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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

​​~江戸 - 明治前期 - 明治中期 - 明治後期 - 大正 - 昭和~

浅草の歴史

浅草文庫 - 浅草の歴史 - 昭和〜

昭和時代〜(1926年-)

 田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。――両側のその、水々しい、それ/″\の店舗のまえに植わった柳は銀杏の若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。(秋になるとその溝に黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)どこをみてももう紺の香の褪めた暖簾のかげはささない。書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば鼈甲小間物松屋の軒さきの、櫛の画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。源水横町の提灯やのまえに焼鳥の露店も見出せなければ、大風呂横町の、宿屋の角の空にそそる火の見梯子も見出せなくなった。――勿論、そこに、三十年はさておき、十年まえ、五年まえの面影をさえさし示す何ものもわたしは持たなくなった。

 しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれている。強い濃い「光」と「影」との交錯を持っている。……ということは古く存在した料理店「松田」のあとにカフェエ・アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂いではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かに分たれている謂いでも勿論ない。前記書林浅倉屋の屋根のうえに「日本児童文庫」と「小学生全集」の尨大な広告を見出したとき、これも古い酒店さがみやの飾り窓に映画女優の写真の引伸しの飾られてあるのを見出したとき、そうして本願寺の、震災後まだかたちだけしかない裏門の「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交る「子供洋服講習会」の立札を見出したとき、わたしの感懐に背いていよ/\「時代」の潮さきに乗ろうとする古いその町々をはっきりわたしはわたしに感じた。

 ……広小路は、両側に、合せて六つの横町と二つの大きな露地とをもっている。本願寺のほうからかぞえて右のほうに、源水横町、これという名をもたない横町、大風呂横町、松田の横町、左のほうに、でんぼん横町、ちんやの横町。――二つの大きな露地とは「でんぼん横町」の手前のさがみやの露地と朝倉屋の露地とをさすのである。――即ち「さがみやの露地」は「源水横町」に、「浅倉屋の露地」は「名をもたない横町」に広い往還をへだててそれ/″\向い合っているのである。

 が、「源水横町」だの「名のない横町」だの、「大風呂横町」だの「松田の横町」だの「でんぼん横町」だの、それらはすべてわたしの子供の時分には……すくなくともまだわたしの田原町にいた時分にはだれもそう呼んでいたのである。――嘗てそこに松井源水が住んでいたというのをもって源水横町、その横町が「大風呂」という浴場をもっていたのをもって大風呂横町、その右かどに料理店の「松田」をもっていたのをもって松田の横町(それはまたその左かどに牛肉屋の「いろは」をもっていた理由でいろはの横町とも呼ばれた)――で、「でんぼん横町」とは「伝法院横町」の謂、「ちんやの横町」とは文字通りちんやの横町の謂である。そういえば誰でも知っている大衆的の牛肉屋「ちんや」の横町である。――由来はいたって簡短である。

 このうちいま残っているのは「ちんやの横町」だけである。「ちんやの横町」という称呼だけである。

 その「区役所横町」(最近までわたしはそれを承服しなかった。強情にわたしは「でんぼん横町」といいつづけた。が、たま/\わたしと同年配の、それこそ「珍世界」の太鼓をたたく猿の人形も知っていれば、電気館のあごなしの口上いいもよくおぼえているさる人の、躊躇なくそこを「区役所横町」と呼びなしているのを聞いてわたしは我を折った。「区役所横町」では身につかない感じだがやむを得ない)を入ってすぐのところに以前共同厠のあったことをいっても、おそらくだれもその古い記憶をよび起すのに苦しむだろう。それほど、整った、美しい、あかるい店舗の羅列をその両側がもつにいたったのである。ことにその下総屋と舟和との大がかりな喫茶店(というのはもとよりあたらない。といってそも/\の、ミツマメホオルというのもいまはもうあたらない。ともにその両方がガラスの珠すだれを店さきに下げたけしき――この頃の暑さにむかってのその清涼なけしきがいまはまれにしかみられない「氷店」といった感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびをいさましくそこに物語っている。

