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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草の歴史

浅草文庫 - 浅草の歴史 - 大正

大正時代(1912-1926年)

 われは思ふ、浅草の青き夜景を、

 仲見世の裏に洩るる短夜の葱のむせびを、

 公園の便所の瓦斯を、はた、澄めるアルボースの香を。

 あはれなる蛇小屋の畸形児を、かつは知れりや、

 怪しげの二階より寥しらに顔いだす玉乗の若き女を、

 あるはまた曲馬の場に息喘ぎ、うちならぶ馬のつかれを。

 新しきペンキに沁みる薄暮の空の青さよ。

 また臭き花屋敷の側に腐れつつ暗みゆく溝の青さは

 夜もふけて銘酒屋の硝子うち覗くかなしき男のみや知りぬらん。

 われは思ふ、かかる夜景に漂浪へる者のうれひを、

 馬肉屋の窻にうつる広告の幻燈を見て蓄音機きけるやからを、

 かくてまた堂のうしろに病める者、尺八の追分ふし。

1918(大正7)年

通俗教育昆虫館の経営権が根岸興行部へ、館内にメリー・ゴーラウンドを設置。

 今日でも、まだ到る処の宮々に、放ち飼ひの鶏を見かける。ときをつくらせたり、青葉の杉の幹立の間に隠見する姿を、見栄さうと言つた考へから飼うて置くのでない事は、言ふ迄もない。あれは実は、あゝして生けて置いて、いつ何時でも、神の御意の儘に調理してさし上げませう、とお目にかけて置く牲料で、此が即、真の意味のいけにへなのである。

 白い鶏が神饌に供へられる事は、其例多く見えて居るが、必しも白い物ばかりを飼うて居た訣ではなく、偶々、民家の家畜の中にも、白い羽色のが生れると、献るべき神意と信じ、御社へあげ/\して来た事であらう。古風な江戸びとは、いまだに卵を産まなくなつた鶏を、浅草寺の境内へ放しに行く。内容は変つても、尠くとも、形式だけはまだ崩れないで居る一例である。

1923(大正12)年9月1日11時58分32秒

関東大震災

 二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった。仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや小暗い蝋燭を点して露店が出ていた。芋を売る店、焼けた缶詰を山のように積んでいる店、西瓜を十個ほど並べて、それを輪切りに赤いところを見せている店、小さい梨を売る店——などと、食い物店が多かった。

 蝋燭は、仁王門を入ったところの店に売っていた。杜はお千と相談して、五銭の蝋燭を四本と、その外に東北地方から来たらしい大きな提灯一個八銭とを買った。 「おお、生ビールがあるじゃないか。こいつはいい。一杯やろう」

 杜は思いがけない生ビールの店を見つけて舌なめずりをした。彼はお千を手招きして、二つのコップの一つを彼女に与えた。杜の腸に、久しぶりのアルコールがキューッと浸みわたった。なんとも譬えようのない爽快さだった。

 第一に浅草といひさへすれば僕の目の前に現れるのは大きい丹塗りの伽藍である。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門である。これは今度の震災にも幸と無事に焼残つた。今ごろは丹塗りの堂の前にも明るい銀杏の黄葉の中に、不相変鳩が何十羽も大まはりに輪を描いてゐることであらう。

 第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋である。これは悉く焼野原になつた。

 第三に見える浅草はつつましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、蔵前――その外何処でも差支へない。唯雨上りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈だの、花の凋んだ朝顔の鉢だのに「浅草」の作者久保田万太郎君を感じられさへすれば好いのである。これも亦今度の大地震は一望の焦土に変らせてしまつた。

 物心がついてまもなくあの大震災があった。震災は私たち東京人の生活に一時期を画したが、私としても自分の少年の日は震災と共に失われたという感が深い。

 震災後の吉原はまったく昔日の俤を失って、慣例の廃止されることも多く、昔を偲ぶよすがとてはなかった。公園もきれいに地均しをされて、吉原病院の医師や看護婦のテニス場と化してしまった。

1923(大正12)年9月23日

震災により凌雲閣の8階より上が倒壊。

経営難より復旧は難しく、陸軍工兵隊により爆破解体される。

 (震災後、仲見世について)たとえばもとの煉瓦づくりの時分九尺だった間口が今度の奈良朝づくりになってから平均八尺(というのは中には七尺八寸のところもあるのだそうである)になったことや、各戸その一けん/\を一トこま二タこまという呼び方をしていることや、総々でそれが百四十七こま九十九世帯あることや、震災を助かっていまなお以前の「仲見世」の名残をとどめている仁王門のそばの七けんに「新煉瓦」という名称のついていることや、物日なんぞ人の出さかるときは東側にいて西側の店の見えないことや、等、等、等。――まさかいち/\書き留めるわけにも行かないからぼんやりした顔でわたしはそれらを聞いていた。

1923(大正12)年

通俗教育昆虫館は「木馬館」と名を変え、安来節を中心とする演芸場に。

 江戸から東京への移り変りは全く躍進的で、総てが全く隔世の転換をしている。この向島も全く昔の俤は失われて、西洋人が讃美し憧憬する広重の錦絵に見る、隅田の美しい流れも、現実には煤煙に汚れたり、自動車の煽る黄塵に塗れ、殊に震災の蹂躙に全く荒れ果て、隅田の情趣になくてはならない屋形船も乗る人の気分も変り、型も改まって全く昔を偲ぶよすがもない。この屋形船は大名遊びや町人の札差しが招宴に利用したもので、大抵は屋根がなく、一人や二人で乗るのでなくて、中に芸者の二人も混ぜて、近くは牛島、遠くは水神の森に遊興したものである。

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