎の耳の遠いのは昔からです。賀古《かこ》さんの病院へ通って、代診の内藤さんというのが優しいよい人だったので、それほどでない時にも、よく診《み》てもらったものでした。


 大正十一年にお兄様がお亡くなりの時、一週間ほど詰切《つめき》って、葬儀が済んで帰宅したその晩から大熱を出して、四、五日を夢中で過して、ようよう全快しましたものの、その時から耳は全然聞えなくなりました。精神上の打撃からだと医者はいわれます。それでも端《はた》の者が思うほど苦にもせず、元気に書き物をしたり、調べ物をしたりしておりました。いつも紙と鉛筆とを懐《ふところ》に持っていて、それを出しては人に書かせ、自分は口で返事をするのでした。


 妻の静子さんは、森の親戚《しんせき》の米原《よねはら》家の人なのですが、その生れた時に、私どものお父様の名の一字を取って、静子と名づけられたのです。子供は一人ありましたが、早く亡くなりました。静子さんは生田流《いくたりゅう》の琴が上手なので、近所のお嬢さんたちに、楽しみに教えていられました。潤三郎が耳が聞えないものですから、琴の音をうるさがらないで都合がいいといっていられました。


 潤三郎が『朝鮮年表』という本を作ったのは、よほど前のことです。朝鮮に行きたい希望でしたが、生来虚弱なので、お兄様からお許しが出ませんでした。朝鮮の歴史にも興味を持っていましたが、早くから江戸時代の文化史を専攷《せんこう》にして、『紅葉山文庫《もみじやまぶんこ》と御書物奉行《ごしょもつぶぎょう》』の著書があります。これは東照宮三百年祭紀念会の補助に成ったので、昭和八年に出版せられたのですが、約八百頁もあって、幕府の紅葉山の変遷から、御書物奉行九十人の伝記が集めてあり、奉行の伝記に関しては、雑書の類まで広く漁《あさ》った上に、その墓所をも一々踏査したのでした。京都府立図書館在職中に筆を執り始めてから、完成までに二十年の歳月を経、その間に稿を改めることが五回に及びました。自分が図書館に勤めていましたし、お兄様も図書頭《ずしょのかみ》をなすったりしたので、自然そうした方面に興味を持ったのでしょう。


 外に『多紀氏の事蹟』という著述もあります。多紀氏は江戸時代の漢方医学の牛耳《ぎゅうじ》を握って、あるいは医学校を創立して諸生を教え、あるいは書物を校刊して学者の研鑽《けんさん》の資に供した官医で、その登門録と題した門人帳に九百五十人もの名が見えるのでもその盛業が忍ばれます。多紀氏の墳墓は滝野川城官寺《たきのがわじょうかんじ》にありますので、そこへ調べに行く時には、いつも麺麭《パン》を持参で、私の家へ寄っては、お茶を下さいといったものでした。この出版は日本医史学会からの補助を受けました。


『多紀氏の事蹟』もまた昭和八年に出版せられましたが、その年の暮にはまた於菟《おと》さんと共に、『鴎外遺珠と思ひ出』という書物を公にしました。最初の『鴎外全集』十八巻は、いろいろの事情のために、大正十二年一月から始まって、五年目の昭和二年十月にやっと終りましたが、その十五、六巻までの校正は、大抵一度は潤三郎が見ているのです。その間には帝国図書館その他へ行き、関係資料の蒐集《しゅうしゅう》に努めたのです。ついで昭和四年に『鴎外全集』の普及版が計画せられて、潤三郎は編輯《へんしゅう》校正に当りましたが、その後も遺文は続々発見せられますので、それに遺族の思い出をも加えて一冊にしたのが『鴎外遺珠と思ひ出』です。

 

 その後新しい『鴎外全集』が岩波書店から出た時も、潤三郎は相談に与《あずか》って、校正に力を尽しました。岩波版の全集には、「校勘記」というものを添えました。お兄様も晩年は病体で、その伝記物には調査の不十分な点などもあったので、潤三郎は気の附くかぎりその訂正補充に努めて、それらを「校勘記」に記載したのです。


 潤三郎がお兄様のことを書いたのは『明星《みょうじょう》』の紀念号からですが、その時はまだ病気が癒《なお》り切らず、鈴木春浦《しゅんぼ》さんが来て筆記せられたのでした。それから後、お兄様に関することどもは細大洩《もら》さず書抜いたり、切抜いたりしてそれが長年の間に大分の量になったのを整理して、『鴎外森林太郎』の一冊を作りました。これは昭和十七年に発行してから、一年半の間に十回までも版を重ねて、本人も大満足でした。つまり晩年はその兄のために全力を尽したといってもよいのです。それが急に亡くなったので、あの世でお兄様は潤三郎を迎えて、「御苦労だった」とお礼をおっしゃったろうと思います。


 潤三郎が京都府立図書館に勤めていましたのは、明治四十三年から大正七年まででしたが、その間お母様は楽しみにして、京都へお出かけになったものでした。またその間にお母様の御病気の時は、京都から上京して、一カ月ほども看護しました。潤三郎の京都にいた間にお兄様は人々の伝記を起草せられたので、京都に関することを度々照会して、手紙の往復が絶えませんでした。時には宇治《うじ》までも行って、万福寺《まんぷくじ》の墓地にある碑文を写して来たりなどもしました。帰京後にも、伝記に関しては、いろいろ蔭《かげ》の補助をして上げておりました。


 性質が至って優しくて、私の頼むことなども、潤三郎はよく聞いてくれました。何の本が見たいといいますと、すぐに本屋を探して買って来てくれますし、何が分らぬといいますと、すぐに図書館で調べて、書抜《かきぬき》を送ってくれました。私が年をとって細《こまか》い文字など見づらいので、校正なども頼みますと、長年馴《な》れているものですから、手早く親切にやってくれます。それをいつも感謝しておりました。酒を絶対に用いませんので、御礼心に、来そうな時には甘いお菓子を心懸けて取って置くようにしていました。


 萎縮腎は一時快《よ》くなりましたので、大晦日《おおみそか》には米や野菜を持って箱根へ湯治《とうじ》にまいりました。元旦にそこから寄越《よこ》した葉書に、「私は割合に元気にしております。元日と二日とは休養、三日頃から見物、携帯食糧のなくなる頃帰京」などとしてありました。全快したのかと喜んでおりましたら、二月の中頃に丹毒《たんどく》になったといって来ましたので、どうかと思って見まいますと、「もう足の痛みは取れた」といって、座敷の中をずっていました。それほどでもなかったらしいのですが、いろいろの病気も皆腎臓から出るらしいので、内心困ったものと思いました。


 その年は例年よりも寒さが続いていました。三月二十日になってまだ雪を催している日に、台湾の於菟さんに潤三郎の近況を知らせようと手紙を書いていましたら、そこへ当人がひょっこり尋ねて来ました。
「まあ、もう出歩くのですか。無理でしょうに」といいますと、「痛みも取れてあまり退屈だから出て来ました。神田《かんだ》の本屋に用があるので、ついでに寄ったのです」というのです。


 食事時になりますけれども、時節がら何もありません。何しろ寒いのですから、お雑炊《ぞうすい》を作って出しましたら、「これで温かになります」と、ふうふう吹いて食べておりましたが、その横顔はめっきりと痩せが目立っていました。
 帰ります時に、玄関まで送って出て、「病気の挙句《あげく》だから、気を附けて早くお帰りなさい」と書いて見せましたら、「うんうん」とうなずきました。悪くならねばよいがと、後姿を見送ったのですが、それが宅へ来た最後となってしまいました。


 潤三郎が帰ると、間もなく雪が降出しました。案じられるものですから手紙を出しましたが、この頃は郵便も手間取るので、二十七日にやっと返事が来ました。「あれから帰りに新富町《しんとみちょう》の友達の家で話す中に雪となり、帰ったら病気が再発してまた医者通いをしましたけれどもう癒った。医者の勧めもあり、また箱根へ一週間ほど行きたいと思います」とのことです。


 けれども四月二日にはまた、「箱根はさっぱり湯が出ないし、ひどく物資も不足だというから、湯の出るようになるまで見合せます」といって寄越したので、どこへも行かなかったことを知りました。


 それから三、四日した四月六日の朝でした。電話がかかって来て、「脳溢血《のういっけつ》で、けさから昏睡《こんすい》状態です」というのです。
「それは大変、すぐ行きます」と、急いで支度している内にまた電話です。「唯今こときれました」と聞くなり、思わずそこに坐ってしまいました。


 生きている間に今一度逢いたかったと思うと、涙がこぼれて仕方がありません。老年になってから、十も年下の弟に先立《さきだ》たれ、四人兄弟が私一人になってしまったのですものを。


 車といっても近頃は間に合わないので、省線、目蒲線《めかません》と乗継いで行くのが、もどかしくて仕方がありません。駅を下りてからの長い桜並木は、まだ莟《つぼみ》が堅くて、籬《まがき》の中には盛りの過ぎた白梅が、風もないのにこぼれておりました。
 枕元に坐ってさし覗《のぞ》きますと、ただ静かに睡《ねむ》っているようですが、もうこの世の人ではありません。拝をしてから額に触《さわ》って見ましたら、氷のような冷かさ。それが電気のように沁《し》み渡ります。つい十日ほど前に、熱いお雑炊を、ふうふう吹いていた横顔が目に浮びました。涙と香の煙の立迷うのとで、そこらはただ朧気《おぼろげ》に見えました。


 遺骸《いがい》にはさっぱりした羽二重《はぶたえ》の紋附が著《き》せてありましたが、それはお兄様の遺物でした。納棺の時に、赤い美しい草花を沢山取って来て、白蝋《はくろう》のような顔の廻りを埋めたのが痛々しく見えました。私はそっと紙と鉛筆とを入れました。いつも身に附けていたものですから。


