top of page

浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

 お糸さんの話をしよう。お糸さんが私の家に来たのは桜どきで、吉原はちょうど夜桜の頃であった。
 吉原の桜は八重咲きが多く、上野や向島よりは遅れて咲いた。花の開く頃になると、馬力や荷車に附けられて、桜林から仲の町に移された。大門口から水道尻まで、桜のあるところは青竹の欄干で囲われ、その囲みの中に朝顔灯籠が点し連ねられた。葉桜になってしばらくすると、また根こぎにされて、桜林へ運ばれるのである。 

 私の家は吉原遊廓のはずれにあった。家の裏手には木柵が囲らしてあって、台所口の前にあたる所に格子戸がとりつけてあった。格子戸には鈴がついていて、開閉するたびに音を立てた。格子戸の際に、洗濯する場所が設けてあった。母が甲斐がいしい姿で洗濯していたさまが、いまも目に浮かぶ。母は洗濯しながら、外を通る人と、よく話をしていた。私の家の持家の長屋にいた、茂ちゃんという子が、木柵の外から顔を覗かせて、母に向い、「おばさん。ぼくの鼻は胡床をかいているでしょ。」と云った。「剽軽な子だよ。いまに落語家にでもなるんじゃないか。」と母は云っていた。

小山清

1911(明治44)10月4日-1965(昭和40)年3月6日

小説家

bottom of page