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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

 私はまだ子供の事とて、師匠の家の走り使いなどに、この界隈を朝夕に往復し、町から町、店から店と頑是もなく観て歩いたもの、今日のように電車などあるわけのものでなく、歩いて行って歩いて帰ることでありますから、その頃の景物がまことに明瞭と、よく、今も記憶に残っております。こうして話をしている中にも、まざまざと町並み、店々の光景が眼に見えるようにさえ思われて来ます。

 山の宿を出ると山谷堀……越えると浅草町で江戸一番の八百善がある。その先は重箱、鯰のスッポン煮が名代で、その頃、赤い土鍋をコグ縄で結わえてぶら下げて行くと、 「重箱の帰りか、しゃれているぜ」などいったもの。

 花川戸から、ずっと、もう一つ河岸の横町が聖天町、それを抜けると待乳山です。「待乳沈んで、梢乗り込む今戸橋」などいったもの、河岸へ出ると向うに竹屋の渡し船があって、隅田川の流れを隔て墨堤の桜が見える。山谷堀を渡ると、今戸で焼き物の小屋が煙を揚げている。戸沢弁次という陶工が有名であった。

 山谷堀には有明楼、大吉、川口、花屋などという意気筋な茶屋が多く、この辺一帯江戸末期の特殊な空気が漂っていました。

 広小路から雷門際までは荷物の山で重なっているのですが、それが焼け焼けして雷門へ切迫する。荷物は雷門の床店の屋根と同じ高さになって累々としている所へ、煽りに煽る火の手は雷門を渦の中へ巻き込んでとうとう落城させてしまいました。それで雷門から蔵前の取っ付きまで綺麗に焼き払ってしまった上、さらに花川戸から馬道に延焼し、芝居町まで焼け込んで行きました。三座は確か類焼の難はのがれたように思いますが、何しろ、吾妻橋際から大河の河岸まで焼け抜けてしまったのですからいかに火勢が猛威を振ったかは推し測られます。それに、大河を越えて、本所の吉岡町へ飛火をして向う河岸で高見の見物をしていた人の胆までも奪ったとは、随分念の入った火事でありました。

 この浅草寺ですが、混淆時代は三社権現が地主であったから馬道へ出る東門(随身門)には矢大臣が祭ってあった。これは神の境域であることを証している。観音の地内とすれば、こんなものは必要ないはずであります。もう一つ可笑しいことには、観音様に神馬があります。これは正しく三社権現に属したものである(神馬は白馬で、堂に向って左の角に厩があった。氏子のものは何か願い事があると、信者はその神馬を曳き出し、境内の諸堂をお詣りさせ、豆をご馳走しお初穂を上げてお祓いをしたものである)。こういう風に神様の地内だか、観音様の地内だか区別がないのです。法令が出てから観音様の境内と三社様の境内とハッキリ区別が出来ましたために、諸門は観音に附属するものになって、矢大臣を取り去って二天を祭り、今日は二天門と称している。神馬も観音の地内には置くことが出来ない故、三社様の地内へ移しました。

高村光雲

1852(嘉永5)年3月8日/2月18日-1934(昭和9)年10月10日

仏師、彫刻家

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