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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

 ……浅草で、お前の、最も親愛な、最も馴染のふかいところはどこだときかれれば広小路の近所とこたえる外《ほか》はない。なぜならそこはわたしの生れ在所である。明治二十二年田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までそこに住みつづけたわたしである。子供の時分みた風色ほど、山であれ河であれ、街であれ、やさしくつねに誰のまえにでも蘇生って来るものはない。――ことにそれが物ごころつくとからのわたしのような場合にあってはなおのことである。

 そのけしきは、どつちにしても……色の褪めたのれんにしても、うす汚れたカーテンにしても、所詮は夜更のものである。更けてはじめて生きてくるけしきである。……といふことはその味も、あるひはすしにしても支那蕎麦にしても、あるひは天麩羅にしても一品洋食にしても、あるひはおでんにしてもやきとりにしても、所詮は夜更のものである。更けてはじめて生きてくる味である。……そこに夜店の……といつたゞけでいけなければ、夜あかしの、さうした喰物やのうきくさの果敢ないいのちは潜んでゐる。

 往年、五軒茶屋の名によつて呼ばれたうち、草津、一直、松島の三軒は右の通り、万梅は四五年まへに商売をやめ、今では、わづかに、大金だけが、古い浅草のみやびと落ちつきとを見せてゐる。
 座敷のきどり、客あつかひ。――女中が結城より着ないゆかしさがすべてに行渡つてゐる。つくね、ごまず、やきつけ、やまとあげ、夏ならば、ひやしどり、いつも定つてゐる献立も、どこか、大まかな、徒らに巧緻を弄してゐないところがいゝ。――われ/\浅草に住む人間の、外土地の人の前に自信をもつて持出すことの出来るのは、このうちと金田とだけである。

 なるほどわたくしの育つた時分には……わたくしは浅草で育つたのである……田甫の何々と。……たとへば田甫の大金とか、田甫の平野とか、田甫の太夫とかいつてもちツとも不思議ではなかつた。むしろその古風な言ひ方になつかしさをさへ感じた。が、だからといつて、浅草と下谷とをつなぐ目貫の道路、自動車自転車の氾濫する鋪装道路をその門のまへにもつにいたつた存在にして、今さら何もさうした回顧的な看板をあげる手はないのである。あげたところで、根ツから通用しないのである。通用しないかぎりあきらかにそれは穿違へである。まだしも、あとの、隅田川の沿岸ならどこでも大川端といへると思つてゐる物知らずのはうがつみがない。

  • 浅草神社 久保田万太郎句牌

 

 竹馬や いろはにほへと ちりぢりに

  • 俳句

 浅草に うつりて蚊帳の わかれかな

 浅草の よしみはいづれ 夜長かな

 浅草の 句碑の夜寒の ことしより

 浅草の 市をとゝひの みぞれかな

 浅草の 辛子の味や 心太

 浅草の 茶の木ばたけの 雪解かな

 浅草の 塔がみえねば 枯野かな

 浅草も 隅田公園 ちかき雪

久保田万太郎

1889(明治22)年11月7日-1963(昭和38)年5月6日

俳人、小説家、劇作家

久保田万太郎|浅草文庫
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