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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草の歴史

浅草文庫 - 浅草の歴史 - 明治後期

明治時代後期(1905-1912年)

 六区に至りては、園内観物の中心地とも称すべきものにして、区内を四号地に分つ。これが観物は、時々変更して一定しがたしといえども、しばらく明治三十九年現在のものを記せば左のごとし。

一号地 観物に大盛館(江川玉乗) 清遊館(浪花踊) 共盛館(少年美団) 共盛館(青木玉乗) 外に猿の観物。(以下略)

二号地 観物に日本館(娘都踊) 野見(剣術) あり。(以下略)

三号地 観物に清明館(剣舞) 明治館(大神楽) 電気館(活動写真) あり。

    劇場常盤座 寄席金車 あり。(以下略)

四号地 観物に日本パノラマ 珍世界 木馬館 S派新演劇朝日 あり。(以下略)

1907(明治40)年4月21日

​浅草公園水族館に隣接して「通俗教育昆虫館」開業

1908(明治41)年-1913(大正2)

​20代の芸術家たちが中心になり、ロマン派の新芸術を語り会うことを目的とした「パンの会」発足。

​東京をパリに、大川をセリーヌ川に見立て、月数回、隅田川河畔の西洋料理屋を舞台に活動。

 仲見世各商店は一棟を数戸に分割し、間口九尺奥行も亦それ以上に出でざるを以て、内部の狭隘はいふばかりなく、出店商人は夜間は店を鎖してうちに帰り、翌日また弁当を持ちて通い来たる有様なり。然れどもこの仲見世は公園内の最も繁昌するところにて、凡そ観音に参詣するものは、家へのみやげ物は大抵こゝにて買求むるを以て日々の商売額甚だ多きを以て出店を希望するもの多く、多額の金円をいだすにあらざれば容易にその店株を得る能はず、場所によりては三百円以上に達するものありといふ。

 蓋し浅草区は、世のいはゆる政治家、学者、或は一般に称してハイカラ流の徒なるものがその住所を定むるもの少し。今日知名の政治家を物色して浅草に何人かある。幾人の博士、文士、はた官吏がこの区内に住めるか。思ふにかゝる江戸趣味及び江戸ッ児気質の破壊者が浅草区内に少きはむしろ喜ぶべき現象ならずや。今日において、徳川氏三百年の泰平治下に養はれたる特長を、四民和楽の間に求めんとせば、浅草区をおきてこれなきなり。

 浅草の 夜のにぎわひに

 まぎれ入り

 まぎれて出で来し

 さびしき心

1910年頃

 ――あさアり……からアさり……

 で、どこからともなく聞えて来る夕とゞろきのなかのその美音……

 ――大丈夫だ、この塩梅なら……

 ――もつよ、まだ、この天気は……

 屋台のぬしは、それ/″\の車を押しながら、をり/\さうしたことを言葉ずくなにいひ合つた。

 蝙蝠。……夕あかり。……星。……そして夜店……

 電車の行交ひもいまのやうに激しくなかつた。人通りも、また、いまのやうに目まぐるしくなかつた。そのまゝ白くその一日はしづんだ。……といふものが浅草の広小路。……二十年まへの、わたしの育つたころの浅草の広小路。……どこのうちでもまだ瓦斯をつけてゐたそのころのけしきの一部である。

1911(明治44)年4月9日11時30分

​吉原大火

吉原遊郭の一角より出火、懸命な消火活動にもかかわらず、10時間燃え続ける。

火は吉原遊郭全体のみならず周辺の家屋にも燃え広がり、約6,500戸が焼失。


 

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