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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

奥山 - 「​諸国の玩具 --浅草奥山の草分--」 淡島寒月 1909(明治42)年6月

奇人連中の寄合ですから、その頃随分面白い遊びをやったもので、山門で茶の湯をやったり、志道軒の持っていた木製の男根が伝っていたものですから、志道軒のやったように、辻講釈をやろうなどの議があったが、これはやらなかった。また椿岳は油絵なども描いた人で、明治初年の大ハイカラでした。それ

浅草田圃・奥山・ひょうたん池 - 「​諸国の玩具 --浅草奥山の草分--」 淡島寒月 1909(明治42)年6月

当時奥山の住人というと奇人ばかりで、今立派な共同便所のある処辺に、伊井蓉峰のお父さんの、例のヘベライといった北庭筑波がいました。ヘベライというのは、ヘンホーライを通り越したというのでヘベライと自ら号し、人はヘベさん/\といってました。それから水族館の辺に下岡蓮杖さん、その先に鏑

奥山・伝法院・見世物 - 「​諸国の玩具 --浅草奥山の草分--」 淡島寒月 1909(明治42)年6月

奥山見世物の開山は椿岳で、明治四、五年の頃、伝法院の庭で、土州山内容堂公の持っていられた眼鏡で、普仏戦争の五十枚続きの油画を覗かしたのでした。看板は油絵で椿岳が描いたのでして、確かその内三枚ばかり、今でも下岡蓮杖さんが持っています。その覗眼鏡の中でナポレオン三世が、ローマのバチ

奥山・見世物・鳩 - 「​諸国の玩具 --浅草奥山の草分--」 淡島寒月 1909(明治42)年6月

僕の子供の頃の浅草の奥山の有様を考えると、暫くの間に変ったものです。奥山は僕の父椿岳さんが開いたのですが、こんな事がありましたっけ。確かチャリネの前かスリエという曲馬が——明治五年でしたか——興行された時に、何でもジョーワニという大砲を担いで、空砲を打つという曲芸がありまして、

玩具・仲見世 - 「​諸国の玩具 --浅草奥山の草分--」 淡島寒月 1909(明治42)年6月

それからこの間仲見世で、長方形の木箱の蓋が、半ば引開になって、蓋の上には鼠がいて、開けると猫が追っかけて来るようになっている玩具を売ってますのを見たが、これは僕の子供の時分に随分流行って、その後廃たれていたのが、この頃またまた復活して来たのですな。今は到底売れないが昔亀戸の「ツ

浅草オペラ・レビュー - 「​野人生計事」 芥川龍之介 1924(大正13)年1月

僕も亦或晩春の午後、或オペラの楽屋の廊下に彼等の一群を見たことがある。彼等は佐藤君の書いたやうに、ぞろぞろ廻り梯子を下つて行つた。薔薇色の翼、金色の弓、それから薄い水色の衣裳、――かう云ふ色彩を煙らせた、もの憂いパステルの心もちも佐藤君の散文の通りである。僕はマネジヤアのN君と

浅草六区・活動写真・連鎖劇 - 「​野人生計事」 芥川龍之介 1924(大正13)年1月

更にずつと近い頃の記憶はカリガリ博士のフイルムである。(僕はあのフイルムの動いてゐるうちに、僕の持つてゐたステツキの柄へかすかに糸を張り渡す一匹の蜘蛛を発見した。この蜘蛛は表現派のフイルムよりも、数等僕には気味の悪い印象を与へた覚えがある。)さもなければロシアの女曲馬師である。

浅草水族館・浅草六区 - 「​野人生計事」 芥川龍之介 1924(大正13)年1月

第二の浅草の記憶は沢山ある。その最も古いものは砂文字の婆さんの記憶かも知れない。婆さんはいつも五色の砂に白井権八や小紫を描いた。砂の色は妙に曇つてゐたから、白井権八や小紫もやはりもの寂びた姿をしてゐた。それから長井兵助と称した。蝦蟇の脂を売る居合抜きである。あの長い刀をかけた、