 書斎には蔵書が書棚に溢《あふ》れ、また昔からの趣味で、あらゆる物を切抜いて貼附《はりつ》けたのが山を成しています。もはやそれを読む人も、整理する人もないことを思いますと、またしても目頭《めがしら》が熱くなりました。


 それから毎日のように潤三郎の家へ行きます内に、並木の桜の花が咲き、それがまた忽《たちま》ち盛りを過ぎて、目蒲線を往復する電車の屋根を白くするようになりました。思えば遠い遠い昔です。私どもが幼くて向島《むこうじま》に住んでいた頃、土手の桜の花の盛りに、やっと歩かれるようになった弟の手を引いて、お母様たちともよくその辺を散歩したものでした。その頃の隅田川《すみだがわ》には花見船が静かに往き来していて、花びらがちらちらと川の水に散りかかっていたのでした。並木の桜の散るのを見て、その頃がなつかしく思出されました。

 


雪の日に早くかへれとわれいひぬ
    つひのわかれと知るよしもなく
わが涙たゞしづくすれぬかづきて
    のごひもあへず香たてまつる
かひなしと知りつゝその名一声は
    呼ばであられぬわれなりしかな
なき人をきのふもけふも訪ふ家の
    庭の白梅ちることしきり
羨《うらや》ましかの世に行きてむつまじく
    父母兄達とかたりますらん
茶羽二重大きく白き菊の紋
    兄のかたみをよみの晴著《はれぎ》に
人の世のはかなさ見せてゆく道の
    並木のさくら雪とちりかふ
はや十日かすかにちりの積もりたり
    君が手ふれしうづたかきふみ
親はらからみなつぎつぎにさきだちて
    ひとりのこりぬ七十路《ななそじ》の身の
 

祖父

 

 森の家は、石州《せきしゅう》津和野の城主亀井家に代々仕えた典医でした。亀井家は元和《げんな》三年に津和野に封ぜられてから十二代になり、森は慶安《けいあん》から天保《てんぽう》年間までで十一代になりました。祖父はもと佐々田綱浄《つなきよ》といった人で、若い頃は江戸、大阪、長崎と、諸国を遍歴しました。天保二年に逝《ゆ》いた森秀庵《しゅうあん》の養子になった頃は、年がもう四十位でした。通称は始め玄仙といったのを、後に白仙と改めました。亀井家では奥附という勤めでした。この祖父が十二世なのです。


 祖父は性質が謹厳でしたが、同時に放胆な一面もあったそうで、趣味も広かったので、蔵書には医書の外に歌集、詩集、俳書などもあったのです。その中に橘守部《たちばなもりべ》の『心の種』があったといって、後年長兄が私に下さいました。漢文も達者に書かれたらしいのですが、詩は一つもないそうです。歌は好まれたと見えて、始めて江戸へ出る時に富士山を見て、

 


おもひきやさしも名高き富士の根の
    麓《ふもと》を雲の上に見んとは

 


と詠んでいられます。それを後に福羽美静翁が半折《はんせつ》に書いて、自ら讃歌を添えて贈られたのが、懸物《かけもの》になって残っていました。俳諧《はいかい》は大阪にいた頃点取《てんとり》ということを人から勧められたけれど、宗匠の人物に不服だったのと、無学の人にも叶《かな》わなかったりするので廃《や》めたのだそうです。


 碁も謡も少しはなさいました。若い頃には碁に凝ったこともあるらしいのですが、或《ある》集会で十ばかりの童子でその道の天才といわれるのと打って見ましたら、少ししたらその子が声を立てて笑って、「いやだ、おじさんは。わたしがこう打てばこう、ああ打てばああと考えたのでしょうが、それではだめですよ」といいました。じっと考詰《かんがえつ》めてしたことに図星《ずぼし》を指されて赤面して、もう続ける気持がなくなったそうです。その子は盤を離れると、そこにある菓子を食べたり、相撲《すもう》を取ったりして、外の子供と少しも変らないのに、その道にかけては怖《こわ》いものだといわれました。


 風采《ふうさい》もよく、背丈《せたけ》もあり、同役は著流《きなが》しが常なのに、好んで小袴《こばかま》をはかれました。頭こそ円けれ、黒羽二重の羽織を長めに著て、小刀を腰にした反身《そりみ》の立姿が立派で、医者坊主などといわれた円頂《えんちょう》の徒とは違うのでした。


 その円頂のことですが、森の親戚に西《にし》という家があります。やはり代々の医者でした。森からそこへ縁附いた人の後に、小字経太郎《こあざなみちたろう》、寿専というのがあって、幼い時から学問を好んで、就《つ》いて学ぶ師が皆驚くほどでした。家蔵の書を残りなく諳《そらん》じたのです。嘉永《かえい》元年その二十歳の時に有為の才を認められ、当職が召出して藩主の命を伝えました。それは、「一代還俗《げんぞく》仰付けらるゝに依り、儒学を修業すべし」というのでした。還俗は医者を罷《や》めることなのです。つまり僧と同じ扱いなのでしょう。後に男爵西周《あまね》となったのはこの人でした。


 祖父には人に譲らぬ気概があったので、時の典医だった堀、平田、加藤の諸氏と、脈について大いに論じた書類がありました。その頃の医者の診察は第一に脈を取り、舌を望むのです。手首を支えて動脈に触れるのですから、奥方とか姫君とかいわれる方々は、人に面《おもて》を見られるのを厭って、糸で手首を結わえて、簾《すだれ》の間から出されるのを、膝行頓首《しっこうとんしゅ》して拝診したというのです。これを糸脈《いとみゃく》というのですが、恐らくは形式だけのものでしょう。傷ついて両手を包んだ人の脈をどうして見るかという説が出て、誰も頭を傾けた時、祖父は脈は心《しん》の響を伝えるものだから、顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》、頸《くび》、股《また》、脛《すね》、どこでも脈の通う所を押えれば知ることが出来る。手首は触れやすいために習《ならい》となったのに過ぎぬと論ぜられたので、列座の人々は驚き呆《あき》れ、首肯する者、否定する者、暫く騒然としたそうです。


 森の家を嗣いでから祖母を迎えましたが、最初に出来た長子が夭折《ようせつ》し、次に生れた長女はひ弱くて心細かったのでしょう、その頃石見国美濃郡《いわみのくにみのごおり》に高橋魯庵《ろあん》という人があって、その子の順吉というのが夙慧《しゅくけい》として聞えていましたので、貰受《もらいう》けて養子にしました。津和野に来たのはその子が九歳の時でした。


 順吉は眉目《びもく》が秀麗で、動作が敏捷《びんしょう》でしたから、誰にも愛されました。養老館に入って学びましたが、十四歳になった時には、藩の子弟にも及ぶ者がないと推奨されたのです。養老館は天明《てんめい》年間に建てられた藩の学校で、孟子《もうし》の養老の語を取って名附けたのです。後年母が話されたのに、「医者の家で人の出入も多く、子供に何か持って来てくれるのに、誰も私にという人がなくて、順さあに上げてとばかりいうので、祖母は変な顔をなすったよ。私はよほど無愛想な子だったと見えるね」とのことでした。


 順吉はそれほど受けがよかったのですが、祖父の気に入りませんでした。心に誠実がなくて、時には虚偽にも類した行為も交ったので、弱い少女と妻の行末《ゆくすえ》とを頼むのに不安だったらしく、ついに離別せられることになりました。それを聞いた知人で、訝《いぶ》かしがらぬ者はありません。祖父があまりに頑固《がんこ》だと誹謗《ひぼう》する人さえあったのです。いよいよ話が極った時、祖母は五年間の親しみを思って涙を流されたそうですが、当の順吉は平気だったといいます。


 しかし俊秀な少年として知られていたのですから、同藩の医吉木蘭斎《よしきらんさい》というのが直ぐに迎えて養いました。「好い拾得物をなされた」と、人が羨《うらや》んだといいます。やがて娘に娶《めあわ》せましたが、幾程もなく順吉は藩を脱してしまいました。養父の失望、娘の悲歎はいうまでもありません。どんな事情があったのか知りませんが、「そんなことなら婚礼などしなければよいのに」と、人が噂《うわさ》をしたそうですから、いずれ無情な行動があったのでしょう。その時になって、始めて誰も祖父の目利《めきき》の違わなかったのを感じました。


 順吉は脱藩後仏蘭西《フランス》語を修め、忽《たちま》ち上達して、江戸で徒を集めて教えていました。明治初年になって、前に述べた西周氏が洋行から帰って、西三筋町《にしみすじまち》に住われた頃、沼津に軍黌《ぐんこう》が出来るからとのことでその主務教頭となるように勧められて承諾しました。その時順吉が尋ねて来ることが度々に及びました。新知識に接するためでもあり、森家の親戚という意もあったのでしょうか。ところが西氏の沼津へ立たれる前に来ると約束して置いて、ついに来ませんかった。順吉と同宿していたのが津和野の人で、後に西氏に語りましたのには、或日金沢の士が二、三人尋ねて来て、どこかで酒を酌《く》んだようですが、それきり帰りません。その後見た人がないのですから、きっと殺されたのでしょう。翌日その室を見たら、取散らしたままになっていたから、遁《のが》れたのではありますまい、とのことでした。あたら才分はありながら終をよくしなかったのは惜しいことでした。


 祖父が病を押して江戸からお国へ帰る途中、近江《おうみ》の土山《つちやま》で客死せられたのは、文久《ぶんきゅう》元年のことでした。長兄が生れる前年です。ですから私たち兄弟の誰も祖父の顔を見ていません、写真もないのですから。