 「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、いままでわたしのいって来たそれらのいいかたは、畢竟この芥川氏の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。

 ――改めてわたしはいうだろう、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場……「隅田川」のながれに沿ったそれらの町々、馬道の一部から猿若町、聖天町――田町から山谷……「吉原」の廓に近いそれらの町、そこにわたしの「古い浅草」は残っている。

 田原町、北仲町、馬道の一部……「広小路」一帯のそうした町々、「仲見世」をふくむ「公園」のほとんどすべて、新谷町から千束町象潟町にかけての広い意味での「公園裏」……蔓のように伸び、花びらのように密集したそれらの町々、そこにわたしの「新しい浅草」はうち立てらさた。

 ……「池のまわりの見世物小屋」こそいまのその「新しい浅草」あるいは「これからの浅草」の中心である……

 が、「古い浅草」も「新しい浅草」も、芥川氏のいうように、ともに一トたび焦土に化したのである。ともに五年まえみじめな焼野原になったのである。――というのは「古い浅草」も「新しい浅草」も、ともにその焦土のうえに……そのみじめな焼野原のうえによみ返ったそれらである。ふたたび生れいでそれである。――しかも、あとのものにとって、かつてのそのわざわいは何のさまたげにもならなかった。それ以前にもましてだん/\成長した。あらたな繁栄はそれに伴う輝かな「感謝」と「希望」とを、どんな「横町」でもの、どんな「露地」でものすみ/″\にまで行渡らせた。――いえば、いままで、「広小路」を描きつつ、「仲見世」に筆をやりつつ、「震災」の二字のあまりに不必要なことをひそかにわたしは驚いたのである……

 『歌沢新内の生粋を解せずして、薩摩琵琶浪花節の露骨を喜び、旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を賞す』と「浅草繁盛記」の著者がいくらそういっても、いまのその「新しい浅草」の帰趨するところはけだしそれ以上である。薩摩琵琶浪花節よりもっと「露骨」な安来節、鴨緑江節が勢力をえている。そのかみの壮士芝居よりもっと「浅薄」な剣劇が客を呼んでいる。これを活動写真のうえにみても、いうところの「西洋もの」のことにして、日本出来の、なにがしプロダクションのかげろうよりもはかない「超特作品」のはるかに人気を博していることはいうをまたない。

 最後までふみとどまった「大盛館」の江川の玉乗、「清遊館」の浪花踊り、「野見」の撃剣……それらもついにすがたを消したあとはみたり聞いたりのうえでの「古い浅草」はどこにももう見出せなくなった。(公園のいまの活動写真街に立って十年まえ二十年まえの「電気館」だの「珍世界」だの「加藤鬼月」だの「松井源水」だの「猿茶屋」だのを決してもうわたしは思い出さないのである。「十二階」の記憶さえ日にうすれて来た。無理に思い出した所でそれは感情の「手品」にすぎない。)
 飲んだり食ったりのうえでも、「八百善」「大金」のなくなった今日(「富士横町」の「うし料理」のならびにあるいまの「大金」を以前のものの後身とみるのはあまりにもさびしい)わずかに「金田」があるばかりである。外に「松邑」(途中でよし代は変ったにしても)と「秋茂登」があるだけである。かつての「五けん茶屋」の「万梅」「大金」を除いたあとの三げん、「松島」は震災ずっと以前すでに昔日のおもかげを失った、「草津」「一直」はただその尨躯を擁するだけのことである。――が、たった一つの、それだけがたのみのその「金田」にして「新しい浅草」におもねるけぶりのこのごろ漸く感じられて来たことをどうしよう…… 

