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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

 これから火事の話をします。
 前に幾度かいった通り、慶応元年丑年十二月十四日の夜の四ツ時(私の十四の時)火事は浅草三軒町から出ました。


 前述詳しく雷門を中心とした浅草一円の地理を話して置いたから大体見当は着くことではあるがこの三軒町は東本願寺寄りで、浅草の大通りからいえば、裏通りになっており、町並みは田原町、仲町、それから三軒町、……堀田原《ほったわら》、森下となる。見当からいうと、百助の横丁を西に突き当った所が三軒町で、其所《そこ》に三島神社があるが、その近所に襤褸屋《ぼろや》があって、火はこれから揚がったのだ。

 その夜は北風の恐ろしく甚《ひど》い晩であった。歳の暮に差し掛かっているので、町内々々でも火の用心をしていたことであろうが、四ツ時という頃おい、ジャン/\/\/\という消魂《けたたま》しい※[#「てへん+麾」の「毛」に代えて「手」、U+64F5、58-5]《こす》り半鐘の音が起った。「そりゃ、火事だ、火事だ」というので、出て見ますと、火光は三軒町に当っている。通りからいえば広小路《ひろこうじ》の区域が門跡寄りに移る際《きわ》の目貫《めぬき》な点から西に当る。乾《かわ》き切った天気へこの北風、大事にならねば好いがと、人々は心配をしている間もあらばこそ、火は真直に堀田原、森下の方向へ延びて焼き払って行く。ちょうど大通りの並木に平行して全速力で南進して行くのであった。

 この時、私の師匠東雲師の家は諏訪町にあることとて、火事は裏通り、大分|遥《はる》かに右手に当って焼け延びているのであるから、さして気にも留めずにいた。
「まず大きくなった所で、この風向きでは黒船町へ抜けるであろう。蔵前の八幡の方へ……小揚《こあげ》の方へ抜けて行くだろう。こっちの方は大したことはあるまい」と安心している中《うち》に、焼け延びるだけ延びた火の手は俄然《がぜん》として真西に変って来た。
「おやおや風向《かざむ》きが変った。西になった」
と、いってる声の下から、たちまち紅勘横丁へ火先《ひさき》が吹き出して来た。これは浅草の大通りだ。師匠の宅から正に半町ほど先である。と、見ると、火の手は、南進していたものが一転して東方に向って平押しに押し込んで、大通りに向う横町という横町へ、長蛇の走るよりも迅《はや》い勢いで吹き出して来た。今の今まで安心していた主人を初め、弟子、下職《したじょく》、手伝いに駆けつけた人々が、「もう、いけない。出せるものだけ出せ」というので、荷物を運び出しました。

 荷物を運ぶといっても、人家|稠密《ちゅうみつ》の場所とて、まず駒形堂|辺《あたり》へ持って行くほかに道はない。手当り次第に物を持って、堂の後ろの河岸の空地《くうち》へと目差して行く。
 荷物を運ぶのは何処《どこ》も同じことですから、見る見る中《うち》に、この辺は荷物の山を為《な》す。ところが、横丁々々から一斉に吹き出した火は長いなりに大巾《おおはば》になって一面火の海となり、諏訪町、駒形一円を黒烟に包んで暴《あば》れ狂って来た。
 で、今度は広小路の方へ追われて出て、私たちは広小路の万年屋(菜飯屋)の前へ荷物を運び出しました(万年屋は師匠の家のしるべ[#「しるべ」に傍点]でした)。

 

 すると、風が西に変って強くなったものだから、一度南進した火先は、先方へ延びずに後《あと》へ退《さが》り、西飛の癖として、火先へ延びず、逆に尻火に延び、反対に退却した形になって仲町から田原町へと焼けて来た。それのみならず、今度は、その後退した火先は、西風に煽《あお》られて物凄《ものすご》い勢いをもって広小路へ押し出して来たのです。

 

