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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

 どこへ行つても、人がゐる。人、人である。人のゐない場所はなかつた。人の一人もゐない所へ行つてみたいな、さう考へて、歩いてみた。けれども、人は、どこにでもゐる。

 どうして、人のゐない所へ行きたくなるのだらうか。誰も自分に話しかけたり、邪魔したり、しないのに。人は、跫音をたてる。人は、喋る。子供は、泣いてゐる。ボールを投げてゐる。ハモニカを吹いてゐる。

 大井広介に始めて会つたのは昭和十五年大晦日午後七時、葉書で打合せて雷門で出会つた。その晩、大井広介は至極大真面目で、自分はインチキ・レビューの愛好家で、女性美はレビューの動きに極致があると信じてゐるから、自分の娘もレビューガールにするつもりである。三つの頃からレビューを見せて仕込んでゐるが、足が長くレビューガール向きの身体のくせに、生れつき踊りの才能がなくて閉口してゐる、とこぼした。酔つ払つてゐたわけではなく、至極マジメなものである。これは又評論書きにも似合はない奇々怪々な先生だと思つて、ひどく好きになつてしまつた。そこで「現代文学」の同人になることを承諾した。

 浅草の女優さん方は、まだ、芸が未熟である。女優部屋ではずいぶん色ッポイのだけれども、舞台へでると、色ッポクない。なかには全然色気がなくなり、棒のような感じのレビュウガールがいる。そのくせ一しょに酒の席にいる時にはずいぶん仇めいており、楽屋の階段をシャンソンなんか唄いながらトントン駈け下りてくるだけでもナマメカシイのが舞台じゃ棒にすぎないのである。

 自分が女であることに頼りすぎて、舞台で、女になろうとする心構えがないからだ。女になろうとせず、元々女のつもりで、演技するから、女になろうとするオヤマのような色気がでないのである。

 女剣劇のかかっていたのは、浅草六区の飛龍座というバラック造りの劇場の番附には入れてもらえぬ悲しい小屋だ。浅草奥山が官命によって取払われたのは明治十七年、その代地として当時田ンボの六区が与えられたが、区劃整理して縦横に道を通じて後、ようやく五六軒の名もないような小屋と、十軒あまりの飲食店などができたばかり、当時は新開地とよんでいたが、今の六区には比すべくもない田ンボの中の小さな遊園地である。一二年後に常盤座ができて、やや劇場らしい劇場が存在することになったが、そうなると、それまでのバラック小屋は年々とりこわされて新しく装いをととのえ、草分け当時のバラックの名は知ることのできないのが多い。飛龍座はまアいくらかマシな小屋であった。

 昔はどこの酒屋でもコップ酒というものを飲ませたが、近ごろは見かけない。酒の統制以来、小売店と飲食店の区別が厳重になって法規で取締られているのかも知れないが、馬方なぞが車をチョイととめて、キューッと一パイひッかけてまた歩きだす風景はわるくないものである。

 コップ酒専門で天下に名高いのは新橋の三河屋だ。電気ブランの浅草のヤマニバーとともに、財布の軽い呑んべいには有りがたい存在で、私もずいぶんお世話になった。

坂口安吾

1906(明治39)年10月20日-1955(昭和30)年2月17日

​小説家、評論家、随筆家

坂口安吾|浅草文庫
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