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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草にまつわる、ことば字引

浅草文庫 - ことば字引 - な行

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​な行

 雷門から宝蔵門に至る表参道の両側には土産物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。商店は東側に54店、西側に35店を数える。

 貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。

 寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。

 江戸時代、陰暦正月・7月の26日の夜、月の出るのを待って拝むこと。月光の中に弥陀・観音・勢至の三尊が現れると言い伝えられ、特に江戸高輪(たかなわ)から品川あたりにかけて盛んに行われた。六夜待ち。

 かつてこの一帯は入間川(現・隅田川)の氾濫原にあたり、石浜(現・石浜神社付近)から真土山(現・待乳山本龍院)、浅草(現・浅草寺付近)、鳥越岡(現・鳥越神社付近)の高台からなる自然堤防の背後の広大な後背湿地だった。この湿地帯は忍ケ岡(上野山の古名)のふもとにまで及び、度重なる洪水によってなかなか陸化せず、当時の図絵に千束池や姫の池などとして見える。

 江戸市街も常に氾濫の危険があったが、江戸幕府による荒川をはじめとする治水事業により元和6年(1621年)待乳山を崩した客土で、浅草聖天町の今戸橋(待乳山聖天付近)から北西方向へ箕輪浄閑寺にかけて堤防が築かれた。

 全国の諸大名により60余日で完成したため日本堤だともいうが記録がなく確証が薄い。また土手が二本あったから「二本堤」という説もあるが、これも場所が特定できていない。山谷堀はこの土手の北側にあり、石神井用水から別れた音無川など上流部からの排水路として機能していた。

 土手上は周囲を見渡せる見通しのよい街道(6町余りの長さがあったことから土手八丁と呼ばれた)として利用された。明暦の大火の後に土手南側に人形町から遊郭が移転し吉原となってからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった。

 関東大震災から4年後の1927年(昭和2年)、日本堤は取り崩された。現在は土手通りとして痕跡を留めている。

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