1929(昭和4)年7月10日

木馬館の影響もあり、浅草公園水族館の2階余興場での演芸が持ちかけられる、榎本健一らが軽演劇の劇団「カジノ・フォーリー」を旗揚げ。

 すしや、天麩羅や、おでんや、とむかしのそこのすさまじいけしきをそのまゝ、いまでも浅草の夜店は食物やで埋つてゐる。そしていまは、その鮨や、天麩羅や、おでんやの中に、支那蕎麦が入り、一品洋食が交り、やきとりが割込んでゐる。……といつたら、あるひは人は、やきとりはむかしからある、さういつてわたしをわらふかも知れない。

 が、そのけしきは、どつちにしても……色の褪めたのれんにしても、うす汚れたカーテンにしても、所詮は夜更のものである。更けてはじめて生きてくるけしきである。……といふことはその味も、あるひはすしにしても支那蕎麦にしても、あるひは天麩羅にしても一品洋食にしても、あるひはおでんにしてもやきとりにしても、所詮は夜更のものである。更けてはじめて生きてくる味である。……そこに夜店の……といつたゞけでいけなければ、夜あかしの、さうした喰物やのうきくさの果敢ないいのちは潜んでゐる。

 最も早く、五月といふ声をきくと一しよに出そめるのが金魚屋である。そのあと一ト月、六月になつて出はじめるのが虫屋である。そして、そのあともう一ト月、七月に入つて、はじめてすがたをみせるのが燈籠屋である。……といふことは、金魚屋の、いやが上にもあか/\と宵の灯影をうき立たせるその幾つもの荷は、涼しい水の嵩は、すぐもうそこに祭礼の来かけてゐる町々のときめきを語り、虫屋の、ことさらに深い宵暗を思はせてしづまり返つたとりなしは、梅雨あけの急に来たむし暑さの、このさきいかにつゞくであらうかのことしの苦労を語り、そして燈籠屋の、前にいつたその、暗く、あかるく、月をうつしてまはるそれ/″\の影の戯れは、真菰を、ませがきを、蓮の葉を、こればかりは昔から、一ト場所一ト晩ぎりの、ふた晩と出ない草市の果敢なさに、更けてはもう露の下りる秋めきをしづかにそこに語るのである。

 汝 観音様よ、
 浅草の管理人よ、
 君は鳩には豆を我等には自由を――
 腹ふくるゝまで与へ給へ、
 彼は他人の投げた
 お賽銭で拝んでゐた
 かゝる貧乏にして
 チャッカリとした民衆に
 御利益を与へ給へ

昭和10年代前半

 ――泡盛屋はスタンドの前に五六人並ぶといっぱいになる狭い店で、肥った婆さんがひとりでやっていた。娘を映画俳優に嫁がせていて、この婿は今はまるで不遇だが、もとはちょっと売り出しかけたことがあり、そんな関係からか、高田稔などから贈られた、でも今はすっかり色の褪せた暖簾がかかっていた。店の客も公園の小屋の関係のものが多かった。そこは、生粋の琉球の泡盛を売っていて、出港税納付済――那覇税務所という紙のついた瓶が、いくつも入口に転がっていた。浅草の連中は、インチキな酒類を平気で楽しんで飲むが、それは騙されて飲むのではなく、インチキと承知の上のことで、だから泡盛のほんもの、うそなどということの舌での鑑定にかけては、商売人はだしである。朝野がその一人であった。朝野は、婆さんと「来たぞ」「おや、騒々しいのが来た」といった口をきき合うなじみであった。婆さんは、それが商売上手の口なのだろうが、まるで客扱いなどしないぞんざいな口をきいた。

 浅草に部屋を借りてもう半年以上になっているのに、私はどうした加減か、仲見世とか観音様の境内とか、それから六区の映画館街とか(これは前に書いたような理由はあるが)、つまり浅草の正式の顔といったようなところはあまり歩いたことがなく、私のぶらつくところはおおむね背中のような腋の下のような指の間のような裏通り、時とすると……のような辺であった。仁王門へ向け、浅草の花道のような仲見世を堂々と(?)歩くのは珍しいことであった。