 祖父の容姿のよかったことは前に書きましたが、その歿後《ぼつご》、祖母には経済の才があると、兼ねて聞えていたのでしたから、再縁を勧める人が多い内に、藩でも有名な富豪の某家から是非にと望まれました。森の家はもともと資産などないのでしたので、応分の補助をする、後嗣《あとつぎ》も生まれて御家庭の心配もあるまいから、どうか来てもらいたいと、断っても断ってもいわれます。ついには祖母の里方、長州鷹《たか》の巣《す》の木島家までも手を廻したので、心弱い里方の父もその応対に困り果てましたが、その時祖母が、「先様《さきさま》には何の申分もありませんが、亡夫より男ぶりが悪いから御免を蒙《こうむ》りましょう」といわれたので、仲介者も口をつぐんだとのことでした。もとより口実だったのでしょうけれども、聞く人もそれを怪《あやし》まなかったのです。


 その祖母から私は、一人きりの女の子というのでかわいがられて、夜《よ》なべをしながらよく祖父の話をして下すったので覚えているのですが、その内の一つに次のようなのがあります。


 或年の三月頃の晩、祖父は知合の家で碁を打って、夜を更《ふか》されました。その日は空が薄曇っていて肌寒く、今にも雨がこぼれそうだと思う内に、本降《ほんぶり》となりましたので、家では若党の和助を迎いに出しましたら、とくに帰られたというのです。夜更にどこへ寄られたろう、行違いになるわけもないし、もうお家へお著《つき》かも知れぬと思いながら帰って来ますと、いつか雨が止《や》んで、月が出ています。傘を畳んで、提灯《ちょうちん》を消して、川の辺まで来ますと、川の水が光ってそこらが明るく、橋の上に何やら立っているものが見えます。立止ってよく見ますと、それが御主人で、傘は拡《ひろ》げたままで足許《あしもと》を見ていられます。
「旦那様《だんなさま》、どうなさいました」と、声を懸けても聞えぬらしいので、「旦那様、旦那様」と、なおも呼びながら近寄りました。
「旦那様、雨は止んでおりますのに」といって傘を取りましたら、初めて気が附いて、「あゝ和助か」といわれます。
「そちら側は板が落ちていて、お危のうございます。こちら側をまいりましょう。」
 そういって、お供をして帰りましたが、家に著きましても、あまり口を利かれません。それでも家の人たちは安心して、「きっとお酒が過ぎたのでしょう」と思っていました。


 その翌日、祖父は祖母に話されました。
「ゆうべ先方《せんぽう》を出ると、人通りのない道を、笠《かさ》を被った小僧が素足でぴちゃぴちゃ附いて来るので、傘の中へ入れてやったが、足許に絡《から》みついて歩きにくいことといったら少しも道がはかどらぬ。連《つれ》はないのか、どっちへ帰るのか、と聞いても返事をせぬ。顔を見ようとしても、小さな笠で分らない。やっと川の辺へ来たら、『こっち、こっち』と袖《そで》を引いて、橋の方へ行く。橋は雨で一面に濡《ぬ》れている。高下駄《たかげた》で辷《すべ》りそうだし、橋板の落ちている所もある。桁《けた》の上を拾って歩くと、またしても足許に小僧が絡む。そんなことでどれだけ時間が立ったか、汗びっしょりになった時に和助が来てくれたのだ。」
 これを聞いた祖母は、目を円くしていいました。
「それはきっと狸《たぬき》でしょう。あの辺には狸が出るように聞きました。」
「何だか知らぬが、誰にもいわぬように。」
 口止めをされたので、祖母は誰にも話しませんかったが、母だけは知っていました。祖父は碁に凝ったためと思われたと見えて、その後は碁石を手にせられませんでした。


 長兄のお書きの伊沢蘭軒《いざわらんけん》の伝にも、似寄りの話が出ています。蘭軒が病家からの帰途、雨の夜で、若党が提灯を持って先に立って行きます。蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》のお堂に近い街を過ぎる時、菅笠《すげがさ》を被った童子が後から走って来て、並んで歩きました。
「おじさん、怖《こわ》くはないかい。」
 蘭軒は答えません。童子は反覆しました。若党は振返って見るなり、「あっ」と叫んで、傘と提灯とを投出しました。
「どうしたのだ。」蘭軒が問いました。
「今お側にいた小僧は、額の真中に大きな目が一つしかありませんかった。」
「ばかをいうな。そんなものがあるものか。お前の見損いだ。」
「いいえ、河童《かっぱ》が出たのです。あの閻魔堂の前の川には河童がいます。」
 蘭軒は高笑いしました。「目が闇《やみ》に慣れて来た。思いの外暗くはない。提灯と傘とを拾って来い。」
 伊沢の家には近視の遺伝がありました。それで蘭軒は童子の面を見ることを得なかったというのです。なんというよく似た話でしょうか。けれども森の家には近視眼の遺伝はないのです。


 ずっと後のことですが、次兄の篤次郎は筆名を三木竹二《みきたけじ》といって、大の芝居好《しばいずき》で、九代目団十郎が贔屓《ひいき》でした。その団十郎が「高時《たかとき》」を上演しました時に、勧められて祖母と一緒に見に行きました。母は次兄に連れられて、とっくに見られたのです。


 団十郎の扮《ふん》した高時の頭は円く、薄玉子色の衣裳《いしょう》には、黒と白との三《み》つ鱗《うろこ》の模様が、熨斗目《のしめ》のように附いていました。立派な御殿の廂《ひさし》の蔀《しとみ》を下した前に坐っています。どろどろの鳴物《なりもの》でそこらが暗くなりますと、天狗《てんぐ》が幾つも出て来ます。皆羽根を附けていて、欄干を伝うのもありますし、宙返りなども鮮かにするのです。その役者たちは、幾日も熱心に物干《ものほし》に下りた鳶《とんび》を見て研究したのだそうです。やがて高時の側へ来て、頻《しき》りに嘴《くちばし》を動かすのは、舞を教えようというのでしょう。高時は機嫌よく立上って、「習おうとも、習おうとも」といって、天狗どもに引廻され、不思議な挙動をさんざん繰返した後に、疲れ果てて睡《ねむ》ります。怪しい気配を訝《いぶか》しがった城入道その他の人々が、廊を踏鳴らして近寄ると、天狗たちはばらばらと柱をよじ上り、鴨居《かもい》を伝わって逃散ります。そして虚空から、「天王寺の妖霊星《ようれぼし》を見ずや」と歌います。その声が聞えると、高時は正気に返って立上り、小長刀《なぎなた》片手に空を睨《にら》みます。駈寄《かけよ》った人々が燭《しょく》を差上げ、片手を刀の柄にかけて、同じく空を見上げたところで幕になりました。


 これを見て私は、また祖母の話を思出したのです。風の冷い晩秋の頃、毎夜二、三の同僚の家へ代る代る集って謡の会をするのに、祖父も混っていられました。藩主は謹厳な方で、歌舞音曲はお好みになりませんでしたが、謡はなさるとのことでしたから、自然家中の者も嗜《たしな》んだのでしょう。その祖父が或夜帰られませんので、病気でも出たのかと早朝人を出しましたら、途中の森の社《やしろ》の廻廊で睡っていたというのです。


「誰とも知らぬ二、三の人と出逢って、ここに立寄ったが、医道について論ずるのに、甲論乙駁《こうろんおつばく》という有様で果てしがなく、ついに言伏《いいふ》せはしたが、ひどく疲れた」と祖父はいわれたそうです。


「高時」の芝居を見てそのことを思浮べた私は、そっと祖母の袖を引いて、「おじい様がお社で人と議論をなすったというのも、あんなでしたろうか」と申しましたら、「そんなお話は人中でするのではありません」といわれました。


 頭は円いし、相貌《そうぼう》は立派ですし、祖父もあんな風ではなかったかと思ったのです。それで帰ってから兄たちにいいましたが、誰も相手にしませんかった。
 

祖母

 

 森の祖母が八十八で亡くなったのは明治三十九年七月で、ちょうど於菟《おと》さんと、宅の長男と、二人の曾孫が高等学校へ入学した時でした。於菟さんを非常にかわいがっていられたのですから、分ったらさぞ喜ばれたでしょう。


 若い時から身だしなみのよい人だったそうで、老いてからも毎朝丁寧に手水《ちょうず》を使い、切下げの髪を綺麗《きれい》に撫《な》でつけて、火鉢の側にきちんと坐っていられるのでした。毛筋は細く柔かで、茶色になっていましたが、白髪は終るまで一本もないのが不思議でした。小作りな痩《や》せ形《がた》な人で、色は浅黒く、人並より鼻が高いのでした。歯は入歯でしたが、それが鉄漿《かね》でも附けたかのように真黒で、黄楊《つげ》で造らせたとのことでした。


 その切下げの髪で思出したのですが、私を毎朝小学校まで、運動がてら送って下すっていた頃、帰りに巡査が呼止めて、「いつその髪を切ったのか」といったのです。咎《とが》められたと思った祖母は腹を立てて、「ちゃんと届がしてあります。家へお出《いで》なさい、見せますから」といったら、そのまま行ってしまったとのことでした。父は笑って、「咎めたのではないでしょう。誰か親戚の人にでも髪を切らせようと思って聞いたのかも知れません」といわれました。


 祖母はその頃六十位でした。まだ職人などには、男でも結髪の人をよく見かけた時代で、断髪令というものが出たと聞いたことがありますが、まさか届を出したのでもないでしょう。病気のために断髪するという形式でもあったのでしょうか。
 その頃の小学校では日々成績表を附けていて、出来のよいのは丸が貰《もら》えるのです。生徒たちは自然丸の数を競うことになります。帰って祖母の顔を見ると、「今日は幾つ」と、きっといわれます。丸の多い日は元気ですが、少い日にはしょげるのです。叱りはなさらなくても、むつかしい顔を見るのがつらいのでした。


 森の家では質素な生活を長年の間続けていたのですから、祖母はよく働かれたのでしょう。祖父は思う通りを行って、人の思わくなどは顧みない風でしたから、その周囲の人々との間を円満に執りなすのには骨を折られたそうです。上役の人の家に然《しか》るべき来客などのある時には、「お執持《とりもち》に森のおもう様をお願いするといい」といわれたくらいでした。おもう様は方言です。


