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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

浅草寺(浅草観音)・宝蔵門(仁王門) - 「妖術」 泉鏡花 1911(明治44)年2月

大提灯にはたはたと翼の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠る廂から、鳩が二三羽、衝と出て飜々と、早や晴れかかる銀杏の梢を矢大臣門の屋根へ飛んだ。  胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆の前を、内端な足取り、裳を細く、蛇目傘をやや前下りに、すらすらと撫肩の細いは……確に。

浅草寺(浅草観音) - 「妖術」 泉鏡花 1911(明治44)年2月

早いもので、もう番傘の懐手、高足駄で悠々と歩行くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々な処へ、これから奥は、御堂の背後、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯な、相合傘に後れは取らぬ、と肩の聳ゆるまで一人で気競うと、雨も霞んで、ヒヤヒヤと頬に触る。

宝蔵門(仁王門) - 「妖術」 泉鏡花 1911(明治44)年2月

門の下で、後を振返って見た時は、何店へか寄ったか、傍へ外れたか。仲見世の人通りは雨の朧に、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。  それきり逢わぬ、とは心の裡に思わないながら、一帆は急に寂しくなった。  妙に心も更まって、しばらく何事も忘れて、御堂の階段を……あの

仲見世 - 「妖術」 泉鏡花 1911(明治44)年2月

ちょっと隠れた状に、一帆の方へ蛇目傘ながら細りした背を見せて、そこの絵草紙屋の店を覗めた。けばけばしく彩った種々の千代紙が、染むがごとく雨に縺れて、中でも紅が来て、女の瞼をほんのりとさせたのである。  今度は、一帆の方がその傍へ寄るようにして、 「どっちへいらっしゃる。」 「私

仲見世 - 「妖術」 泉鏡花 1911(明治44)年2月

鼠の鍔をぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここを的に来たように、素直に広小路を切って、仁王門を真正面。  濡れても判明と白い、処々むらむらと斑が立って、雨の色が、花簪、箱狭子、輪珠数などが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にか

馬車鉄道・路面電車 - 「妖術」 泉鏡花 1911(明治44)年2月

やがて、心着くと標示は萌黄で、この電車は浅草行。  一帆がその住居へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。  もっとも、わざととはなしに、一帳場ごとに気を注けたが、女の下りた様子はない...

雷門 - 「妖術」 泉鏡花

さあ、浅草へ行くと、雷門が、鳴出したほどなその騒動。  どさどさ打まけるように雪崩れて総立ちに電車を出る、乗合のあわただしさより、仲見世は、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女の姿。  風立つ中を群って、颯と大幅に境内から、広小路へ散りかかる。  きちがい日和の

淡島堂 - 「東京市騒擾中の釣」 石井研堂 1906(明治39)年12月

たとひ自らは、竿を執らざるにせよ、快き気もせざれば、間もなく此処を去りしが、観音堂手前に到りて、亦一の狼籍たる様を目撃せり。即ち、淡島さま前なる小池は、田圃に於ける掻堀同様、泥まみれの老若入り乱れてこね廻し居けり。されば、常に、水の面、石の上に、群を成して遊べる放生の石亀は、絶

ひょうたん池 - 「東京市騒擾中の釣」 石井研堂 1906(明治39)年12月

六日の夜は、流言の如く、又焼打の騒ぎあり、翌七日には、市内全く無警察の象を現はしけるが、浅草公園の池にては、咎むる者の無きを機とし、鯉釣大繁昌との報を得たり。釣道の記念に、一見せざるべからずとなし、昼飯後直ちに、入谷光月町を通り、十二階下より、公園第六区の池の端に、漫歩遊観...

隅田川・大川・屋形船 - 「亡び行く江戸趣味」 淡島寒月 1925(大正14)年8月24日-26日

江戸から東京への移り変りは全く躍進的で、総てが全く隔世の転換をしている。この向島も全く昔の俤は失われて、西洋人が讃美し憧憬する広重の錦絵に見る、隅田の美しい流れも、現実には煤煙に汚れたり、自動車の煽る黄塵に塗れ、殊に震災の蹂躙に全く荒れ果て、隅田の情趣になくてはならない屋形船も

「浅草とは?」・向島 - 「亡び行く江戸趣味」 淡島寒月 1925(大正14)年8月24日-26日

向島は桜というよりもむしろ雪とか月とかで優れて面白く、三囲の雁木に船を繋いで、秋の紅葉を探勝することは特によろこばれていた。季節々々には船が輻輳するので、遠い向う岸の松山に待っていて、こっちから竹屋! と大声でよぶと、おうと答えて、お茶などを用意してギッシギッシ漕いで来る情景は

金瓶大黒 - 「亡び行く江戸趣味」 淡島寒月 1925(大正14)年8月24日-26日

そんな具合でランプを使用する家とては、ほんの油町に一軒、人形町に一軒、日本橋に一軒という稀なものであったが、それが瓦斯燈に変り、電燈に移って今日では五十燭光でもまだ暗いというような時代になって、ランプさえもよほどの山間僻地でも全く見られない、時世の飛躍的な推移は驚愕の外はない。

淡島堂 - 「寺内の奇人団」 淡島寒月 1912(明治45)年4月

ところで父は変人ですから、人に勧められるままに、御経も碌々読めない癖に、淡島堂の堂守となりました。それで堂守には、坊主の方がいいといって、頭をクリクリ坊主にした事がありました。ところで有難い事に、淡島堂に参詣の方は、この坊主がお経を出鱈目によむのを御存知なく、椿岳さんになってか

浅草田圃・鎮護堂の狸・伝法院 - 「寺内の奇人団」 淡島寒月 1912(明治45)年4月

ただ今の六区辺は淋しい処で、田だの森だのがありました。それを開いたのは、大橋門蔵という百姓でした。森の木を伐ったり、叢を刈ったりしたので、隠れ家を奪われたと見えて、幾匹かの狸が伝法院の院代をしている人の家の縁の下に隠れて、そろそろ持前の悪戯を始めました。ちょっと申せば、天井から

見世物・鳩 - 「寺内の奇人団」 淡島寒月 1912(明治45)年4月

曲馬が東京に来た初めでしょう。仏蘭西人のスリエというのが、天幕を張って寺内で興行しました。曲馬の馬で非常にいいのを沢山外国から連れて来たもので、私などは毎日のように出掛けて、それを見せてもらいました。この連中に、英国生れの力持がいて、一人で大砲のようなものを担ぎあげ、毎日ドンド

見世物 - 「寺内の奇人団」 淡島寒月 1912(明治45)年4月

久里浜で外国船が来たのを、十里離れて遠眼鏡で見て、それを注進したという、あの名高い、下岡蓮杖さんが、やはり寺内で函館戦争、台湾戦争の絵をかいて見せました。これは今でも九段の遊就館にあります。この他、浅草で始めて電気の見世物をかけたのは広瀬じゅこくさんで、太鼓に指をふれると、それ

ひょうたん池・見世物 - 「寺内の奇人団」 淡島寒月 1912(明治45)年4月

それから父は瓢箪池の傍で万国一覧という覗眼鏡を拵えて見世物を開きました。眼鏡の覗口は軍艦の窓のようで、中には普仏戦争とか、グリーンランドの熊狩とか、そんな風な絵を沢山に入れて、暗くすると夜景となる趣向をしましたが、余り繁昌したので面倒になり知人ででもなければ滅多にこの夜景と早替

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