 こういう工合に銀座の女たちがランデヴーに浅草を利用しているのに、ひょっこりぶつかるのは、これが初めてではなかった。そして女も私も双方とも、この場合のように気まずい思いをするのは、これでもう何度目ぐらいか。かくて私は、銀座の女たちが、浅草だったら、店の客に会わないだろう、店へ来てうるさい噂を立てるようなのに会う心配はないだろう、そう思って、浅草をあいびきの場所に選んでいることを知ったのだが、私の存在はその安心にいやな翳を投じたのであり、そしてまた顔をそむけられたことによって私はくだらぬ噂を立てるようなくだらぬ客のひとりと見られたことをも知らねばならなかった。ところで話は変るが、おかしなことに銀座の女が浅草へくると一方、浅草の地下鉄横町の喫茶店の女たちは、公休というと、銀座へ出かけて行き、これは必ずしもあいびきではなく、映画見物の楽しみを楽しみに行くのだが、映画なら手近の六区で見たらよさそうなものを、わざわざ丸の内に赴くのである。ある時私は、おかしいということを、その女たちの一人に言ったら、

「――だってェ、感じが出ないわ」

 颯爽とこう答えた。私は、わかるようなわからないようなうなずきをしたが、つづいて、その見る映画も洋画でないと「感じが出ない」由を知らされ、私はさらにわからないようなわかるようなうなずきをした。

 「広養軒といえば、前の聚楽……」

とバーテンは言うのだった。「須田町食堂の発展は大したもんですね」

 各所にある「聚楽」という食堂は須田町食堂で経営していることは、私も知っていたが、

「――今度、花屋敷を買うそうですね」

 浅草にほとんど毎日いて、そうしたことを私は大森の喫茶店のバーテンから初めて聞くのだった。蛇の道は蛇だと感心した。

「ふーん。花屋敷をね」

 ――往年の名物も今は廃墟のようになっていた。廃墟といえば、浅草のレヴィウの発生地のような水族館も廃屋のままで、深夜にその屋上のあたりから踊り子のタップの靴音が聞えてくるという怪談さえ出ているほどの惨憺たる有様である。

(これはその後間もなく取りこわされた。「カジノ・フォーリー」のかつてのファンは夢の跡を失ったのである。)

 ――私の手もとに明治四十年発行の東京市編纂「東京案内」という本があるが(この明治四十年というのは、私の生れた年なので、この本には特別の感情が持たれるのだが)浅草区のところに、公園の地図が入っている。見ると、それに出ている大きな食いもの屋は大方今日も残っているのだが(たとえば田原町の鰻の「やっこ」、広小路の牛肉の「ちんや」、天婦羅の「天定」、仲見世の汁粉の「梅園」、馬道の鳥の「金田」、花屋敷裏の料亭「一直」、千束町に入って「草津」、牛肉の「米久」等。)興行方面となると内容はもとより名前もほとんど変っている。

 これで見ても、食いもの屋の一種の凄さがわかる。須田町食堂が花屋敷を買収するというのも、食いもの屋の凄さのひとつの現われにすぎないであろう。

 喫茶店「ハトヤ」の前に来ていた。入ろうかと、ドサ貫とバーテンダーのどちらへともなく言って暖簾から覗くと、満員であった。ここはいつだって満員でない時はないが、客の多くは六区の小屋の人々で、それが一杯五銭のコーヒーでほっと一息ついているのや、ホット・ドッグの腸詰の代りにカレー・ライスのカレーを入れたカレー・ドッグというのを頬ばっているので、狭い店のなかはいっぱいである。

