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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

 ある日のこと、私はそれらのベンチの一つに腰をおろして、いつもの通りぼんやり物思いに耽っていました。丁度春なんです。桜はもう過ぎていましたが、池を越して向うの活動小屋の方は、大変な人出で、ドーッという物音、楽隊、それに交っておもちゃの風船玉の笛の音だとか、アイスクリーム屋の呼び声だとかが、甲高く響いて来るのです。それに引きかえて、私達の居る林の中は、まるで別世界の様に静で、恐らく活動を見るお金さえ持合せていない、みすぼらしい風体の人々が、飢えた様な物憂い目を見合せ、いつまでもいつまでも、じっと一つ所に腰をおろしている。こんな風にして罪悪というものが醗酵するのではないかと思われるばかり、実に陰気で、物悲しい光景なのです。

 兄は仲店から、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人波をかき分ける様にしてさっき申上げた十二階の前まで来ますと、石の門を這入って、お金を払って「凌雲閣」という額の上った入口から、塔の中へ姿を消したじゃあございませんか。まさか兄がこんな所へ、毎日毎日通っていようとは、夢にも存じませんので、私はあきれてしまいましたよ。子供心にね、私はその時まだ二十にもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化物に魅入られたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。

江戸川乱歩

1894(明治27)年10月21日-1965(昭和40)年7月28日

小説家、推理作家

江戸川乱歩|浅草文庫
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