 初めの男の子が夭折して、次に生れたのが母でしたが、小さい時は虚弱でしたので、育てるのに心遣いが多かったのです。それがやっと成人して養子を貰い、間もなく妊娠したので、これからと思った時に祖父が客死せられたので、その時の祖母の歎きは思いやられます。それでも気丈な祖母は崩折《くずお》れず、養子が優しい性質で励ましてもくれますので、孫の出生をひたすら待ったのでした。そうして生れた孫が私たちの長兄鴎外で、母はその時十七歳でした。


 母の産は不思議なほど軽かったそうです。お医者仲間では、まだ年少なので、骨が堅くないからだろうという人もありましたが、祖母は、「全く祖父のお助けに違いない。生変《うまれかわ》って来られたのだから」と、神棚へ灯明を上げて、いつまでも拝まれたとのことです。
 そんなわけで、その初孫《ういまご》を非常に大切になさるのでした。或日夜更けてから用事のある人が、横堀にあった森の家の辺を通りかかると、あかあかと灯がともっていて、人声もするのです。もしや病人ではあるまいかと覗《のぞ》いて見たら、生れたばかりの赤ん坊のむつかるのをあやすというので、皆起きて騒いでいるのに呆《あき》れたということです。私はその話を聞いてほほえんだのでしたが、近頃成尋阿闍梨《じょうじんあじゃり》の母の日記のことを佐佐木信綱《ささきのぶつな》大人《うし》の書かれたのに、その母性愛のことの記されてあるのを読んで動かされました。成尋はひよわかったので、人に抱《だか》せると泣き、自分が抱けば泣止む。寝床へ置いても泣出すので膝《ひざ》の上で寝かせ、高坏《たかつき》を灯台として膝の前にともし、自分は背中を衝立《ついたて》障子にもたせかけて、百日の間は乳母《うば》にも預けずに世話をしたなどとあるのです。時代こそ違え、身分こそ違え、祖母の孫に対する心は、阿闍梨の母にも劣らなかったろうと思います。何しろ母が若かったので、長兄は殆《ほとん》ど祖母に育てられたのです。


 私ども兄弟は幸に丈夫でしたが、孫の於菟さんは早く母に別れ、乳母の乳が悪かったというので、始めは弱々しかったのに、母はその頃家事に忙しいので、祖母の心配は一通りではありません。「森家の長男に気を附けねば」とよく世話を焼かれたのですが、時には焼かれ過ぎることにもなるので、皆うるさがり、困りもしました。もう団子坂へ移ってから、於菟さんが腎臓病に罹《かか》って、「入院させたら」という話になった時、「私の傍から連れて行ってしまうのはあんまりだ」と、泣いて承知せられません。

「そうではありませんよ。遠方へほんとに連れて行かれたら大変だと思って入院させるのです」と、納得させるまでが長くかかりました。

 

 いつも日当りのいい処で、眼鏡をかけて裁縫をなさいますが、針箱などはありません。何か黒塗の処々剥《は》げた箱を使うのでしたが、その辺は綺麗に片附いていて、糸屑《いとくず》など散らかっておりません。解き物などをするのにも、長いのは皆揃《そろ》えてしばって、たとうへ入れてあります。それらは袖廻りとか、絎物《くけもの》とか、当りの強くない処にだけ使うのでした。新しい糸は背筋、脇縫《わきぬい》などに使います。それも大抵寸法を取って切り、右手で縫い始めて、終りますとちょっと左の手で針を持ちかえて、二針三針返し縫をすると糸がなくなります。「両刀使いですね」といいました。短い糸はつなぎ合せて玉にしてあり、それも木綿と絹とが別にしてあって、幾つか溜《たま》ると蒲団《ふとん》の被《おおい》などに織ってもらいます。
 老眼の度が進んだばかりでなく、白内障になって、片方は全く見えず、片方も視力が大分弱ってからは、絵のある本を二、三冊傍に置いて見ていられました。煙草《タバコ》は吸わないのですから、退屈そうでした。たまに私が子供を連れて行きますと、ひどく喜んで、「御馳走《ごちそう》しましょう、栗を持ってお出《いで》」といって、栗の堅い皮を小刀でお剥《む》きになります。「危いではありませんか」といいますと、「私は目で見ないで、勘でするのだから」と、なるほど上手になさいます。「渋皮はそっちで剥いて、御飯に焚《たい》ておくれ」と御機嫌です。
 その間にも、よく鼻をおかみで、紙屑籠《かみくずかご》はじきに一杯です。「年寄は皆鼻をかむものだが、私の洟《はな》のひどく濃いのは、脳味噌がだんだん溶けて出るのらしいよ」といわれるので、「まさか」といって笑います。


 女中たちが早く用事の片附いた夜などに、「御隠居様、お相手をいたしましょう」と、花がるたなどをしますと、始めは喜んでいられますが、あまり負かしては気の毒だと思って斟酌《しんしゃく》しますと、勘がよいのですからすぐ悟って、「もうおやめにしましょう」といわれるのでした。


 追々に残った方の目も見えなくなり、火鉢の傍で泣いていられるのがお気の毒でした。母が心配して私の宅へ来られて、「あんな年寄でも手術が出来るものかしら」と相談されました。主人が早速大学の眼科へ行って、河本氏に尋ねましたら、「健康なら手術は簡単だから」とのお話でしたので、それではと入院となったのです。


 手術の済んだ午後に主人が尋ねましたら、何の故障もなかったそうで、安静第一とのことです。それで二、三日過してから私は見舞いました。
「喜んでおくれ。また見えるようになるそうだよ」といわれます。
 附添《つきそい》の看護婦は元気のよい人で、「御隠居様は大層経過がおよろしそうですが、どうも繃帯《ほうたい》をおいじりになっていけません」といいます。それを聞いて、「うるさくて困るものだから」とおこぼしです。
「それはおうるさいでしょうが、そっとしてお置きの方が早くお癒りになりますよ」となだめますと、看護婦がまた口を挟んで、「召上り物はよく上りますけれど、昨晩あまり甘いお菜だから、さっぱりした大根卸《おろし》が食べたいとおっしゃいます。けれどもそんな物はございませんといっても、これだけ大勢の食事を拵《こしら》えるのに、大根の切れ端くらいないはずはないとおっしゃるので困りました」というのです。
「おばあ様、ここではね、何でもすっかり出来上った品を運んで来て、附けわけるのですから、大根の切れ端はありますまい。あした大根と卸金《おろしがね》とを持って来ましょう。きょうのお見舞はきんとんです」といいますと、「甘くてもきんとんならば」とお喜びでした。


 帰りに賄室《まかないべや》の前を通る時に見ましたら、間の時間なので、がらんとしていて人気もなく、小鼠《こねずみ》がちょろちょろ走っていました。廊下では繃帯をかけたり、黒い眼鏡をかけた人に多く出逢います。目の悪い人も多いものだと思いました。
 退院後は大分元気を取戻されて、また元のような静かな日が続きました。


 或日森の母が見えて、「お前の家の紋本があるなら見せてほしい」といわれます。宅では男紋と女紋とが木版で出来ていますので、男のは※[#「縢」の「糸」に代えて「木」、第4水準2-15-26]《ちきり》違い、女のは粟穂《あわぼ》違いです。
「女紋の方を捺《お》しておくれ」とおっしゃるので、「何になさるの」と聞きますと、「まあ、待ってお出《いで》なさい。」
 程もなく三越《みつこし》から大きな箱が届きました。「何だろう」と思って開けましたら、燃立つような緋縮緬《ひぢりめん》に白羽二重《しろはぶたえ》の裏、綿《わた》をふくらかに入れた袖無しです。背には粟穂違いの紋が、金糸に色糸を混ぜ合せて、鮮かに縫ってあります。
「まあ、見事ですこと」と、家中寄って眺めていますと、そこへまた森の母が来られていわれました。
「ちょうど宮内省からいただいた白生地があるので、お祖母様の退院の心祝いを兼ねて緋に染めさせて、家ばかりでなく親類の女の年寄の方たちにも贈物にしようとお兄さんがいわれたので、それぞれの定紋《じょうもん》を縫わせて、五つほど造らせたから、お前の処のお祖母様にもと届けさせたのだが、綺麗でしょう。」
 宅の母はそれを、「あまりお立派で勿体《もったい》ない。飾って置きたい」といわれました。


 その内に三十七、八年戦役になって、兄は出征されましたので、あの袖無しを著《き》てお祝の席に出ると楽しみにされたのも徒《いたずら》になって、時が過ぎました。ですから三十九年の一月に凱旋《がいせん》になった時の祖母の喜びは非常なものでした。その前日に尋ねましたら、「祖母様がちょっと」といわれます。


 何かと思ってお部屋へ行きますと、小さな火燵《こたつ》に寄りかかって、笑いながら、「こうやって林《りん》が立派にやっていられるので、私たちも仕合せなのを喜んでいますが、孫にだって御主人といってもよかろうねえ」といわれるのです。
「そうですとも。御主人に違いありませんよ」といいますと、「私が歌をよんだから聞いておくれ」といわれます。
「まあ」と、私はびっくりしました。今までついぞそんなことなどおっしゃったことはないのですから。
「笑わないでおくれ」といわれます。
「笑うものですか。ただ珍しいので驚いたのです。」
「無事に帰るのを、私も丈夫で待受けたと思った今朝、庭の蹲《つくば》いの傍に水仙が一つ咲いていたのが目に附いたので、

 


御主人のけふお帰りをよろこぶか
    ぽつかり咲いた水仙の花

 


