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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草の歴史

浅草文庫 - 浅草の歴史 - 明治前期

明治時代前期(1868-1895年)

1871(明治4)年 散髪脱刀令・裸体禁止令

 祖父は丁髷をつけて、夏など褌一つで歩いていたのを覚えている。その頃裸体禁止令が出て、お巡りさんが「御隠居さん、もう裸では歩けなくなったのだよ。」と言って喧しい。そしたら着物を着てやろうというので蚊帳で着物を拵え素透しでよく見えるのに平気で交番の前を歩いていた。

 

明治初年頃

 その頃、堀が隅田川へ注ぐ今戸の前にも、数多いみやこ鳥が群れていた。今戸にはいくつもの寮が邸をならべていて、みやこ鳥の浮かぶ雪景色に酒を酌んだのであった。今戸の寮は幕末から明治初期までが一番全盛を極めたのであって、この頃の物持ちや政治家が熱海や箱根へ別荘を設けるように、当時銀座の役人や御用商人、芸人、大名、囲われ者などがここへ別荘を作った。これを寮と唱えて、建築から庭園、塀の構えまで豪奢、風流のありたけを尽くしていた。それが、大正十二年の震災までは俤を残していたのである。

  水族館の近所にある植込を見ると茶の木が一、二本眼につくでしょう。あれは昔の名残で、明治の初年には、あの辺一帯茶畠で、今活動写真のある六区は田でした。

 椿岳の浅草生活は維新後から明治十二、三年頃までであった。この時代が椿岳の最も奇を吐いた盛りであった。
 伊藤八兵衛と手を分ったのは維新早々であったが、その頃は伊藤もまだ盛んであったから椿岳の財嚢もまたかなり豊からしかった。浅草の伝法院へ度々融通したのが縁となって、その頃の伝法院の住職唯我教信と懇ろにした。この教信は好事の癖ある風流人であったから、椿岳と意気投合して隔てぬ中の友となり、日夕往来して数寄の遊びを侶にした。

 椿岳の山門生活も有名な咄である。覗目鏡を初める時分であった。椿岳は何処にもいる処がないので、目鏡の工事の監督かたがた伝法院の許しを得て山門に住い、昔から山門に住ったものは石川五右衛門と俺の外にはあるまいと頗る得意になっていた。或人が、さぞ不自由でしょうと訊いたら、何にも不自由はないが毎朝虎子を棄てに行くのが苦労だといったそうだ。有繋の椿岳も山門住居では夜は虎子の厄介になったものと見える。

1870(明治3)年

淡島椿岳、浅草寺境内伝法院の庭に見世物小屋をひらき、大評判に。

  奥山見世物の開山は椿岳で、明治四、五年の頃、伝法院の庭で、土州山内容堂公の持っていられた眼鏡で、普仏戦争の五十枚続きの油画を覗かしたのでした。看板は油絵で椿岳が描いたのでして、確かその内三枚ばかり、今でも下岡蓮杖さんが持っています。その覗眼鏡の中でナポレオン三世が、ローマのバチカンに行く行列があったのを覚えています。その外廓は、こう軍艦の形にして、船の側の穴の処に眼鏡を填めたので、容堂公のを模して足らないのを駒形の眼鏡屋が磨りました。而して軍艦の上に、西郷吉之助と署名して、南洲翁が横額に「万国一覧」と書いたのです。父はああいう奇人で、儲ける考えもなかったのですが、この興行が当時の事ですから、大評判で三千円という利益があった。

 何しろ明治二、三年頃、江漢系統の洋画家ですら西洋の新聞画をだも碌々見たものが少なかった時代だから、忽ち東京中の大評判となって、当時の新らし物好きの文明開化人を初め大官貴紳までが見物に来た。人気の盛んなのは今日の帝展どころでなかった。油画の元祖の川上冬崖は有繋に名称を知っていて、片仮名で「ダイオラマ」と看板を書いてくれた。泰山前に頽るるともビクともしない大西郷どんさえも評判に釣込まれてワザワザ見物に来て、大に感服して「万国一覧」という大字の扁額を揮ってくれた。こういう大官や名家の折紙が附いたので益々人気を湧かして、浅草の西洋覗眼鏡を見ないものは文明開化人でないようにいわれ、我も我もと毎日見物の山をなして椿岳は一挙に三千円から儲けたそうだ。

 僕の子供の頃の浅草の奥山の有様を考えると、暫くの間に変ったものです。奥山は僕の父椿岳さんが開いたのですが、こんな事がありましたっけ。確かチャリネの前かスリエという曲馬が——明治五年でしたか——興行された時に、何でもジョーワニという大砲を担いで、空砲を打つという曲芸がありまして、その時空鉄砲の音に驚かされて、奥山の鳩が一羽もいなくなった事がありました。

