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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草にまつわる、ことば字引

浅草文庫 - ことば字引 - た行

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​た行

 長国寺(ちょうこくじ)は、東京都台東区千束にある、法華宗本門流の寺院。山号は鷲在山(じゅざいさん)、大本山鷲山寺末。長國寺とも書く。浅草酉の市の発祥の寺。

 寛永7年(1630年)石田三成の遺子といわれる鷲山寺13世・日乾が鳥越町に開山し、寛文9年(1669年)、新吉原に近い現在地へ移転した。明治初年の神仏分離令により、境内を含め寺と鷲神社に分割された。

 七曜の冠を戴き、宝剣をかざして鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」、「おとりさま」と呼ばれ、開運招福の守り本尊として親しまれている。とりわけ、応現の日にちなんで開催されてきた浅草「酉の市」の本尊として、江戸時代から広く振興されている。

 神社(おおとりじんじゃ)は、東京都台東区千束3丁目にある神社である。「おとりさま」の通称でも呼ばれ、11月の例祭は「酉の市(とりのいち)」として広く知られる。

 江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)と酉の寺 長國寺(とりのてら ちょうこくじ)境内で行われた酉の市である。江戸時代には浅草の鷲大明神は鷲の背に乗る妙見菩薩とされた。「現在の足立区花畑の大鷲神社を「上酉、本酉」、千住にある勝専寺を「中酉」、浅草の鷲神社と酉の寺 長國寺を「下酉、新酉」と称しており、江戸時代に盛大な酉の市はこの3カ所であった。幕末には巣鴨、雑司ヶ谷などの大鳥神社でも酉の市が開催されるようになる。明治時代になると千住・勝専寺の酉の市は閉鎖されたが、江戸時代から続く酉の市はいくつかあり現在も賑わっている。

 浅草の鷲神社と酉の寺 長國寺の東隣には新吉原という遊郭が存在し、酉の市御例祭の日には遊郭内が開放されたといわれ、地の利も加わり最も有名な酉の市として現在に至る。

 電気館(電氣館:でんきかん)は、かつて東京浅草にあった映画館である。日本初の映画専門の劇場で、明治末年、東京の浅草公園六区に設立された。当初は輸入サイレント映画の専門館であったが、のちに浅草電気館(あさくさでんきかん)と改称、国産映画の専門館となった。また、これに倣って日本全国に多数の「電気館」ができた。

 1903年(明治36年)10月1日、吉沢商店が、東京市浅草区浅草公園六区(現在の東京都台東区浅草1丁目42番4号)に、「日本で初めての常設活動専門館」としてオープンした。「常設」というのは、当時の活動写真(映画)の上映形態が、映写機を会場に設置しての「移動上映」中心だったからで、演劇等の実演を混在させない、映画の専門館であった。それまで同地には「電友館」というエックス線実験の見世物小屋があり、「電気館」はこれを改称したものである。

 1912年(大正元年)9月、吉沢商店は、福宝堂、横田商会、M・パテー商会との4社合併で「日本活動写真株式会社」(現在の日活)を設立した。「電気館」は日活の直営館となるが、すぐに松竹に手放す。

 松竹の経営になってからは、松竹蒲田撮影所製作の映画や洋画の混映館となった。1931年(昭和6年)に帝国キネマ演芸に松竹資本が導入されて、新興キネマに改組されてからは、新興キネマ作品の封切館となる。1942年(昭和17年)、新興キネマが大都映画等と統合されて「大日本映画」(のちの大映)となって以降は、大映の封切館となった。

 1971年(昭和46年)11月29日に大映が倒産、その後に、松竹は子会社の中映に「浅草電気館」を移管した。1976年(昭和51年)2月29日に閉鎖された。

 宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊である。小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。通常、一般には公開していないが、特別公開されることがある。院内にある天祐庵は表千家不審庵写しの茶室で、江戸時代後期の建立。もとは名古屋にあった。

 東京馬車鉄道(とうきょうばしゃてつどう)は、1880年(明治13年)に設立され、かつて東京府東京市において馬車鉄道を運営していた会社。日本初の馬車鉄道であると共に、日本初の私鉄でもある。ただし馬車鉄道であることから、文献では後に開業し蒸気機関を採用した日本鉄道や大阪堺間鉄道(後に阪堺鉄道、南海鉄道、近畿日本鉄道を経て現・南海電気鉄道)を日本初の私鉄と記すものも多い。

 官営鉄道(後の日本国有鉄道→JR)で採用された1067mm軌間や世界的に主流の1435mm軌間(標準軌)のいずれとも異なる、1372mmの軌間を採用していた。当時でも珍しいこの軌間を採用した理由は不明。以後、1372mm軌間は馬車軌間と呼ばれるようになる。

 1882年(明治15年)6月25日に、新橋と日本橋の間を結んで営業を開始した。停留所は基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、途中の停留所は存在せず利用者が降りたい所を車掌に言えば下車できた。乗るのも手を上げれば乗れたらしい。

 1882年(明治15年)10月1日には、日本橋 - 上野 - 浅草 - 日本橋間の環状線も短時間で竣工させた。開業当初に営業運転に当たった馬車は31両あり、すべて英国製で一等車が29両でオールドバリー製で、二等車がスターバック製であった。二等車のうち1両が「夏用車」と謳ってありこの馬車は現在で言うとオープンカー形状の馬車であり、当時好評でかなり使われていた。夏用車(オープンカー)車体天井部分には東京市街馬車鉄道と記してあり側面には車体番号が記してあった。逸話として当初、1、2両を試験的に英国から輸入し、あとは東京馬車鉄道が国内で模造し量産するつもりでいたが、依頼先の鉄道局で製作する材料と車輪鉄具の製作ができず、仕方なく夏用車をすべて輸入したようである。馬は宇都宮や関東地区近隣から購入して使った。開業時47頭。開業年の末には226頭に増やした。新橋から全区間の所要時間は2時間程度で、新橋から浅草橋経由浅草広小路までは46分、新橋から万世橋経由浅草広小路まで42分、浅草広小路から上野広小路まで16分であった。料金は3区分制を採っており一区あたり一等車3銭、二等車2銭であった。一等車3銭は2000年代の流通貨幣で1,500円程度の価値である。全区間(3区間)×3銭を乗車すると2000年代の流通価値で4,500円、2等の場合でも3,000円の金額になる。2000年代のタクシー乗車金額相当の運賃であり、庶民が毎日使えるものではなかった。


 営業は好調であったが、運行の激化による道路の損壊や馬鉄沿線の糞尿被害が社会問題化した。結局、欧州でも馬車鉄道を路面電車に置き換える所が増えていたこと、日本でも京都電気鉄道を初めとして名古屋や川崎などで路面電車の運行が開始されていたことから、東京馬車鉄道も路面電車への移行を決定、1903年(明治36年)に東京電車鉄道と社名を改めて、品川 - 新橋間で東京初の電車営業を始めた。そして、同年中に路面電車への切り替えを完了する。

 この時、品川馬車鉄道が採用していた737mm軌間は、東京馬車鉄道が採用していた1372mm軌間へ改められた。当社由来の路線は都電本通線・都電金杉線および都電品川線となり、一般には「銀座線」の通称でも呼ばれた。

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