 どうだろう、ぽっかり咲いたのがいいたかったのさ。」
 私はまた驚きました。昔から家事には精《くわ》しいのですが、そこらに本があっても見ようとはなさらず、ただ倹約ということばかりをいっていられたのですし、まして近頃は気力も衰えて、はっきりもなさらないのに、どうして歌をお思附《おもいつき》になったのだろう、よほどお嬉《うれ》しいのに違いないと思いますと、いつか目頭《めがしら》が熱くなりました。歌は百人一首だけがお馴染《なじみ》だったのです。
「お祖母様はお上手ね。結構ですからお書きになったら。」
「筆なんか持ったことはないよ。お前書いて置いて、林が帰ったら見せておくれ。誰にもいってはいやだよ。」
 恥しそうな御様子です。

 

 明くる日、帰宅せられた時はなかなかの混雑でしたが、少しの合間《あいま》に赤い袖無しを著て、ちょこちょこと座敷へ出て、「御無事でおめでとう」と、丁寧に挨拶《あいさつ》をなさいました。


 その夜、お客が遠退《とおの》いた時に、歌を書いた紙を私がそっと出しましたら、お兄さんはそれを見て、にこにこ笑っていられました。


 翌日出勤の時に、「お祖母様、歌をありがとう」と、声をお懸けになりましたら、首を縮めて、小さな体を一層小さくなすったということでした。


 それから気の張《はり》がなくなったというのか、めっきり弱くなられましたが、三、四月頃からは米寿《べいじゅ》の祝をして上げるといわれたのをひどく喜んで、いつもその気分でいられるのでした。人が見えて、そこらがごたごたしますと、「お客様は大勢かい。賑《にぎや》かだね」などといわれます。それで七月亡くなられる時は、もうお湯も召上らず、ただすやすやと息をして、一週間目に終られました。いよいよ納棺という時、お蒲団の上で足を伸したら、ちっとも小さくはありません。やはりいつもつつましやかにしていられるので、誰もが小さく思ったのでした。


 御遺言にまかせて、お骨は土山《つちやま》の常明寺の祖父のお墓の傍に納めました。年が立って兄も亡くなられ、向島の墓も都合で三鷹《みたか》へ移されました。それから幾らも立たない頃に墓参に行きましたが、まだ道順もよく分らず、吉祥寺《きちじょうじ》で省線を降りてから、禅林寺まで行く道の細い流の中で障子をせっせと洗っているのを、秋も深くなったと思いながら、佇《たたず》んで見ていましたが、傍に小綺麗な百姓家があって、荒い生垣《いけがき》から中がよく見えます。ふと赤いものを見かけて覗《のぞ》きましたら、日当りのよい縁側に、よほどの年でしょうが、髪の真白な、顔の柔和なお婆さんが、真赤な袖無しを著て、一心に糸車を廻しています。庭には山茶花《さざんか》が咲き、鶏が二、三羽遊んでいて、ほんとに絵を見るようでした。そのお婆さんから、暫く忘れていた袖無しのことを思出しました。宅の母は幾度も著ないで亡くなりましたが、袖無しは戦災を免れて、今も箪笥《たんす》の奥深くしまってあります。森のは焼けたように聞きました。跡のお家のはどうでしょう。


 その頃の禅林寺は、本堂の藁葺《わらぶき》は崩れかかり、鐘楼の鐘は土に置いてあり、ひどく荒れ果てた様子でした。今は住職の努力で立派に再建されています。墓地の隅には、向島に住み始めた頃に祖母が郷里から土を取寄せて、標《しるし》ばかりに建てた石がまだあって、小さい祖母の姿をさながら見るようです。
 

根附

 

 小金井はこれという道楽のない人でした。時候のよい時に静かな田舎を散歩する位なものなのです。物事は非常に丁寧でしたが、器用ではありません。同じ解剖教室に今田束《いまだつかぬ》という人がいられました。それはまた器用な人で、同じ標本を造るのにも鮮かな手際を見せられるので、ひどく感心しておりました。一緒に向島のボートに行ったり、その帰りに浅草辺を散歩したりするのでしたが、明治二十二年の秋でしたろう、急の病気でお気の毒にもお亡くなりになりました。お形見だといって、遺族の方から根附《ねつけ》を二つ下さいました。木彫の馬と牛とでしたろう。それがひどく気に入って、つくづく眺めておりましたが、いつまでも飽きないと見えて、後には机の上に置いてありました。


 或時何かの会があって夜帰った時、すぐに服を脱がず、かくしに手を入れて、何か握って笑っています。著替《きがえ》を持って傍にいた私は、何となく片手を出しましたら、その上に置かれたのは小さな一つの根附でした。私の不審そうな顔を見て、「あまりいい夜だからぶらぶら歩いていたら露店にこんなものがあったから」といいました。「こんなことをするのではあるまいか」といいながら、ざっと水をかけで拭《ふ》き取ってから、柔かな裂《きれ》を出させて、頻《しき》りにこすっていました。それは鳩らしいと思いました。鳩というものは可愛らしいはずなのに、目付《めつき》がどうも強いのです。簡単な彫りですから、他の鳥なのかもしれません。これが根附を集める始めでした。


 私が小さくて向島に住んでいた頃、父が医者だというので、或人が、真白で親指の頭位ある小さな髑髏《どくろ》を持って来て見せました。あまり見事なのでよく見ましたら象牙彫《ぞうげぼり》の根附でした。その人のいいますのに、これは旭玉山《あさひぎょくざん》という彫刻師の作で、この人は天保の頃浅草で生れ、初めは僧侶《そうりょ》でしたが、象牙の彫刻を好んで種々の動物を造ったので、髑髏は最も得意なのだそうです。その技術の精巧なのに内外人を驚かし、明治になって美術学校教授となり、明治十四年の第二回博覧会へ出品した髑髏の彫刻には、明治大帝の御前で、総裁能久親王《よしひさしんのう》から名誉賞を授与せられたのです。そうした人が造ったので、よく見たら玉山の銘がありました。その話をしましたらよく知っていまして、自分の専門に縁のある髑髏なのですから、今まで展覧会などでも、注意して見ていたといいました。


 根附は手先の技巧の勝《すぐ》れた日本人の得意とする小芸術品で、外国人には真似《まね》の出来ない緻密《ちみつ》なものを作るのでしたから、外人にも珍重せられるのだと思います。洋行しました時にも、外国の博覧会などに多く陳列されていて、それについての著書が独逸《ドイツ》にも英国にもあるのに、その本国の日本ではかえって等閑に附せられていると、外国の学者たちにいわれていたのだそうです。

 私どもが蓬莱町《ほうらいちょう》に住んでいた頃です。団子坂から父が来た時に、その根附を見せましたら、「小金井さんもそんな物がお好《すき》かい。家にもあったようだよ、持って来て上げよう」といわれましたが、次に来た時下すったのは鹿の角で彫った小指位の根附でした。蝦蟇《がま》仙人の立姿で蝦蟇を肩に載せています。
「これは古い机の引出しにあったので、お祖父様《じいさま》のものらしいよ。」
「それではお大事なのでしょう、戴《いただ》いていいかしら。」
「いいとも。今家にはそんな趣味の人はないから。」
 帰って来たので見せましたら、「これは面白い」とその簡素な彫を喜びましたが、そのはずです。その後何年も集めましたが、鹿の角のはそれだけでした。


 追々《おいおい》心がけては集めるのでしたが、形も小さく価格もそれほどでないので、入手しやすいのです。折々『装剣奇賞』などを見ていました。その本は初め鍔《つば》を少し集めた時に求めたので、「鉄色にっとり」などという言葉を、私なども覚えました。象眼《ぞうがん》のある品などは一々袋に入れるので、いくつも縫わせられました。古いよい裂地《きれじ》でなければといわれて、そんな品は持ち合さないので困りました。それが今度は根附になったので、その本の根附の処を頻《しきり》に見るのでした。


 日本に仏教が盛《さかん》になってから、仏像の彫刻をするために、優秀な技術の仏師が渡来して、その発達も目ざましく、相好《そうごう》の荒々しいのも柔和なのも、種々な傑作が今の世までも残されているのですが、それに由来して日本人独得な緻密の性能から、根附のような彫刻も始まり、江戸時代には隆盛を極めたようです。あたかも鎖国時代の事で、外国の影響は少しも蒙《こうむ》らないで発達しましたから、西欧人が珍重して研究するはずだと思います。


 根附は提物《さげもの》の根元に附けるために用いるので、昔の燧袋《ひうちぶくろ》から巾著《きんちゃく》、印籠《いんろう》、煙草入の類を帯と腰との間を、吊《つる》す紐《ひも》の端に取りつけたものです。『装剣奇賞』に、「佩垂《はいすい》の墜《つい》に用ゆ」とあります。


 形彫《かたぼり》根附といわれるのは、人物動物などを形のままに彫刻したもので、一番数が多いようです。饅頭《まんじゅう》根附といって、円形の扁平《へんぺい》なものもあり、また吸殻《すいがら》あけといって、字のように煙草の吸殻をあけるために作られたものもあります。黒塗の印籠、または金蒔絵《きんまきえ》をしたり種々手の込んだ優美な品につける根附は、高尚な趣味のものでなければならず、吸殻あけなどは簡単な人が持つのでしょう。紙巻煙草が盛んになるまでは、職人、農人などは掌《てのひら》にあけて上手にころがして吸付けたものでした。

 根附の材料は種々あるので、日本は良材が多いのですから、檜《ひのき》などよく使われましたが、その質が余り硬くないので、磨滅する虞《おそ》れがあります。宅にある根附の中に、笠《かさ》の上に何か動物のいるのがありましたが、すっかり減って形が分らぬ位になっていました。「これは珍しいから」と、大事にしていました。その道の人は減るのを慣れというそうで、これなどは慣れの甚しいのでしょう。


 そのために硬く粘り気のある黄楊《つげ》を用いるようになりましたが、産地によって硬軟の差があるようにも聞きました。また桜、黒檀《こくたん》、黒柿《くろがき》なども用いられ、胡桃《くるみ》なども多く使われます。これは種彫《たねぼり》といわれます。