 明治四、五年頃、ピヤノやヴァイオリンが初めて横浜へ入荷した時、新らし物好きの椿岳は早速買込んで神田今川橋の或る貸席で西洋音楽機械展覧会を開いた。今聞くと極めて珍妙な名称であるが、その頃は頗るハイカラに響いたので、当日はいわゆる文明開化の新らしがりがギシと詰掛けた。この満場爪も立たない聴衆の前で椿岳は厳乎らしくピヤノの椅子に腰を掛け、無茶苦茶に鍵盤を叩いてポンポン鳴らした。何しろ洋楽といえば少数の文明開化人が横浜で赤隊(英国兵)の喇叭を聞いたばかりの時代であったから、満場は面喰って眼を白黒しながら聴かされて煙に巻かれてピシャピシャと拍手大喝采をした。文部省が音楽取調所を創設した頃から十何年も前で、椿岳は恐らく公衆の前でピヤノを弾奏した、というよりは叩いた最初の日本人であろう。(このピヤノは後に吉原の彦太楼尾張屋の主人が買取った。この彦太楼尾張屋の主人というは藐庵や文楼の系統を引いた当時の廓中第一の愚慢大人で、白無垢を着て御前と呼ばせたほどの豪奢を極め、万年青の名品を五百鉢から持っていた物数寄であった。ピヤノを買ったのも音楽好きよりは珍らし物好きの愚慢病であった。が、日本の洋楽が椿岳や彦太楼尾張屋の楼主から開拓されたというは明治の音楽史研究者の余り知らない頗る変梃な秘史である。)

1873(明治6)年1月15日

浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、東京初の都市公園に。

 明治七、八年頃、浅草の寺内が公園となって改修された。椿岳の住っていた伝法院の隣地は取上げられて代地を下附されたが、代地が気に入らなくて俺のいる所がなくなってしまったと苦情をいった。伝法院の唯我教信が調戯半分に「淡島椿岳だから寧そ淡島堂に住ったらどうだ?」というと、洒落気と茶番気タップリの椿岳は忽ち乗気となって、好きな事仕尽して後のお堂守も面白かろうと、それから以来椿岳は淡島堂のお堂守となった。

1876(明治9)年

神仏分離令

1876(明治9)年

 これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。  この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一の宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶を別当と称え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭われていたような有様であった。政府はこの弊を矯めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令を出し、神の地内にある仏は一切取り除けることになりました。

 そして、従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方かに方附けなければならないことになったのである。これは日本全国にわたった大改革で、そのために従来別当と称して神様側に割り込んでいた僧侶の方は大手傷を受けました。奈良、京都など特に神社仏閣の多い土地ではこの問題の影響を受けることが一層甚かったのですが、神主側からいうと、非常に利益なことであって、従来僧侶に従属した状態になっていたものがこの際神職独立の運命が拓けて来たのですから、全く有難い。が、反対に坊さんの方は大いに困る次第である。  そこで、例を上げて見ると、鎌倉の鶴ヶ岡八幡に一切経が古くから蔵されていたが、このお経も今度の法令によって八幡の境内には置くことが出来なくなって、他へ持ち出しました。一切経はお寺へ属すべきものであるからというのです。そこでこのお経は今浅草の浅草寺の所有になっております。

1876(明治9)年

 この浅草寺ですが、混淆時代は三社権現が地主であったから馬道へ出る東門(随身門)には矢大臣が祭ってあった。これは神の境域であることを証している。観音の地内とすれば、こんなものは必要ないはずであります。もう一つ可笑しいことには、観音様に神馬があります。これは正しく三社権現に属したものである(神馬は白馬で、堂に向って左の角に厩があった。氏子のものは何か願い事があると、信者はその神馬を曳き出し、境内の諸堂をお詣りさせ、豆をご馳走しお初穂を上げてお祓いをしたものである)。こういう風に神様の地内だか、観音様の地内だか区別がないのです。法令が出てから観音様の境内と三社様の境内とハッキリ区別が出来ましたために、諸門は観音に附属するものになって、矢大臣を取り去って二天を祭り、今日は二天門と称している。神馬も観音の地内には置くことが出来ない故、三社様の地内へ移しました。

 瓦斯(灯)の入来したのは明治十三、四年の頃で、当時吉原の金瓶大黒という女郎屋の主人が、東京のものを一手に引受けていた時があった。昔のものは花瓦斯といって焔の上に何も蔽わず、マントルをかけたのは後年である。

 維新の破壊の手は一番遅れて浅草に及んだので、明治十四、五年ごろまでは江戸の気分がマダ浅草には漂っていた。一つは椿岳や下岡蓮杖や鵜飼三次というような江戸の遺老が不思議に寺内に集って盛んに江戸趣味を発揮したからであった。

1882(明治15)年

6月25日に日本初の私鉄・東京馬車鉄道が新橋 - 日本橋間で営業開始。10月1日には日本橋 - 上野 - 浅草 - 日本橋間の環状線を短期竣工。

1884(明治17)年

一区から六区の6つに区分けされ、「浅草公園六区」と呼称される。

浅草寺裏の浅草田圃に「ひょうたん池」を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成・この一帯が第六区に。

