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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

 私は九歳の時に浅草の仲見世で諏訪法性の兜を買ってもらいましたが、錣の毛は白い麻で作られて、私がそれをかぶると背後に垂れた長い毛は地面に引摺る位で、外へ出ると犬が啣えるので困りました。兜の鉢はすべて張子でした。概して玩具に、鉄葉を用いることなく、すべて張子か土か木ですから、玩具の毀れ易いこと不思議でした。槍や刀も木で作られていますから、少し打合うとすぐに折れます。竹で作ったのは下等品としてあまり好まれませんでした。

 二十三年の七月、市村座――その頃はまだ猿若町にあった――で黙阿弥作の『嶋鵆月白浪』を上演した。新富座の初演以来、二回目の上演である。菊五郎の嶋蔵、左団次の千太は初演の通りで、団十郎欠勤のために、望月輝の役は菊五郎が兼ねていた。ただひとり初演と違っているのは源之助の「弁天おてる」であった。この狂言の初演は明治十四年で、その当時は半四郎の「弁天おてる」に対して、源之助はその女中のおせいという役を勤めていたのであるが、今度は自分がおてるを勤めることになった。しかも世間がそれを怪まないほどに、彼の技倆も名声も高まっていたのである。

 両国と奥山は定打で、ほとんど一年じゅう休みなしに興行を続けているのだから、いつも、同じ物を観せてはいられない。観客を倦きさせないように、時々には観世物の種を変えなければならない。この前に蛇使いを見せたらば、今度は雞娘をみせる。この前に一本足をみせたらば、今度は一つ目小僧を見せるというように、それからそれへと変った物を出さなければならない。そうなると、いくらインチキにしても種が尽きて来る。その出し物の選択には、彼らもなかなか頭を痛めるのだ。殊に両国は西と東に分れていて、双方に同じような観世物や、軽業、浄瑠璃、芝居、講釈のたぐいが小屋を列べているのだから、おたがいに競争が激しい。

岡本綺堂

1872(明治5)年11月15日/10月15日-1939(昭和14)年3月1日

小説家、劇作家

岡本綺堂|浅草文庫
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