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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草にまつわる、ことば字引

浅草文庫 - ことば字引 - は行

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は行​

 パノラマまたは回転画(かいてんが)とは、絵画のジャンルの一つである。円環状の壁面全体に精巧な風景画を描いて中央の観覧者を取り囲むようにし、目の前に遠大な情景が広がっているように見せるものである。パノラマと客席の間に模型や人形を置いたものもある。こういったパノラマを主とした施設は「パノラマ館」と呼ばれ、世界各地の名勝や近代の戦争などがよく題材となった。戦争ものは特に人気で日本では日清戦争や日露戦争を描いたものが大当たりしている。

 パノラマ(回転画)は1792年にイギリスのロバート・バーカー(英語版)が創始したとされている。日本では1890年(明治23年)、上野公園内に設立された「上野パノラマ館」が最初である。同年には浅草公園六区に本格的なパノラマ館である「日本パノラマ館」が開設している。1909(明治42)年)閉館。このパノラマ館は全高30メートル、直径36メートルの円形の建物だった。日本でもパノラマは人気があったが、費用がかかることや活動写真の登場などにより昭和期には下火になっていった。

 パンの会(ぱんのかい)は明治末期の青年文芸・美術家の懇談会。「パン」はギリシア神話に登場する牧神で、享楽の神でもある。1894年にベルリンで結成された芸術運動「パンの会」に因むものだという。

 20代の芸術家たちが中心となり、浪漫派の新芸術を語り合う目的で出発し、東京をパリに、大川(隅田川)をパリのセーヌ川に見立て、月に数回、隅田河畔の西洋料理店(大川近くの小伝馬町や小網町、あるいは深川などの料理店)に集まり、青春放埓の宴を続けた。パンの会は反自然主義、耽美的傾向の新しい芸術運動の場となり、1908年末から1913年頃まで続いた。

 『スバル』系の詩人、北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇らと、美術同人誌『方寸』に集まっていた画家、石井柏亭(主宰)、山本鼎、森田恒友、倉田白羊らが、文学と美術との交流を図って意気投合し、日本にもパリのカフェのように、芸術家が集まり芸術を語り合う場所が必要だということになった。

 木下が苦労して会場を探し出し、1908年(明治41年)12月、隅田川の右岸の両国橋に近い矢ノ倉河岸の西洋料理「第一やまと」で第1回会合が開催された。

 翌年には欧米留学から帰国した高村光太郎が、やや遅れて参加、上田敏、永井荷風らの先達もときに参会し、耽美派のメッカの観を呈した。長田秀雄、吉井勇、小山内薫、俳優の市川左団次、市川猿之助らも顔を出した。白秋の『東京景物詩』、杢太郎の『食後の唄』はこの会の記念的作品である。また、木下杢太郎の回想に会合の様子が描かれている。

 しだいに放逸な酒宴の場となり、酒好きの会員が多く、どんちゃん騒ぎになることもあった。一方、社会主義者の集まりと誤解され、刑事が様子を見に来たこともあった。

 雷門をくぐり、「仲見世」の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。

 本龍院(ほんりゅういん)は、東京都台東区浅草にある聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつである。山号は待乳山。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、待乳山聖天(まつちやましょうでん)とも称される。この寺には浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られている。

 この寺は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年(推古天皇3年)9月に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる。601年(推古天皇9年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている。例年1月に行われる「大根まつり」でも知られる。

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