奥山地区から見世物小屋が移転し、歓楽街を形成する。

  当時奥山の住人というと奇人ばかりで、今立派な共同便所のある処辺に、伊井蓉峰のお父さんの、例のヘベライといった北庭筑波がいました。ヘベライというのは、ヘンホーライを通り越したというのでヘベライと自ら号し、人はヘベさん/\といってました。それから水族館の辺に下岡蓮杖さん、その先に鏑木雪庵、広瀬さんに椿岳なんかがいました。古い池の辺は藪で、狐や狸が住んでいた位で、その藪を開いて例の「万国一覧」の覗眼鏡の興行があったのです。今の五区の処は田圃でしたから今の池を掘って、その土で今の第五区が出来たというわけで、これはその辺の百姓でした大橋門蔵という人がやったのです。

1885(明治18)年12月27日

浅草仲見世が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わる。

 旧雷門のありしところより仁王門に至る間、七十余間を仲店といふ。道幅五間余を全部石にて敷きつめ、両側に煉瓦造りの商店百三十余戸あり。もとこの地は浅草寺支院のありしところにて左右両側各六院ありき。その仁王門に近きところには茶店ありて二十軒茶屋と称したりき。明治維新後、支院は或は移り或は絶えて、そのあとには露店など並びしが、今の店は、明治十八年十二月、東京市により建設せられたるものなり。

 蓋し浅草区は、世のいはゆる政治家、学者、或は一般に称してハイカラ流の徒なるものがその住所を定むるもの少し。今日知名の政治家を物色して浅草に何人かある。幾人の博士、文士、はた官吏がこの区内に住めるか。思ふにかゝる江戸趣味及び江戸ッ児気質の破壊者が浅草区内に少きはむしろ喜ぶべき現象ならずや。今日において、徳川氏三百年の泰平治下に養はれたる特長を、四民和楽の間に求めんとせば、浅草区をおきてこれなきなり。

1887(明治20)年

浅草公園裏に小芝居の劇場「吾妻座(後に、宮戸座と改称)」開場、大正はじめにかけて小芝居が全盛期に。

高尚趣味に流れて歌舞伎の本質を失いかけていた大芝居に対し、宮戸座が中心となって江戸伝来の庶民性を守り続けた。

  見世物ですな、こういう時代があった。何でもかんでも大きいものが流行って、蔵前の八幡の境内に、大人形といって、海女の立姿の興行物があった。当時「蔵前の大人形さぞや裸で寒かろう」などいうのが流行った位でした。この大人形が当ったので、回向院で江の島の弁天か何かの開帳があった時に、回向院の地内に、朝比奈三郎の大人形が出来た。

 それから浅草の今パノラマのある辺に、模型富士山が出来たり、芝浦にも富士が作られるという風に、大きいもの/\と目がけてた。可笑かったのは、花時に向島に高櫓を組んで、墨田の花を一目に見せようという計画でしたが、これは余り人が這入りませんでした。

 今の浅草の十二階などは、この大きいものの流行の最後に出来た遺物です。

1890(明治23)年5月23日

上野に続き、日本で2番目となる「日本パノラマ館」オープン。

円形小屋の直径36m、全高約30mという巨大な建物、南北戦争図が描かれる。

 その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々とおもったものであった。十銭の入場料といえばそのころ惜しいとおもわなければならぬが、パノラマの場内では望遠鏡などを貸してそれで見せたのだから如何にも念入であった。師団司令部の将校等の立っている向うの方に、火災の煙が上って天を焦がすところで、その煙がむくむく動くように見えていたものである。

1890(明治23)年11月11日

商業施設と展望塔を兼ねた煉瓦造り12階建て「凌雲閣(浅草十二階)」開業、歓楽街・浅草の顔となる。

「江湖の諸君、暇のある毎にこの高塔の雲の中に一日の快を得給え」

 大衆の歓樂境である浅草公園は、昔も今も變らぬ盛り場であった。見世物小屋立並ぶ六区は勿論、仲見世通りから馬道に至る間、暑さ寒さのきらひなく、朝早くから夜更け迄、人波打って流れてゐた。當時の浅草公園は今日のように活動常設館こそなけれ、吹矢楊弓店など軒をならべ、玉乗り、人形芝居、女軽業、ジオラマ、花屋敷、さては富士山という遊場迄あって、民衆の絶好の樂天地であった。殊に此年、英人バルトンの設計にかかる通稱十二階で通った、總煉瓦造り高さ三十六間といふ見事な凌雲閣が當時五萬五千圓といふ莫大な金をかけて建てられるや忽ち浅草名物否日本名物の一ツとなつて素晴らしい人氣を呼び、彌が上にも浅草は賑はした。だが、惜しい事に此名物も、震災のため今は跡かたもなくなって仕舞った。

1892(明治25)年

「仲見世の観工場として知らぬものなし」、仲見世に「梅園館勧工場」開業。モダンな時計塔を備えていた。27年に、仲見世のほど近い並びに「共栄館勧工場」開業。

1894(明治27)年7月-1895(明治28)年3月

​日清戦争

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