 象牙は黄楊と共に、根附にはよく使われるので、支那、朝鮮からの輸入でしょう。琴柱《ことじ》にも使われましたが、三絃《さんげん》の盛んな頃はそれに使う撥《ばち》の需要が夥《おびただ》しいのでしたから、撥落《おとし》が根附の材料に多く使われたのですが、低級の人が用いるので、名のある人たちが、皆良質の品を厳選したのは無論のことでしょう。いつどこで求めたのか、その三角落しの根附が一つありました。大分古びています。ならず者ででもありましょうか、裾《すそ》を帯に高々と挟んで、足を二本ずっと出しています。頭は月代《さかやき》が広く、あお向いた頸元《くびもと》に小さな髷《まげ》が捩《ねじ》れて附いていて、顔は口を開いてにこやかなのは、微酔《ほろよい》加減で小唄《こうた》でもうたっているのかと思われました。身を斜に片方の肩を少しあげているのが、三角をよく利用したものと思います。これも面白いと申しました。その象牙は大分黄ばんでいましたが、産地によるのか、採集時によるのでしょう。


 同じ象牙彫でも、山水の形を細かに彫って、立木があり家があり、よくもこんなにと思うようなのもあります。まさか天使でもないでしょうが、可愛らしい子供が、太った手足を出してしゃがみ、薄衣《うすぎぬ》らしいものを頭から被って、その襞《ひだ》が形よく柔かに垂れている純白の美しいのもありました。これなどは外人向きと見えますから、かなり新しいものでしょう。始めはこんな風のものも求めましたが、だんだん目が肥えて来て、古い木彫でなければというようになりました。

 根附は帯へ挟むためですから、滑りのよい形を選ぶので、昔は小さい瓢箪《ひょうたん》を使ったといわれます。ひどくひっかかりそうなのは好まないので、木魚《もくぎょ》などは多くもない採集の中にも三つ四つあったでしょう。その他達磨《だるま》は、堆朱《ついしゅ》のも根来塗《ねごろぬり》のもありました。亀も形がよいと見えて、一つのも重ったのもあったようです。


 秘蔵したのは釣瓶《つるべ》の上に蛙《かえる》がいるのでした。正直《まさなお》という銘がありました、正直は何代かあったのですから、どれだか分りません。小金井は名のためではなくて、ただ気に入ったのを喜ぶのでした。また木彫のお福の面がありました。それには出目右満《でめうまん》とありました。右満は天下一ともいわれたのですから、真物などやたらに手には入らないでしょうが、その面のにこやかな面《おも》ざしは、見ていてほほえまれます。それから無銘ですが、鬼の面がありました。目に金が入れてあり、上手な作と見えて、物凄《ものすご》い様でした。どちらも黄楊らしく、よい艶《つや》に光っていました。


 珍しがっていたのは、三番叟《さんばそう》が烏帽子《えぼし》を被り鈴を持っているので、持って振りますと、象牙を入れた面から舌がちょいちょい出るのです。彩色した茶摘女《ちゃつみおんな》や、能人形も少しあり、金属や陶磁器のも一つ二つありました。

 しめやかな雨の降る日、朝書斎に這入《はい》ったままあまり静かなので、そっと二階へ上って覗《のぞ》きましたら、机の上へ薄羅紗《うすラシャ》の裂《きれ》を敷き、根附を全部出して順よく並べ、葉巻をくわえて楽しそうに見ています。「おや陳列会ですか」といいながらはいりますと、それを買った時、貰《もら》った時のことなどをぽつぽつ話します。それぞれに思い出があるのです。何か一品手に入りますと、また机の上の陳列会があるのでした。


 晩年あまり外出せぬようになってからは、楽しげに愛玩《あいがん》すると聞いて、知人が一つ二つ持って来て下さる事もありました。下さる人はそれほど目利《めきき》という訳でもありませんから、古くない慣れの少いのもあるので、絹の打紐《うちひも》を通して、中指にかけて握っているのを皆が笑いますと、自分も笑いながら、「名のある彫刻師で、いつも自作を一つ袂《たもと》に入れて、磨《みが》いていたのがあるというよ」といいます。


 いつか全部に紐をつける事にしました。それからは本や新聞を見る時も、紐を指にかけて握っているのでした。睡《ねむ》っている時も手から離しません。朝目が覚めて、「どこかへ行った」といいます。顔を洗いに立つと、蒲団《ふとん》の上に転がっていました。


 段々終りに近くなっては、一々品をいいますから、取りかえてあげます。見ないでも握り加減で分るのでした。やはり木魚とか種彫とか、握り工合のよいのを喜びました。「子犬」といわれて取ってあげるのは、草鞋《わらじ》に子犬が二つむつれている形でした。大きさも程《ほど》よく、ほんとに可愛らしいのでした。


 終ってからそれらの品々を皆集めて、柔い裂に包んで箱に入れ、仏の前に供えて置きました。納棺の時にと思いましたが、病理解剖にするのでしたから、いよいよ埋葬の時、一つ二つ手馴れたのを入れました。地下でも相変らず楽しんでいるかと思いまして。


 跡は親しい近親の人に形見として分けました。小さい男の孫は、「おじい様のようでしょう」と、赤い紐を指にかけて握って見るのでした。残して置いた幾つかは、小さい箱に入れたまま、惜しいことに戦災で失いました。
 

忠婢

 はつが始めて家へ来たのは、明治三十年頃でしたろうか。私の子供も長男に妹が二人で、皆まだ小さくて、手のかかる盛《さかり》でした。


 その頃のことですから雇人に不足はなくて、請宿《うけやど》へいって遣《や》りますと、すぐに人をよこしてくれます。或時頼んで遣ったら、そこの引手《ひきて》が三人の女を連れて来て、「どれでもお好きなのをお使い下さい」といったのには呆《あき》れました。まだ若かった私は、一目見たばかりの女たちを何ともいいようがなくて、「どうしましょう」と母に相談しましたら、「お前が若いのだから一番若いのにしたらよかろう」といわれたので、それに極《き》めました。そんなに手軽に雇っても、調べが行届いていて、割合に間違などはないのでした。その頃は曙町に住んでいましたので、請宿は白山《はくさん》坂の中途にありました。雇人口入《くちいれ》業という札が出ていて、いつも人が集っているのでした。引手をする女は五十くらいだったでしょうか。額の抜け上った、小形の痩《や》せた女でした。ちょっと往来に出ても、その女が若い女を連れて歩いているのに出逢います。長くやっていて信用もありますし、この辺は邸《やしき》が多くて、どこでも人を置きますので、それで忙しいのでしょう。


 そんなに手軽には雇われますが、とかく出這入《ではい》りの多いのには困りました。少し落附いて子供を見てくれるような人があったらと心懸けていますと、森の於菟《おと》さんが里子に行っていた平野という家の老婆が世話好きで、田舎の方に心当りがあるというので頼んで置きましたら、或日のこと、三十近い女が大きな荷物を男に背負わせて来ました。背が高くて、丈夫そうで、丸髷《まるまげ》を綺麗《きれい》に結っていました。それがはつでした。顔の道具も大きく、がっしりしていて、頼もし気に見えます。夜具蒲団に大きな行李《こうり》、それに風呂敷包《ふろしきづつみ》も二つ三つという荷で、それを下した時は、「お嫁入のようだね」といったことでした。


 はつは早速そこらを片附け始めて、自分の家へでも帰ったかのように働きます。小さな女の子をかわいがるものですから、すっかりなついて負われます。
「まあ、負んぶなどして」といいますと、「大木へ蝉《せみ》が止ったようでしょう」といって揺すぶるので、「大木へ蝉、大木へ蝉」といっては取りつきます。


 このはつは大宮《おおみや》在の土地でも相当な農家の娘で、町の大きな染物屋に嫁《とつ》いで、女の子二人の母親となって、もともと気性の勝った女だったものですから、一人で切廻していました。けれども亭主は善良というだけの人で、継母が一人あり、手不足だというので、継母の縁続きの少女を雇ってから、家の中にいろいろ面白くないことが起り、はつも家出をしようと思立ちました。けれども心を惹《ひ》かれるのは子供です。それも遅生れの末の子が心配になるのでした。それに引かれて一日延ばしに日を送っていましたところ、或日の夕暮に食事の支度も出来て、糠漬《ぬかづけ》を出そうと手を入れた時に、亭主は新漬がいいといい、継母は古漬がいいといういさかいが始まりました。


 ああいやだ、いやだ。こんな処にいつまでもいられるものかと思ったはつは、柄杓《ひしゃく》の水を手にかけて、腰の手拭《てぬぐい》でよくも拭《ふ》かずに、もう前から小風呂敷に手廻りの物を包んで置いたのを取るなり、薄暗い勝手口から出ようとしました。
「暗くなるのに、まだランプを附けないのか」という亭主の声がします。
「お母さん、お母さん」と、妹の方の子の呼ぶ声もするのを後に、はつは駈け出してしまいました。それで今でも糠漬の匂《におい》を嗅《か》ぐと、子供の顔を思出すといいます。


 小学校しか出ないでしょうに、利口な女で、裁縫もしますし、洗濯洗張物《せんたくあらいはりもの》などについては、商売がら私の方で教えられることが多いのです。勝手の仕事の暇々には、庭の草取などもしてくれるので、主人も喜びますし、母はまた自分が昔畑仕事をした時のことなどを口にして、話相手にするのでした。


 置いて来た子の年頃だといって、妹の方の子をかわいがってくれましたが、その子は髪が濃くて、夏向は頭の地まで汗に濡《ぬ》れるのです。その子が或時女中部屋で長く遊んでいると思ったら、「奥様御覧下さい。これで汗もも出来ますまい」といいます。見ると頭をすっかり剃上《そりあ》げて、上はお河童《かっぱ》にしてあります。「私の子をいつもこうしましたから」というのでした。青々とした剃り跡には天瓜粉《てんかふん》が一杯附けてあるので、子供は珍しそうに頭を撫《な》でていました。


