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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

馬車鉄道・路面電車 - 「押絵と旅する男」 江戸川乱歩 1929(昭和4)年6月

その頃兄の工風で仕立てさせた、当時としては飛び切りハイカラな、黒天鵞絨の洋服を着ましてね、この遠眼鏡を肩から下げ、ヒョロヒョロと、日本橋通りの、馬車鉄道の方へ歩いて行くのです。私は兄に気どられぬ様に、ついて行った訳ですよ。よござんすか。しますとね、兄は上野行きの馬車鉄道を待ち合

「浅草とは?」・凌雲閣(浅草十二階) - 「押絵と旅する男」 江戸川乱歩 1929(昭和4)年6月

あなたは、十二階へ御昇りなすったことがおありですか。アア、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。表面は伊太利の技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えて御覧...

浅草六区・ひょうたん池・活動写真・連鎖劇 - 「モノグラム」 江戸川乱歩 1926(大正15)年6月

ある日のこと、私はそれらのベンチの一つに腰をおろして、いつもの通りぼんやり物思いに耽っていました。丁度春なんです。桜はもう過ぎていましたが、池を越して向うの活動小屋の方は、大変な人出で、ドーッという物音、楽隊、それに交っておもちゃの風船玉の笛の音だとか、アイスクリーム屋の呼び声

「浅草とは?」・ひょうたん池 - 「モノグラム」 江戸川乱歩 1926(大正15)年6月

私はよく浅草公園へ出掛けて、所在のない時間をつぶしたものです。  いますね、あすこには。公園といっても六区の見世物小屋の方でなく、池から南の林になった、共同ベンチの沢山並んでいる方ですよ。あの風雨にさらされて、ペンキがはげ、白っぽくなったベンチに、又は捨て石や木の株などに、丁度

関東大震災・仲見世 - 「棺桶の花嫁」 海野十三 1937(昭和12)年1-3月

二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった。仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや小暗い蝋燭を点して露店が出ていた。芋を売る店、焼けた缶詰を山のように積んでいる店、西瓜を十個ほど並べて、それを輪切り

吾妻橋・関東大震災 - 「棺桶の花嫁」 海野十三 1937(昭和12)年1-3月

所は焼け落ちた吾妻橋の上だった。  まるで轢死人の両断した胴中の切れ目と切れ目の間を臓腑がねじれ会いながら橋渡しをしているとでもいいたいほど不様な橋の有様だった。十三日目を迎えたけれど、この不様な有様にはさして変りもなく、只その橋桁の上に狭い板が二本ずっと渡してあって、その上を

浅草絵・浅草人形 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

椿岳の浅草人形というは向島に隠棲してから後、第二博覧会の時、工芸館へ出品した伏見焼のような姉様や七福神の泥人形であって、一個二十五銭の札を附けた数十個が一つ残らず売れてしまった。伏見人形風の彩色の上からニスを塗ったのが如何にも生々しくて、椿岳の作としては余り感服出来ないものであ

浅草絵・浅草人形 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

椿岳のいわゆる浅草絵というは淡島堂のお堂守をしていた頃の徒然のすさびで、大津絵風の泥画である。多分又平の風流に倣ったのであろう。十二枚袋入がたった一朱であった。袋の文字は大河内侯の揮毫を当時の浅草区長の町田今輔が雕板したものだそうだ。慾も得もない書放しで、微塵も匠気がないのが好

見世物 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

維新の破壊の手は一番遅れて浅草に及んだので、明治十四、五年ごろまでは江戸の気分がマダ浅草には漂っていた。一つは椿岳や下岡蓮杖や鵜飼三次というような江戸の遺老が不思議に寺内に集って盛んに江戸趣味を発揮したからであった。この鵜飼三次というは学問の造詣も深く鑑識にも長じ、蓮杖などより

宝蔵門(仁王門) - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

椿岳の山門生活も有名な咄である。覗目鏡を初める時分であった。椿岳は何処にもいる処がないので、目鏡の工事の監督かたがた伝法院の許しを得て山門に住い、昔から山門に住ったものは石川五右衛門と俺の外にはあるまいと頗る得意になっていた。或人が、さぞ不自由でしょうと訊いたら、何にも不自由は

