top of page

浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

芥川龍之介

1892(明治25)年3月1日-1927(昭和2)年7月24日

小説家

 ことに日暮れ、川の上に立ちこめる水蒸気と、しだいに暗くなる夕空の薄明りとは、この大川の水をして、ほとんど、比喩を絶した、微妙な色調を帯ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。

 船は川下から、一二艘ずつ、引き潮の川を上って来る。大抵は伝馬に帆木綿の天井を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。そして、舳には、旗を立てたり古風な幟を立てたりしている。中にいる人間は、皆酔っているらしい。幕の間から、お揃いの手拭を、吉原かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と拳をうっているのが見える。首をふりながら、苦しそうに何か唄っているのが見える。それが橋の上にいる人間から見ると、滑稽としか思われない。お囃子をのせたり楽隊をのせたりした船が、橋の下を通ると、橋の上では「わあっ」と云う哂い声が起る。中には「莫迦」と云う声も聞える。

 「和田の乗ったのは白い木馬、僕の乗ったのは赤い木馬なんだが、楽隊と一しょにまわり出された時には、どうなる事かと思ったね。尻は躍るし、目はまわるし、振り落されないだけが見っけものなんだ。が、その中でも目についたのは、欄干の外の見物の間に、芸者らしい女が交っている。色の蒼白い、目の沾んだ、どこか妙な憂鬱な、――」 「それだけわかっていれば大丈夫だ。目がまわったも怪しいもんだぜ。」

 浅草といふ言葉は複雑である。たとへば芝とか麻布とかいふ言葉は一つの観念を与へるのに過ぎない。しかし浅草といふ言葉は少くとも僕には三通りの観念を与へる言葉である。

 斜めに見たある玩具屋の店。少年はこの店の前に佇んだまま、綱を上ったり下りたりする玩具の猿を眺めている。玩具屋の店の中には誰も見えない。少年の姿は膝の上まで。

 綱を上ったり下りたりしている猿。猿は燕尾服の尾を垂れた上、シルク・ハットを仰向けにかぶっている。この綱や猿の後ろは深い暗のあるばかり。

 僕は浅草千束町にまだ私娼の多かつた頃の夜の景色を覚えてゐる。それは窓ごとに火かげのさした十二階の聳えてゐる為に殆ど荘厳な気のするものだつた。

  • 俳句

 浅草の 雨夜明りや 雁の棹

芥川龍之介|浅草文庫
bottom of page