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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草にまつわる、ことば字引

浅草文庫 - ことば字引 - か行

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​か行

 1907年(明治40年)4月21日、同水族館に隣接して、昆虫学者の名和靖が「通俗教育昆虫館」を設立した。1918年(大正7年)には根岸興行部に経営が移り、館内にメリーゴーラウンドを設置、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災以降には「木馬館」と名を変え、安来節を中心とした演芸場となった(後に浪曲(一階の木馬亭)と大衆演劇(二階の木馬館大衆劇場)の常打ち小屋として現存)。

 1929年(昭和4年)7月10日、隣地の「木馬館」の影響もあり、同水族館の経営をしていた興行師・桜井源一郎が、石田守衛に2階「余興場」での演芸をもちかけ、石田が榎本健一を誘って、軽演劇の劇団「カジノ・フォーリー」を旗揚げした。作家の川端康成が同時進行で東京朝日新聞に小説『浅草紅団』(1929年 - 1930年)を連載したことで認知度は高まり、同水族館とその2階の「カジノ・フォーリー」は全国的に知られた。榎本の脱退等を経て、1933年(昭和8年)3月、「カジノ・フォーリー」は解散した。

 同水族館の閉館時期は不明だが、1935年(昭和10年)、写真家の桑原甲子雄が同水族館を撮影した写真『浅草公園水族館』を発表、作家の高見順が雑誌『文藝』に1939年(昭和14年)1月 - 1940年(昭和15年)3月の12回連載した小説『如何なる星の下に』では、すでに廃墟として描かれている。

 活動写真(かつどうしゃしん)は明治・大正期における映画の呼称。motion pictureの直訳語であり、元来は幻灯機のことを指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。単に活動とも。自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは大正後期になってからである。

 活動写真は映画の昔の呼び名ではあるが、映画とは意味が少々違い、活動写真は荒唐無稽な時代劇や演劇の実写化したもののことを指す。大正時代に起こった純映画劇運動によって活動写真は、芸術的水準を持ち、活動写真とは一線を画した映画へと生まれ変わっていった。

 雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門。東京都台東区浅草一丁目2番 - 3番地に位置する。正式名称は風雷神門(ふうらいじんもん)であり、「雷門」と書かれた提灯の逆側には「風雷神門」と書かれている。

 941年、安房国の太守であった平公雅が、武蔵国への配置転換を祈願。翌年、配置転換の願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願し伽藍などの寄進を行った。初代の雷門に相当する門は、その際に造られたとされる。

 雷門の呼称は、江戸時代の川柳に初めて登場するが、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明である。知名度に関しては、雷門の名が書かれた提灯が1795年に初めて奉納されており、浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられる。 雷門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。最後の火災は1866年(慶応元年12月14日)であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての雷門は姿を消す。

 明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられる。いずれも博覧会の開催や戦勝記念、開帳など、その時々のイベント的な要素が強かった。素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであった。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられている。

 現在ある雷門は1960年5月3日に開通式が行われ、10年ごとに大改修が行われている。再建費用を寄進したのは松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助である。かつて松下の神経痛平癒を祈祷した浅草寺貫首の清水谷恭順が1958年、上京中の松下に協力を依頼し、翌1959年に工事が始まった。大提灯も松下が奉納し、その後も新調されている。

 なお風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた像である。

 明治18年(1885)、隅田川汽船株式會社によって、吾妻橋と永代橋の間に蒸気船が運航を始めた。船体が白色だったので白蒸気と、一区一銭という値段から一銭蒸気と、また、焼き玉エンジン特有のポンポンという音からポンポン蒸気ともいわれ庶民に親しまれた。33年(1900)には千住吾妻滊船株式會社が設立され、船体を青色に塗った青蒸気といわれた蒸気船が、吾妻橋と千住の間を往復した。「此切符本日限り 千住吾妻滊船株式會社」「自吾妻橋 至小松島 金參錢 通行税壹錢」と書かれた、川蒸気の乗船切符の表、裏が書き写されている。

 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「川蒸気」より抜粋

 日本独特の百貨商品陳列所。 1877年、上野公園に開設した第1回内国勧業博覧会で、閉会後出品者に売れ残りの品を返したが、出品者の希望によってその一部を残留陳列して販売することに。翌年商工業の見本館が開設された。これが勧工場の始りで、開設場所には麹町辰ノ口の旧幕府伝奏屋敷の建物をあてた。 82年頃が最盛期で、東京市内 15区の各中心地をはじめ、大阪、名古屋、その他にも設けられた。現在の百貨店のはしりともいえるが、営利を主眼とせず、産業の振興を目的とするきわめて独自の形式をもつものであった。ただ各地に出現するに及んで品質も低下し、明治末には旧来の呉服店から脱皮しつつあった百貨店に取って代られ、関東大震災後に消滅した。

 本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。

 内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同義)がある。宮殿内部は下段の間(手前)と上段の間(奥)に分かれ、下段の間には前立本尊の観音像(伝・円仁作)、上段の間には秘仏本尊像をそれぞれ安置する。浅草寺貫主を務めた網野宥俊によれば、宮殿内は、床は漆塗り、壁や扉は金箔押しで、上段の間・下段の間には繧繝縁(うんげんべり)の小畳を各2枚敷いている。上段の間には秘仏本尊を納めた厨子のほか、東福門院、徳川家康、徳川家光、公遵法親王がそれぞれ奉納した観音像が安置され、かつてはその他の寺宝類もここに納められていたという。

 国際劇場 (こくさいげきじょう)は、かつて浅草にあった劇場である。松竹直営。松竹歌劇団の晴れ舞台であった。

 1937(昭和12)年、幸龍寺の跡地に建設された。都内はおろか全国各地に同名の劇場・映画館が存在したため、通常は地名を冠称し「浅草国際劇場」と呼ばれた。

 公演は、松竹歌劇団(SKD)のグランドレビュー(主に、四大おどりの東京踊り・春のおどり・夏のおどり・秋の踊り)と松竹映画一本の組み合わせ。国際劇場が出来る前までは「浅草松竹座」(1963年5月廃座)がSKDのホームグラウンドであった。 SKDのレビュー以外には、人気歌手の実演や女剣劇、喜劇などが上演された。

 「言問団子(ことといだんご)」は、植木の植木師の外山佐吉が江戸時代末期に創業。

 「言問」の名は、在原業平の和歌「名にし負はばいざ言問はん都鳥我が思ふ人はありやなしやと」(『古今和歌集』)にちなむもので、この歌の舞台が隅田川沿いと目されていることによる。この店が著名になるにつれ一帯の別称ともなり、現在は桜橋の下流に架かる言問橋等にその名が見られる。

 浅草寺発祥の地。隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。628(推古天皇36)年に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。駒形堂の名の由来については諸説あるが、浅草寺の一山寺院住職の故網野宥俊僧正は、「駒形堂の地が観世音菩薩上陸の地であることから、隅田川に棲む魚類に対する愛護の必要を感じ、生物の守護仏である馬頭観音を祀り、人びとが心願成就の御礼として馬形の作り物を奉納したことが名の由来ではないか」と推考している。
 駒形堂は、942(天慶5)年に平公雅によって建立されたと伝えられる。江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとはまず駒形堂のご本尊を拝んでから浅草寺に参拝した。堂宇の正面ははじめ川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった。

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