 夜ほの暗いランプの光に、小さな鏡を立てて髪を結います。「暗いでしょう、昼結ったら」といいますと、「昼は昼の御用がございますから」というのでした。「そんな小さな鏡で」といいますと、「何、鼻の頭だけ映ればいいのです。あとは勘ですから。」そういって、いつもさっぱりと取上げていました。


「奥様のように、髪に手入れをなさらないではいけません」と、私の頭の雲脂《ふけ》を落したり、梳《す》いたりしてくれた上に、「少しお頭を拝借させて下さい」と、水油を少し附けて、丸髷《まるまげ》に結ってくれました。今まで私は島田《しまだ》にも丸髷にも結ったことがなかったのです。入用の品も、いつの間にか買揃《かいそろ》えて置いたと見えます。自信があるのでしょう、「御隠居様、御覧下さいまし」といいます。母も、「まあ、見違えたよ。日本人はこの方がいいねえ」といわれます。子供たちが珍しがって騒ぎます。私もまだ若かったものですから、気紛《きまぐ》れに近くの写真屋へ行って、子供と一緒に写真を撮りましたが、その写真はいつの間にかなくなりました。
 はつはこんなに行届いていて、誰にでも好かれるのでしたが、二年ほどで暇を取りたいといい出しました。といいますのは、もともとどうかして自立したいと思っていましたところへ、目の前によいお手本が現れたからでした。

 話が別のことに移りますが、はつより先に、主人の郷里長岡の旧藩士で小林という家のちか子という十五になる子が、子守《こもり》にどうかとのことで来ていたのでした。不仕合《ふしあわせ》な境涯の子でしたが、無邪気な、素朴な様子をしていて、少し馴れましたら、小さな女の子を背負い、男の子の手を引いて、その頃流行していた「壮士の歌」というのを歌いながら、広い庭をあちこち歩きます。その歌というのが、「東洋に、屹然《きつぜん》立ったる日本の国に、昔嘉永の頃と聞く、相州浦賀《そうしゅううらが》にアメリカの、軍艦数隻寄せ来り、勝手気ままの条約を、取結んだるその時に」云々というのです。子供は物覚《ものおぼえ》が早いものですから、上手にそれを真似《まね》します。


 昼間はそうして子供をよく遊ばせますが、夜になると、「私に読める本があったら見せて下さいまし」といって、手紙の本などを見ては写しています。もともと学校の出来もよくて、知識慾が盛んで、もっと勉強したがっているのでした。


 それで二年ばかりして、大学で看護婦の募集をすることがありました時に、主人が試験を受けさせましたら合格しましたので、本人も喜んでそちらに勤め、暇があれば何かと勉強しています。休日には尋ねて来て、先生方の講義の様子とか、身分のある人が入院した時に附添った時のこととか、そんな話をします。だんだんに世馴れて、怜悧《れいり》になるようです。

 その様子を見聞きして、はつは羨《うらやま》しくなったのです。それで暇を取りましたが、看護婦にはなれないものですから、雑仕婦《ぞうしふ》になって、あちこち転々している由を人伝《ひとづ》てに聞いているだけで何年か立ちました。そうしたら或夏の夜に、葡萄《ぶどう》を沢山持って、尋ねて来てくれました。
「家でなったのですが、割合においしいので」といいます。
「では今田舎にいるの」と聞きますと、「いいえ、本郷《ほんごう》です」というのです。


 はつが落附いて話すのを聴《き》きましたら、雑仕婦をしてあちこちへ出掛ける内に、看護婦まがいのことをするようになり、人に重宝がられて、忙《せわ》しく暮している内に貯金も出来ました。ところが今少しというところで、附添った患者の病気が感染して、一時は重症にも陥りました。ようやく快方に向いましたものの衰弱が甚しく、貯金も尽きはててしまい、どうにも困り切った時に、或親切な人が金を出して下すったので、それから百日ほど静養して、健康に復しました。


 その親切な人というのは九州の生れで、相当の暮しをしていたのですが、あまりに正直過ぎて事業にも失敗し、その上に目を患って、端《はた》から見ては分らないのに、はっきり物が見えないのです。そんなですから人の不幸にも同情する気持が強くて、惜し気もなく金を出して下すったのでした。その人は本郷の済生学舎の近くに的場《まとば》を遣っていられました。


 全くの命拾いをしたはつが、どうお礼をしたものかと、人に相談しましたら、「あの人は身寄《みより》もなくて寂しく暮していられるのだから、あなたが一緒になって、世話をして上げたらどうか」とのことでした。それで勧められるままに、はつは結婚したのでした。
 その主人と一緒に的場をやっているのですが、的場には天井がないので、空地《あきち》に葡萄が這《は》わせてあります。持って来てくれたのはその葡萄なのでした。


「的場へは済生学舎の書生さんたちが来ます。私がこんな恰幅《かっぷく》をしているものですから、雲岳女史などいって親《したし》んでくれます」などといって、はつは嬉《うれ》しそうにしていました。雲岳女史は村井弦斎《むらいげんさい》が書いた新聞小説の中に出て来る大兵《だいひょう》な女傑です。


 客のいない日に、主人が慰みに大弓を引きますと、面白いように当ります。目は見えなくても長年の勘で当るのです。不断は前屈《まえかが》みになっていますのに、弓を取って肘《ひじ》を張った姿はしゃんとして、全く見違えるようです。


 はつはそんな話をして、「長々お邪魔をしました」といって帰りかけます。「田舎では」と私が聞きましたら、「それをお話するのでした」と、また腰を据えて、実家の父の病気見舞に行った話をしました。看護婦の姿で、駅から車に乗って、遠廻りでも町を通って、染物屋の前を過ぎましたら、隣の家で驚いていたそうで、父も大変喜んでくれたというのです。
「また伺います。」そういって立上って、また思出したように、「ちか子さんはお元気でしょうか」と聞きます。


 ちか子は産婆の方の免状も取って、アメリカへ渡って都合よくしているのでした。その話をしますと、「結構ですね。若いに似合わずしっかりした人でしたから。おついでに宜しくおっしゃって下さいまし」といって、帰って行きました。


 それからはつは度々尋ねて来るようになりました。けれども折角新しい生涯に入ったのに、運が悪いらしく、一、二度引越《ひっこし》もしましたが、その度に粗末な家になって行きます。初音町《はつねちょう》辺の裏にいた時に尋ねて行きましたら、ずいぶんひどい家にいました。それでもはつが住めば綺麗になるので、よく片附いた部屋で、茶を入れて出してくれました。


 その頃でしたか、古い袴《はかま》を持って来たことがありました。「洗張《あらいはり》でもするの」と聞きましたら、「これは主人のために探して来ました」といいます。或神社のお札配りの仕事を見附けましたが、お社《やしろ》の仕事だから袴をはくのがよかろうと思ったのです。「脚はかなり丈夫ですから」とのことでした。しかしこの仕事も続きませんかった。何しろ目が悪いのですから、標札を読むのに時間がかかるので、一月ほどで止《や》めてしまいました。


 或年の正月に、はつは年始に来ました。私は母と昼の食事をしていたところで、「私は済して来ましたから」と、離れの母の部屋で待つことにして、そちらへ行ったかと思いますと、「奥様、御隠居様」と、大声で呼立てます。


 何事かと思って、廊下を急いで行って見ましたら、母の部屋の障子の隙間《すきま》から、煙が盛《さかん》に吹出しています。
「あっ」とびっくりしましたが、はつはすぐに障子を開け拡げて、縁先にあった瀬戸の大きな手水鉢《ちょうずばち》を取るなり火燵《こたつ》へ投げつけました。その一杯の水で下火になったところへ、私たちも手に手に手桶《ておけ》を持って来て、水をかけて火を消しました。母は灰を厚くかけて食事に立ったのですが、炭火がはねて蒲団に燃えついたのです。もう少し知らずにいましたら大事になったでしょう。それでも天井は幾分か焦げました。ちょうどはつが来合せて、咄嗟《とっさ》の機転で事なく済みましたが、それから母は、飛んだ失敗を悔むにつけても、はつの行動を喜んで、その話の出る度に、「忠義のはつが」といわれます。それを子供たちが笑いました。


 その内に、父が亡くなったから暫く田舎へ行きます、という便《たより》がはつからあったので、それもよかろう、あの目の悪い人と東京で暮すのでは骨が折れようからと思いました。


 それからはつのことも、忘れるともなく忘れて時が立ちましたところ、久しぶりに尋ねて来たのを見ますと、小ざっぱりした様子はしていますが、元気がありません。
「お暇乞《いとまごい》にまいりました」といいます。
「どこへ行くの」と聞きましても、すぐには答えずに黙っています。涙ぐんでいる様子です。
「実は死ぬつもりです。」
 はつがそういったのに、私はびっくりしました。あまりに落附いて、静かな声でいうものですから、聞違えたのではないかと思って、問返しますと、はつは事情を話しました。


「田舎は田舎で暮しにくく、父も亡くなって弟の所帯となってからは、世話になるのも気の毒ですし、今後どうという見込《みこみ》も立たないのですから、人にあまり迷惑をかけない内にと思います。娘が尋ねて来てくれましたが、今の私からかえって助けてもらおうというのですから、どうにもなりません。それで決心いたしました。主人には、時々便をくれる従弟《いとこ》のところへ行くように、その旅費だけは用意してありますからといいましたが、この不自由な体で行く気はない。お前がする通りに己《おれ》もするといいます。実は私としても、跡に残して行くのは心がかりですから、それならと話し合って来ました。」
 はつはそういうのです。私はこれまでこんな話をしかけられたことはなし、重々気の毒とは思うけれども、どうしてやる力もなく、思案に暮れるばかりでした。


