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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

 私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有《うゆう》に帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷門《かみなりもん》もこの時に焼けてしまったのです。此所《ここ》で話が前置きをして置いた浅草大火の件《くだり》となるのですが、その前になお少し火事以前の雷門を中心としたその周囲《まわり》の町並み、あるいは古舗《しにせ》、またはその頃の名物といったようなものを概略《ざっ》と話して置きます。つまり、火事で焼けてしまっては何も残らないことになりますから——


 まず雷門を起点にして、現今の浅草橋(浅草|御門《ごもん》といった)に向って南に取って行くと、最初が並木(並木裏町が材木町)それから駒形《こまがた》、諏訪町、黒船町《くろふねちょう》、それに接近して三好町《みよしちょう》という順序、これをさらに南へ越すと、蔵前《くらまえ》の八幡町、森田町、片町《かたまち》、須賀町《すがちょう》(その頃は天王寺ともいった)、茅町《かやちょう》、代地、左衛門河岸《さえもんがし》(左衛門河岸の右を石切《いしきり》河岸という。名人|是真《ぜしん》翁の住居があった)、浅草御門という順序となる。観音堂から此所までは十八町の道程《みちのり》です。


 観音堂から堂へ向って右手の方は、馬道《うまみち》、それから田町《たまち》、田町を突き当ると日本堤《にほんづつみ》の吉原土手《よしわらどて》となる。雷門に向って右が吾妻橋《あずまばし》、橋と門との間が花川戸、花川戸を通り抜けると山《やま》の宿《しゅく》で、それから山谷《さんや》、例の山谷堀のある所です。それを越えると浅草町で、それからは家がなくなってお仕置場《しおきば》の小塚原《こづかっぱら》……千住《せんじゅ》となります。


 花川戸の山の宿から逆に後に戻って馬道へ出ようという間に猿若町《さるわかちょう》がある。此所に三芝居が揃っていた。
 観音堂に向って左は境内で、淡島《あわしま》のお宮、花やしき、それを抜けると浅草|田圃《たんぼ》で一面の青田であった。
 観音堂の後ろがまたずっと境内で、楊弓場《ようきゅうば》が並んでいる。その後が田圃です。ちょうど観音堂の真後ろに向って田圃を距《へだ》てて六郷《ろくごう》という大名の邸宅があった。そのも一つ先になると、浅草|溜《だめ》といって不浄の別荘地——これは伝馬町《でんまちょう》の牢屋で病気に罹《かか》ったものを下げる不浄な世界——そのお隣りが不夜城の吉原です。溜《ため》に寄った方が水道尻《すいどうじり》、日本堤から折れて這入《はい》ると大門《おおもん》、大江戸のこれは北方に当る故|北国《ほっこく》といった。

 それから雷門に向って左の方は広小路《ひろこうじ》です。その広小路の区域が狭隘《きょうあい》になった辺から田原町《たわらまち》になる。それを出ると本願寺の東門《ひがしもん》がある。まず雷門を中心にした浅草の区域はざっとこういう風であった。

 

 私はまだ子供の事とて、師匠の家の走り使いなどに、この界隈《かいわい》を朝夕に往復し、町から町、店から店と頑是《がんぜ》もなく観《み》て歩いたもの、今日のように電車などあるわけのものでなく、歩いて行って歩いて帰ることでありますから、その頃の景物がまことに明瞭《はっきり》と、よく、今も記憶に残っております。こうして話をしている中にも、まざまざと町並み、店々の光景が眼に見えるようにさえ思われて来ます。そこで、管々《くだくだ》しくあるかは知らぬが、名代、名物といったようなものを眼の先にチラツクまま話して行きましょう。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:しだひろし
2006年2月14日作成
2006年6月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

浅草文庫 - 高村光雲 - 「幕末維新懐古談 大火以前の雷門附近」

「幕末維新懐古談 大火以前の雷門附近」

高村光雲 1929(昭和4)年1月

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