 熊手には宝船、的矢、玉茎、金箱、米俵、お多福面、戎大黒などが飾り付けてあるが、これが千差万別で、どれが出船でどれが入船か見たところではさっぱりわからない。熊手を買って聞いてみればいいわけだが、口あけの店で小さな熊手を買うのも気がひけ、「――宝船に何か区別があるのかもしれない。舳が左になってたり右になってたりするんで区別するのかもしれない」などと言って、素通りしてしまった。しかし熊手には、小さいのになると宝船のついてないのがあり、ついていてもそのような区別は見られなかったから結局わからずじまいであった。熊手の代りに笹枝に芋を貫いたのと切山椒を買って美佐子のお土産にし、熊手は鷲神社でそれぞれが買った。

「あたし去年もこの熊手。ほんとうは倍のを買わなきゃいけないんだけど……」

「僕もそうだ」

 誘われるままに、いつかドサ貫が出てきた合羽橋通りのどじょう屋の「飯田」へ行った。 「鯰は精力がつくですよ」 と、しきりに朝野がすすめるので、私は別に反対すべき理由もないゆえ、その言葉に従うと、 「では、僕は鯨と行こう」と、朝野は異をたてて、おいおいと女中を呼び、 「ズー鍋一丁、カワ鍋一丁」 「はアい。ズー鍋一丁、カワ鍋一丁!」と女中が板場に言った。 「それからお銚子だ」 「はアい。それからお銚子一本」 朝野の言葉と女中の言葉とは、女中がお銚子を一本と限定した、それが違うだけだった。

 客がいっぱい立て混んでいる店の内部は、土間と畳と半分ずつに分れていて、土間に腰掛けた客たちはほとんどすべてが味噌汁でめしを食っている。どじょう汁、鯨汁、しじみ汁、あおみ汁(野菜のこと)、豆腐汁、ねぎ汁、いずれも五銭で、めしが十銭、十五銭也でめしが食える。十五銭という安さに少しも卑下せずに食える、――楽しんで食っているその雰囲気、こうした浅草の空気は、私の心をなごやかにさせるのである。私は畳に上って、ズーとかカワとかいうようなややこしいものを食ったりしないで、土間の諸君にまじってどじょう汁を食いたかった。

 「朝野君、知ってるでしょう。お女郎さん相手の、郭のなかだけ回っている雑貨屋。はたきとか、お茶碗とか、部屋に飾る人形とか、そんなものを車にいっぱい陳列して廓に売りにくる。……それがちょうど、通りにとまっていた。うららかな暖かい陽を浴びて……」  私は朝野に語っていた。酔いが、頭に浮んだことをすぐ口に出させたのだ。そしてまた酔いのため幾分感傷的な語調である。 「見ると、お女郎さんがその車を囲んで何か買っているんですね。何を買うのかしらと、僕は近づいてみた。近づいて見ると、――まだ化粧をしてないので、夜見ると綺麗なお女郎さんたちも黄色くむくんだ顔をしている。あの顔の色は、実にいやな色ですね。日に当らないせいか、それとも、……。いや。そんなことはどうでもいい。お女郎さんたちは車を囲みながら、日向ぼっこをしているんですよ。高いわね、まけないなどと雑貨屋のおじさんに言ったりして、なかなか買わない。察するところ、雑貨屋が来たというので、それを口実にして陽に当るために外に出たようで……。でも、そのうち一人が安い楊枝入れを買った。それを囲んで、日向ぼっこをしているのが他に数人いるわけで、そのうちの一人が店の方を振りむいて、何か言った。何か買わねえずらといった田舎弁。で、僕は何気なく店の方に眼をやると、――店の上り口の、ちょうどそこまで陽がさしこんでいるギリギリのところの板の間に、お女郎さんたちが鏡台を持ち出して髪を結っている。髪を結いながらでも、陽に当ろうというわけなんですね。陽ッてそんなものかと、陽のありがたさを初めて知らされた感じだった。そして眼を外にむけると、店の前に盆栽が並べてあるじゃないですか。一日中、陽の当らない家ン中に押し込められている盆栽。それを陽にあててやっている。盆栽は、ほんのひとときの喜びながら、じっと陽の恵みを楽しんでるといった恰好だった。僕は、その盆栽にお女郎さんを感じた。同時に、同じことだが、お女郎さんに哀れな盆栽を感じたですね。――以来僕は盆栽というものが嫌いになった。盆栽の趣味を枯淡とかなんとか言うのはうそですね。むごたらしいもんじゃないですか」