「浅草とは?」・見世物・鳩・関東大震災 - 「​野人生計事」 芥川龍之介 1924(大正13)年1月

浅草といふ言葉は複雑である。たとへば芝とか麻布とかいふ言葉は一つの観念を与へるのに過ぎない。しかし浅草といふ言葉は少くとも僕には三通りの観念を与へる言葉である。  第一に浅草といひさへすれば僕の目の前に現れるのは大きい丹塗りの伽藍である。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門

浅草六区 - 「​一夕話」 芥川龍之介 1922(大正11)年6月

「和田の乗ったのは白い木馬、僕の乗ったのは赤い木馬なんだが、楽隊と一しょにまわり出された時には、どうなる事かと思ったね。尻は躍るし、目はまわるし、振り落されないだけが見っけものなんだ。が、その中でも目についたのは、欄干の外の見物の間に、芸者らしい女が交っている。色の蒼白い、目の

浅草六区 - 「​一夕話」 芥川龍之介 1922(大正11)年6月

「あれは先月の幾日だったかな?何でも月曜か火曜だったがね。久しぶりに和田と顔を合せると、浅草へ行こうというじゃないか?浅草はあんまりぞっとしないが、親愛なる旧友のいう事だから、僕も素直に賛成してさ。真っ昼間六区へ出かけたんだ。――」 「すると活動写真の中にでもい合せたのか?」

隅田川・大川・花見・屋形船 - 「​ひょっとこ」 芥川龍之介 1914(大正3)年12月

すると、そこへ橋をくぐって、また船が一艘出て来た。やはりさっきから何艘も通ったような、お花見の伝馬である。紅白の幕に同じ紅白の吹流しを立てて、赤く桜を染めぬいたお揃いの手拭で、鉢巻きをした船頭が二三人櫓と棹とで、代る代る漕いでいる。それでも船足は余り早くない。幕のかげから見...

川蒸気・一銭蒸気(ポンポン船)・隅田川・大川・花見 - 「​ひょっとこ」 芥川龍之介 1914(大正3)年12月

橋の上から見ると、川は亜鉛板のように、白く日を反射して、時々、通りすぎる川蒸汽がその上に眩しい横波の鍍金をかけている。そうして、その滑な水面を、陽気な太鼓の音、笛の音、三味線の音が虱のようにむず痒く刺している。札幌ビールの煉瓦壁のつきる所から、土手の上をずっと向うまで、煤けた、

吾妻橋・隅田川・大川・花見 - 「​ひょっとこ」 芥川龍之介 1914(大正3)年12月

船は川下から、一二艘ずつ、引き潮の川を上って来る。大抵は伝馬に帆木綿の天井を張って、そのまわりに紅白のだんだらの幕をさげている。そして、舳には、旗を立てたり古風な幟を立てたりしている。中にいる人間は、皆酔っているらしい。幕の間から、お揃いの手拭を、吉原かぶりにしたり、米屋かぶり

隅田川・大川 - 「​大川の水」 芥川龍之介 1912(明治45)年1月

もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのになんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水のひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆえに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆ

隅田川・大川 - 「​大川の水」 芥川龍之介 1912(明治45)年1月

吾妻橋、厩橋、両国橋の間、香油のような青い水が、大きな橋台の花崗石とれんがとをひたしてゆくうれしさは言うまでもない。岸に近く、船宿の白い行灯をうつし、銀の葉うらを翻す柳をうつし、また水門にせかれては三味線の音のぬるむ昼すぎを、紅芙蓉の花になげきながら、気のよわい家鴨の羽にみださ

隅田川・大川 - 「​大川の水」 芥川龍之介 1912(明治45)年1月

ことに大川は、赭ちゃけた粘土の多い関東平野を行きつくして、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、その濁って、皺をよせて、気むずかしいユダヤの老爺のように、ぶつぶつ口小言を言う水の色が、いかにも落ついた、人なつかしい、手ざわりのいい感じを持っている。そうして、同じく市の中

隅田川・大川・隅田川の渡し - 「​大川の水」 芥川龍之介 1912(明治45)年1月

自分はよく、なんの用もないのに、この渡し船に乗った。水の動くのにつれて、揺籃のように軽く体をゆすられるここちよさ。ことに時刻がおそければおそいほど、渡し船のさびしさとうれしさとがしみじみと身にしみる。——低い舷の外はすぐに緑色のなめらかな水で、青銅のような鈍い光のある、幅の広い

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