吉原遊郭(新吉原) - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

明治四、五年頃、ピヤノやヴァイオリンが初めて横浜へ入荷した時、新らし物好きの椿岳は早速買込んで神田今川橋の或る貸席で西洋音楽機械展覧会を開いた。今聞くと極めて珍妙な名称であるが、その頃は頗るハイカラに響いたので、当日はいわゆる文明開化の新らしがりがギシと詰掛けた。この満場爪も立

淡島堂 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

この淡島堂のお堂守時代が椿岳本来の面目を思う存分に発揮したので、奇名が忽ち都下に喧伝した。当時朝から晩まで代る代るに訪ずれるのは類は友の変物奇物ばかりで、共に画を描き骨董を品して遊んでばかりいた。大河内子爵の先代や下岡蓮杖や仮名垣魯文はその頃の重なる常連であった。参詣人が来ると

淡島堂 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

明治七、八年頃、浅草の寺内が公園となって改修された。椿岳の住っていた伝法院の隣地は取上げられて代地を下附されたが、代地が気に入らなくて俺のいる所がなくなってしまったと苦情をいった。伝法院の唯我教信が調戯半分に「淡島椿岳だから寧そ淡島堂に住ったらどうだ?」というと、洒落気と茶番気

伝法院・見世物 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

その頃椿岳はモウ世間の名利を思切った顔をしていたが、油会所の手代時代の算盤気分がマダ抜けなかったと見えて、世間を驚かしてやろうという道楽五分に慾得五分の算盤玉を弾き込んで一と山当てるツモリの商売気が十分あった。その頃どこかの気紛れの外国人がジオラマの古物を横浜に持って来たのを椿

伝法院 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

椿岳の浅草生活は維新後から明治十二、三年頃までであった。この時代が椿岳の最も奇を吐いた盛りであった。  伊藤八兵衛と手を分ったのは維新早々であったが、その頃は伊藤もまだ盛んであったから椿岳の財嚢もまたかなり豊からしかった。浅草の伝法院へ度々融通したのが縁となって、その頃の伝法院

浅草寺歳の市 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

喜兵衛は狂歌の才をも商売に利用するに抜目がなかった。毎年の浅草の年の市(暮の十七、八の両日)には暮の餅搗に使用する団扇を軽焼の景物として出したが、この団扇に「景物にふくの団扇を奉る、おまめで年の市のおみやげ」という自作の狂歌を摺込んだ。この狂歌が呼び物となって、誰言うとなく淡島

浅草寺(浅草観音) - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

喜兵衛の商才は淡島屋の名を広めるに少しも油断がなかった。その頃は神仏参詣が唯一の遊山であって、流行の神仏は参詣人が群集したもんだ。今と違って遊山半分でもマジメな信心気も相応にあったから、必ず先ず御手洗で手を清めてから参詣するのが作法であった。随って手洗い所が一番群集するので、喜

浅草寺(浅草観音) - 「妖術」 泉鏡花 1911(明治44)年2月

「更めて、一杯、お知己に差上げましょう。」 「極が悪うござんすね。」 「何の。そうしたお前さんか。」  と膝をぐったり、と頭を振って、 「失礼ですが、お住所は?」 「は、提灯よ。」  と目許の微笑。丁と、手にした猪口を落すように置くと、手巾ではっと口を押えて、自分でも可笑か...

浅草寺(浅草観音)・鳩 - 「妖術」 泉鏡花 1911(明治44)年2月

パッパッと田舎の親仁が、掌へ吸殻を転がして、煙管にズーズーと脂の音。くく、とどこかで鳩の声。茜の姉も三四人、鬱金の婆様に、菜畠の阿媽も交って、どれも口を開けていた。  が、あ、と押魂消て、ばらりと退くと、そこの横手の開戸口から、艶麗なのが、すうと出た。  本堂へ詣ったのが、一廻

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