 浅草の広小路は、吉原と同じように昼と夜とではまるで表情を異にするのである。夜になると、――昼間、のどかな陽が射していたその片側に、食いものの屋台がズラリと立ち並び、多くは暖かい食いものを売るその暖簾のなかには、どれもいっぱい人がつまり、顔は隠されるが下は丸見えのその足もとには、どこから現われるのか、眼を爛々と光らせた犬がうろうろしていて、まことに、なんというかさかんな光景を呈するのである。

 淺草も變つた。仲店の、あれも虎の門や上野の博物館や銀座や十二階とおなじ時分に出來たと思はれる赤煉瓦の長屋の文明開化趣味も、もうなくなつた。いま新しく建築中だがこんどはどんなものになるだらう。安い西洋菓子のやうな文化建築をデコデコと建て並べなければ好いと案じられる。仁王門のわきの久米の平内から辨天山のあたりは、やはり昔ながら、木立が芽を出して、銀杏の木も火にも燒けずに青い葉をつけてゐる。觀音堂の裏の、江崎寫眞館も赤煉瓦だけ昔のまま殘つたがあのあたりはすつかり變つたものだ。どぶを隔てた金田の前の廣い道も、どぶのわきの柳の並木も、燒かれて伐られて昔の面影はない。花屋敷のうらから十二階へ拔ける。裏路のわきの泥溝も今は跡がない。

1941(昭和16)年12月8日-1945年(昭和20)8月15日

太平洋戦争

1945(昭和20)年3月10日

東京大空襲(下町空襲)

 戦争中の浅草は、ともかく、私の輸血路であった。つまり、酒がのめたのである。

 「染太郎」というオコノミ焼が根城であったが、今銀座へ越している「さんとも」というフグ料理、これは大井広介のオトクイの家、それから吉原へのして、「菊屋」と「串平」、酔いつぶれて帰れなくなると、吉原へ泊るという、あのころは便利であった。​

 あのころ「現代文学」の同人会は染太郎でやるのが例で、ともかく、戦禍で浅草が焼ける半年前ぐらいまでは、なんとか酔えた。そのうちに三軒廻って一軒しか酒がなかったり、何軒廻っても一滴もありつけないようなことになり、そのうち、焼けてしまった。串平は一家全滅したそうだ。この店では、久保田万太郎氏や武田麟太郎氏などがよく飲んでいた。

 料理屋に、草津、一直、松島、大増、岡田、新玉、宇治の里がある。

 鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。

 鰻屋に、やつこ、前川、伊豆栄がある。

 天麩羅屋に、中清、天勇、天芳、大黒屋、天忠がある。

 牛屋に、米久、松喜、ちんや、常盤、今半、平野がある。

 鮨屋に、みさの、みやこ、清ずし、金ずし、吉野ずしがある。

 蕎麦屋に、奥の万盛庵、池の端の万盛庵、万屋、山吹、藪がある。

 汁粉屋に、松村、秋茂登、梅園がある。

 西洋料理屋に、よか楼、カフエ・パウリスタ、比良恵軒、雑居屋、共遊軒、太平洋がある。

 支那料理屋に来々軒がある。

 この外、一般貝のたぐひを喰はせるうちに、蠣めし、野田屋があり、てがるに一杯のませ、且、いふところのうまいものを喰はせるうちに、三角、まるき、魚松がある。

1958(昭和33)年4月1日より

売春防止法の完全施行、吉原遊郭はその歴史に幕を下ろす。

1960(昭和35)年

松下電器産業創業者・松下幸之助が病気だった頃、浅草寺を参拝。

完治のお礼として門および大提灯を寄進、現在の浅草のシンボルである「雷門」が誕生。

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