 一体、浅草は余り火事|沙汰《ざた》のない所|故《ゆえ》、土蔵など数えるほどしかなかった。それに安政の大地震《おおじしん》の際、土蔵というものが余り役に立たなかったことを経験しているので、一層数が少なかった。ただ、酒屋の内田に五ツ戸前ばかり、他に少々あったほどだから、枯れ草でも舐《な》めるようにめらめら[#「めらめら」に傍点]と恐ろしい勢いで焼いて行く。一方は諏訪町、駒形方面から、一方は門跡から犇々《ひしひし》と火の手が攻めかけて来るのだが、その間は横丁の角々《かどかど》は元より到《いた》る処荷物の山で、我も我もと持ち運んだ物が堆高《うずたか》くなっている。それを火勢に追われて逃げて来る人々は、ただ、一方の逃げ口の吾妻橋方面へと逃げ出そうと急《あせ》っている。片方は大河《おおかわ》で遮《さえぎ》られているから、この一方口《いっぽうぐち》へ逃《のが》れるほかには逃げ道はなく、まるで袋の鼠といった形……振り返れば、諏訪町、黒船町は火の海となっており、並木の通りを荷物の山を越えて逃げ雷門へ来て見れば、広小路も早《はや》真赤《まっか》になって火焔《かえん》が渦《うず》を巻いている。雷門から観音堂の方へ逃げようとしても、危険が切迫したので雷門も戸を閉《し》めてしまったから、いよいよ一方口になって、吾妻橋の方へ人は波を打って逃げ出し、一方は花川戸、馬道方面、一方は橋を渡って本所へと遁《に》げて行く。その遁げる人たちは荷物の山に遮られ、右往左往している中に、片ッ端から荷の山も焼け亡《う》せて跡は一面に火の海となるという有様……ただ、もう物凄い光景でありました。


 こんな工合で、風が真西に変って不意打ちを食ったのと、大河に遮断《しゃだん》されて逃げ道のないのとで、荷物を出した人などはない。出しには出しても、出した荷は山と積まれたまま焼けてしまうのですから、誰も彼《か》も生命《いのち》からがら、ただ身一つになって、風呂敷包み一つも持たず逃げ出したもの……実に悲惨《みじめ》なことでありました。

 さて、火勢はさらに猛烈になって、とうとう雷門へ押し掛けて行きました。
 広小路から雷門|際《ぎわ》までは荷物の山で重なっているのですが、それが焼け焼けして雷門へ切迫する。荷物は雷門の床店の屋根と同じ高さになって累々としている所へ、煽《あお》りに煽る火の手は雷門を渦の中へ巻き込んでとうとう落城させてしまいました。それで雷門から蔵前の取っ付きまで綺麗に焼き払ってしまった上、さらに花川戸から馬道に延焼し、芝居町まで焼け込んで行きました。三座は確か類焼の難はのがれたように思いますが、何しろ、吾妻橋際から大河《おおかわ》の河岸まで焼け抜けてしまったのですからいかに火勢が猛威を振《ふる》ったかは推《お》し測られます。それに、大河を越えて、本所の吉岡町《よしおかちょう》へ飛火をして向う河岸で高見の見物をしていた人の胆《きも》までも奪ったとは、随分念の入った火事でありました。


 名代の雷門はこれで焼け落ちましたが、誰か殊勝《しゅしょう》な人があったと見え、風雷神の身体《からだ》は持ち出すことは出来なかったが、御首《みぐし》だけは持って逃げました。それが只今《ただいま》、観音堂の背後の念仏堂に確か飾ってあると思います。これはその後になって、門跡前の塩川運玉《しおかわうんぎょく》という仏師が身体を造って修理したのであります。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:しだひろし
2006年2月14日作成
2018年5月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

浅草文庫 - 高村光雲 - 「幕末維新懐古談 浅草の大火のはなし」 

「幕末維新懐古談 浅草の大火のはなし」

高村光雲 1929(昭和4)年1月

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