「まあ、そう思詰《おもいつ》めないでもよいではないか。どうかして上げたいのは山々だけれど、檀那様《だんなさま》はお前も知っている通り、お金の取れる仕事ではないので、どうにもならないが、一体どれくらいあったら凌《しの》いで行かれるの。」
 かように尋ねますと、今までは父の地面に小さな家があってそこにいたけれど、今度義理のある親戚《しんせき》をそこへ入れねばならなくなり、弟も事情があって断れないでいるとのことで、「少しずつでも遣ったら、また置いてもらわれましょうか」といいます。
「そうかい。私のことだから、大したことはして上げられない。お前を御贔屓《ごひいき》の御隠居様も亡くなって、相談する人もなし、私の心ばかりだけれど、毎月送って上げよう。」
 私はそういって、今度出て来た費用の足しにでもと、金を包んで出しましたら、何ともいわずに取りました。よほど手元が苦しいのでしょう。帰りの汽車賃もないのかも知れないと、可哀そうになりました。


 その月末に送金しましたら、先月はお世話様になりましたと、礼をいってよこしたので、無事にいたかと安心しました。それから一年ほど過ぎて、連合《つれあい》の亡くなった由を知らせて来ました。志を送りましたら、その返事に、これで私も安心して逝《ゆ》かれます、としてありました。


 その秋地方に流行性感冒の蔓延《まんえん》しました時、はつは年は取っても元気を出して、あちこちの看病に雇れていたのですが、とうとう自分も感染して、年寄の流感で、それなり逝《い》ってしまいました。好い性質の人であり、勤勉でもあったのに、不遇の一生だったのが気の毒です。


 香奠《こうでん》を送りましたら、弟からの便りに、長年世話になったことの礼を述べ、終り間際にもお宅のことばかりいっていて、あなた様方の御寿命の長久を祈りますと遺言して、安らかに息を引取った、としてありました。
 私はすぐに母の仏壇に線香を上げて、「お話相手が行ったでしょう」といいました。
 はつの祈ってくれたせいですか、私は今に丈夫で暮しています。
 

普請中

 

 戦災後十年を過ぎて、焼け失《う》せた曙町の旧宅跡に、ようよう普請をする運びになりました。何にせよ五十年間住んだ土地ですから、周囲の様子はどんなに変っても、なつかしさには変りがありません。とはいうものの、地境《じざかい》になっていた大きな杉並木もなくなったばかりか、そこらの人が根まで掘って薪《まき》にしたというのです。まして軒端《のきば》に颯々《さっさつ》の声を立てた老松を思い浮べますと涙ぐまれます。ただ一面の焼野原になったのですから、今ある五、六尺以上の木は、どれも皆近年住みついた人たちが植えたのでしょう。昔の土井の邸に名高くて、遠方からの目印になった二本杉の馬場のあたりには幼稚園が出来て、毎日子供たちが遊んでいます。ここらは以前は暗いほど樹木が茂って、夜は梟《ふくろう》の声が物凄く、草原には雉子《きじ》が羽ばたいていたところだったのです。「庭木の移植には時期がありますから」と、庭師が来て、石灯籠を崩したり、庭のそこここを掘返したりいたします。それで、「一番最初に庭木がお引越ですね」といいました。掘上げた根を縄で捲《ま》いていますところへ、それを積んでゆくトラックの音がして来ます。椿《つばき》、どうだん、躑躅《つつじ》などの丈の低い木はそれほどにも思いませんが、白梅の古木や楓《かえで》などは、根が痛まず、障《さわ》りのないようにと祈られます。楓の紅葉は庭一面を火の燃えるように照して、それを誰もが賞美したのですが、今年は普請場の傍で寂しく紅葉して、寂しく散ることでしょう。幾百年を経た松の古木があって、昔の東海道のようだと誇った土地も、哀れなことになったので、今遠方から少しずつ木を運ぶのです。


 引越といっても、私は老体で何も出来ませんから、長男や嫁がいろいろ心配して、住みよくしてくれた狭い部屋で、手廻りの箱や包をぽつぽつ整理しています。他人には何の趣もない紙屑《かみくず》や小切れでも、皆それぞれに思い出があるものですから、それらを手に取上げて見詰めたりします。小切れのたとうの中に、黒地に一面に大小の紅葉を染めたのがありますのは、長女の五つの時に初めて袖の長い衣類を作ってやった、その時のです。小金井の家は戊辰《ぼしん》の際に朝敵となった長岡藩の士族で、主人は貧しい家に兄弟が多く、貸費生《たいひせい》で仕上げたのです。それに父は病身で早く亡くなったので、留学中の家族の生活費は郷里の商人から借り、帰朝後僅《わず》かな月給の中から、それをだんだんに償還したのでした。やっと大学教授の職に就いた時、寄って来るのは補助を頼む人ばかり、母を養い、弟妹の学資を出した跡は、質素な生活をするだけがやっとのことでした。ですから七五三のお祝など、思いも寄りませんかった。森の母が、「でも女の子だから」と、いろいろ手伝ってくれたのですが、著物《きもの》は出来ても、帯がなかなかです。母は出入の呉服屋を団子坂へ呼んで、私に見せて下さいましたが、私はただその値段に驚くばかりでした。その日はきっと日曜日だったでしょう。兄が出て来られて、「作った人の骨折《ほねおり》を思えば安いものだ。綺麗だねえ」といわれました。けれども私は、そんなのは勿体《もったい》ないと、型ばかりのにしたのでした。その娘がもはや還暦なのです。とんだ昔話になりました。


 今一つの友禅の切れは、森の母が久しぶりに迎える嫁の料にと、心の中でその面影を忍びながら求めた切れの見本です。家内を迎えるために休暇を取って帰る兄に見せようとせられたのでしょう。その時私がたずねましたら、「お前はまだ見たことがないが、それは美しい人だよ。あの人が来てくれたのに、こんな著物を著せて、そこらに坐らせて置いたら、兄さんはもとより、私がどんなに楽しみだろうと思ってね」と、夢見るような目附《めつき》をなさったのを、いまでも忘れずにいます。夢想と現実との違うのが世の習いですが、希望の大きかっただけに、母のその後の落胆の度も強かったのでしょう。


 観潮楼の二階で、親戚だけの型ばかりの式を挙げて、翌日夫妻は連れ立って任地の小倉《こくら》へ立たれました。母はその前後をただ多忙に過されましたが、噂《うわさ》を聞いて待っていた祖母は、恐らくその美しい孫嫁の一声をも聞かれなかったでしょう。残念がっていられました。


 私が小倉へ向けて手紙を出しましたら、その返事をお嫂様《ねえさま》は下さいましたが、文面には兄の息の通っているような気がしました。私は日常に追われて、手紙も度々は出しませんかった。あちらから戴いたのは、ただ一度だけでした。


 美しい方《かた》でしたから、まだお若い時に或富豪に望まれて、お片附《かたづき》になったのです。そのお支度をするとて京都に滞在していられたように聞きました。そこはすぐに不縁になって、里に帰っていられる内に、縁があって森の家へ来られることになったので、その時のお支度をそっくり持って来られたのです。兄が東京勤めになって、家族が一緒に住み始めた頃、母は、「いろいろ見せて戴いたよ」といわれました。床の間には定紋の縫《ぬい》のある袋に入れた琴や、金砂子《きんすなご》の蒔絵《まきえ》の厨子《ずし》なども置いてありました。何しろいろいろの衣類を持っていられるのですから、私の娘も一度拝借したことがありました。富豪へお嫁入なすった時に、先方の母親が「お著物を拝見しましょう」といわれ、見終ってから、「官員様のお父様としては、よくお揃《そろ》えになりましたね」といわれたので恥しい思《おもい》をした、と話されたそうです。物には段階があるもので、われわれなどの夢にも知らぬあたりのことです。
 その頃は誰も遠慮がちなので、静かな家庭のようでした。それがいつまでも続けばよかったのですけれども、そうは行かなかったのです。或時紺飛白《こんがすり》の筒袖《つつそで》の著物の縫いかけが、お嫂様のお部屋にあったのを見かけました。於菟《おと》さんの不断著《ふだんぎ》を縫って見ようとなすったのです。媒妁《ばいしゃく》をして下すった夫人は社交家で、「森さんは奥さんのお扱いが下手《へた》だ」といわれましたが、世馴れた人の目からは、そう見えたのかも知れません。


「森さんはお母さんばかりか、お祖母《ばあ》さんもおありだから、お嫁さんはお骨が折れましょう」という噂を聞いて、いっこくな祖母は腹を立てて、「何も私は急に出て来たのではない。誰も始めから知っているはずだ。長命なので、人様のお邪魔になってはならぬと、小さい体をなお小さくしているのに」と泣かれます。行合せた私が慰めて、「まあまあ誰がそんなことをいったのか知りませんが、気にお懸けなさいますな。あなたは森の大事なお祖母様ですものを。それはお兄様が一番よく知っていらっしゃるから御心配ありませんよ。それよりお祖母様、今日は手製ですけれど、お好きな栗のきんとんのおみやげです。召上って下さい」といいますと、「それではお昼に戴きましょう」と御機嫌をお直しでした。家族が多ければ、それだけ事の多いのも仕方がないのでしょう。


 どこの家庭でも、泣いたり笑ったりする内に、知らず知らず年月を過します。もともと変った家庭に育った人同士が集って暮すのですから、お互に控目《ひかえめ》にするより外には仕方がないのでしょうが、思うままに振舞おうとする人が一人でもある時は、誰も彼も不平を起して、治まるはずがなくなります。


 思えば私ももう八十を過ぎて、いろいろな家庭をも見、いろいろの人にも附合って来ました。普請が出来て引越しましたら、また昔のように森家の旧宅の跡もたずねましょう。そうしたらまたいろいろと思出すことがありましょう。

(昭和三十年十月)

底本:「鴎外の思い出」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「鴎外の思ひ出」八木書店
   1956(昭和31)年発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「舎」と「舍」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2007年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
 

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