top of page

浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草の歴史

明治時代中期(1895-1905年)

1895(明治28)年4月

 私は兄に気どられぬ様に、ついて行った訳ですよ。よござんすか。しますとね、兄は上野行きの馬車鉄道を待ち合わせて、ひょいとそれに乗り込んでしまったのです。当今の電車と違って、次の車に乗ってあとをつけるという訳には行きません。何しろ車台が少のござんすからね。私は仕方がないので母親に貰ったお小遣いをふんぱつして、人力車に乗りました。人力車だって、少し威勢のいい挽子なれば馬車鉄道を見失わない様に、あとをつけるなんぞ、訳なかったものでございますよ。

 あなたは、十二階へ御昇りなすったことがおありですか。アア、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。表面は伊太利の技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えて御覧なさい。その頃の浅草公園と云えば、名物が先ず蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽廻しに、覗きからくりなどで、せいぜい変った所が、お富士さまの作り物に、メーズと云って、八陣隠れ杉の見世物位でございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあ飛んでもない高い煉瓦造りの塔が出来ちまったんですから、驚くじゃござんせんか。

 私は十二階へは、父親につれられて、一度昇った切りで、その後行ったことがありませんので、何だか気味が悪い様に思いましたが、兄が昇って行くものですから、仕方がないので、私も、一階位おくれて、あの薄暗い石の段々を昇って行きました。窓も大きくございませんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴蔵の様に冷々と致しましてね。それに日清戦争の当時ですから、その頃は珍らしかった、戦争の油絵が、一方の壁にずっと懸け並べてあります。まるで狼みたいな、おっそろしい顔をして、吠えながら、突貫している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられ、ふき出す血のりを両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている支那兵や、ちょんぎられた辮髪の頭が、風船玉の様に空高く飛上っている所や、何とも云えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線で、テラテラと光っているのでございますよ。その間を、陰気な石の段々が、蝸牛の殻みたいに、上へ上へと際限もなく続いて居ります。本当に変てこれんな気持ちでしたよ。

 頂上は八角形の欄干丈けで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、俄にパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。雲が手の届きそうな低い所にあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいに、ゴチャゴチャしていて、品川の御台場が、盆石の様に見えて居ります。目まいがしそうなのを我慢して、下を覗きますと、観音様の御堂だってずっと低い所にありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃの様で、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。

1898(明治29)年頃

 そのころ仲見世に勧工場があって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの写真は、私が未だ郷里にいたとき、小学校の校長が東京土産に買って来て児童に見せ見せしたものであるから、私は小遣銭が溜まると此処に来てその英雄の写真を買いあつめた。

 そういう英雄豪傑の写真に交って、ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃く影っているのもあった。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽん太はそのころ天下の名妓として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということで切りに噂に上った頃の話である。

 そのころ東京には火事がしばしばあって、今のように蒸気ポンプの音を聞いて火事を想像するのとは違い、三つ番でも鳴るときなどは、家のまえを走ってゆく群衆の数だけでもたいしたものであった。
 私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干台から瓦を伝わり其処の屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。

 そういう具合にして私は吉原の大火も、本郷の大火も見た。吉原には大きい火事が数回あったので、その時から殆ど四十年を過ぎようとしている今日でも、紅い火焔と、天を焦がして一方へ靡いて行く煙とを目前におもい浮べることが出来るほどである。時には書生や代診や女中なども交って見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人の叫びごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。そのうち火勢が段々衰えて来て、たちのぼる煙の範囲も狭くなるころ、「もうおしまいだ」などといって書生らは屋根から降りて行っても私はしまいまで降りずにいたものである。こういう光景は、私の子どもらはもう知ることが出来ない。

1897(明治30)年3月20日

​東京馬車鉄道、合羽橋経由の上野 - 雷門間が単線開業。菊屋橋経由と合わせて複線化。合羽橋経由は雷門方面の、菊屋橋経由は上野方面の一方通行となる。全線開業。

 東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇の小さな媼であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚だの、信田の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐などは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音に詣ずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時ごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継もいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。

 鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車の出来るまで続いたわけである。電車の出来たてに犬が轢かれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんな際どい事故は起らぬのであった。

1899(明治32)年10月15日

​日本初の私設水族館「浅草公園水族館(通称、浅草水族館)」開業。

 そこには仕出屋の吉見屋あっていまだに「本願寺御用」の看板をかけている、薬種屋の赫然堂あっていまになおあたまのはげた主人がつねに薬をねっている。餅屋の太田屋あってむかしながらのふとった内儀さんがいつもたすきがけのがせいな恰好をみせている。――宿屋のふじや、やなぎや、鳥屋の鳥長、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅の亀井堂、軽焼のむさしや。――それらの店々はわたしが小学校へ通っていた時分と同じとりなしでいまなおわたしをつつましく迎えてくれるのである。――それらの店々のまえを過ぎるとき、いまもってわたしは、かすりの筒っぽに紫めりんすの兵児帯、おこそ頭巾をかぶった祖母に手をひかれてあるいていたそのころのわたしの姿をさびしく思い起すのである。――それは北風の身を切るような夕方で、暗くなりそめた中にどこにももう灯火がちらちらしているのである。――眼を上げるとそこに本願寺の破風が暮残ったあかるい空を遠く涙ぐましくくぎっているのである。……

――後にそのならびに出来た洋食屋の「比良恵軒」、九尺間口の、寄席の下の洋食屋同然に汚かったその店は、中学の制服を着立てのわたしに、「カツ」だの「テキ」だの「カレエ」だのと称するものの「やっこ」のいかだ「中清」のかき揚以上に珍味なことをはじめて教えてくれた店である。――その時分、浅草には、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭」以外西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにも見出すことが出来なかったのである。

​鳩ぽっぽ、 鳩ぽっぽ。

ぽっぽぽっぽと、 飛んで来い。

お寺の屋根から、 下りて来い。

豆をやるから、 みなたべよ。

たべてもすぐに、 かへらずに。

​ぽっぽぽっぽと、 鳴いて遊べ。

1903(明治36)年

東京馬車鉄道は東京電車鉄道へ社名変更。品川 - 新橋間で東京初の路面電車の営業を開始。同年中に、馬車鉄道から路面電車への切り替えを完了。


1903(明治36年)年10月1日

日本で初めての常設活動専門館「電気館(後に浅草電気館)」開設。当時の活動写真の上映は移動上映が中心であり、常設活動館は初。演劇等を交えない、映画の専門館であった。

「電気館」の名前は、同地にあったエックス線実験の見世物小屋「電友館」を改称したもの。

1904(明治37)年2月8日-1905(明治38)年9月5日

日露戦争​

1905(明治38)年9月5日

日比谷焼打事件

日比谷公園にて、講和条約反対を唱える民衆による決起集会。暴徒化した民衆により焼打事件が引き起こされる。

 到り観れば、話しに勝る大繁昌にて、池の周囲には、立錐の余地だに無く、黒山の人垣を築けり。常には、見世物場の間に散在して営業する所の「引懸釣」、それさへ見物人は、店内に充溢するに、増して、昨日一昨日までは礫一つ打つことならざしり泉水の、尺余の鯉を、思ふまゝに釣り勝ち取り勝ちし得べき、公開?釣堀と変りたることなれは、数百の釣手、数千の見物の、蟻集麕至せしも、素より無理ならぬことにて、たゞ、盛なりといふべき光景なるに呆れたり。

bottom of page