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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

浅草六区 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

雁であった。――空飛ぶ雁をゴミのようだったと私が言うのを、読者はあるいは私の下手な作り話、大げさな言い方と笑いはせぬかと、私は恐れる。そうした誤解を解くためには、私が見た実際の光景を読者に見て貰うよりおそらく他に手がなく、そしてそんなことは願っても不可能なことであるのはなんとも

「浅草とは?」 - 「乞はない乞食」 添田唖蝉坊 1930(昭和5)年10月

「そんなに喜んぢゃいけない、笑ひ事じゃアない。みんなつまらない事なら喜んでるから困るねえ。小説だの講談だのでも、樋口苦安だの、三日目落吉なンて、飴に黒砂糖なすったやうな、ベトベトねつッこいのを嬉しがってるんだからねぇ。世の中の行進は、科学的に小細工を積み重ねてゆくんだから、みん

仲見世 - 「乞はない乞食」 添田唖蝉坊 1930(昭和5)年10月

明るい仲見世の人の急流の中を、八十八ヵ所廻りの判をペタペタ押した白衣を着て、子供を連れて歩く跛の女乞食、永年の間、吾妻橋の上に坐って、赤ン坊を泣かしてゐた乞食であるが、近来は衣裳を替へて、仲見世の眩ゆい電光の中に進出してきた。...

浅草寺(浅草観音) - 「乞はない乞食」 添田唖蝉坊 1930(昭和5)年10月

観音さまの周りの雑沓の中を、文字通り蓬頭垢面、ボロを引き摺った男が、何か分らぬことを口の中でモヅモヅ呟きながら、ノロノロと歩き廻ってゐる。  彼はしゃべってゐる。動いてゐる。と、群集の中から一人が急いで彼の手に白銅を一つ乗せてやる。すると、後から後から、あはて者が蟇口を開いて

見世物 - 「乞はない乞食」 添田唖蝉坊 1930(昭和5)年10月

時代遅れの風琴を鳴らす老人――。痩せた五十ぐらいの、ボロマントを着てゐる。彼はいつも区役所通りの下総屋の前の電柱の根ッこにあぐらをかいてゐた。そして古風琴の蛇腹を伸ばしたり、縮めたりしながら、唄をうたふのであるが、そのうたひ方が頗る人を食ったものだ。 「オレは河原の枯れすすき、

「浅草とは?」・見世物 - 「乞はない乞食」 添田唖蝉坊 1930(昭和5)年10月

浅草に現はれる乞食は、みなそれぞれに風格を具へてゐるので愉快である。乞食といふ称呼をもってする事は、この諸君に対してはソグハないやうな気がするくらいだ。いかにこれらの諸君が人生の芸術家であるか、また、浅草を彩るカビの華であるかといふことについて語らう。  浅草といふ舞台には、

吉原遊郭(新吉原) - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

――さて江戸芸者の濫觴は、宝暦年中、吉原の遊女扇屋歌扇というが、年あけ後に廓内で客の酒席に侍り、琴三味線を弾きもて酔興をたすけたに因みし、それより下っては明和安永の頃からである。当時の吉原細見に、「芸者何誰外へも出し申候」とあるのに見ても、それは明らかだ。  但し、これまでの

浅草寺歳の市 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

深川八幡に始まって、浅草観音、神田明神、芝の愛宕、平河天神などを歳の市の数え場所とし、他は西両国の広小路、銀座通り、四谷伝馬町、赤坂一ッ木など、最寄りもよりになお幾つもある。  就中観音の市では羽子板の本相場がきまり、明神の市では門松の値が一定する。その他愛宕の市で福寿草の相

浅草田圃・長國寺・鷲神社・浅草酉の市 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

酉の市は取りの市、掃き米はき込めの慾の皮がつッ張った連中の、年々の福を祝うてウンと金が儲かるようと、それさに肩摩轂撃、押すなおすなの雑沓を現ずるのだが、何がさて、大慾は無慾に近く、とりにゆくのはとられにゆくので、鷲神社には初穂をとられ、熊手屋には見すみす高いものを負けろとあって

絵はがき・吉原遊郭(新吉原) - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

都は夜の巷に細見売りの姿を見ること、今はほとほと少うなった。たとえば月待つほどの星の宵に、街灯の光りほの暗い横丁をゆく時、「新吉原ァ細見。華魁のゥ歳からァ源氏名ァ本名ゥ職順まで、残らずゥわかる細見はァいかが――」  その声を最も多く耳にしたは浅草の千束町から竜泉寺筋、余は浅草の

本龍院(待乳山聖天) - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

二十六夜の月待ちは、鬼ひしぐ弁慶も稚児姿の若ければ恋におちて、上使の席に苦しい思いの種子を蒔く、若木の蕾は誘う風さえあれば何時でも綻びるものよ、須磨寺の夜は知らずもあれ、この夜芝浦、愛宕山、九段上、駿河台、上野は桜ヶ岡、待乳山、洲崎なんど、いずれ月見には恰好の場所に宵より待ちあ

浅草広小路・屋台・夜店 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

縁日趣味、露店趣味は江戸ッ児にして初めてこれを完全に解し得るもの。月の三十日が間、唯の一日都大路の何処にも縁日がないという晩はなく、苟も天気模様さえよければ、からッ風の吹く寒い夜でも、植木屋が出て、飴屋が出て、玩具屋が出て、そして金物屋、小間物屋、絵草紙屋、煎豆屋、おでん屋、毛

浅草の食・今戸橋・山谷堀 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

川びらきの夜に始まりて、大川筋の夕涼み、夏の隅田川はまた一しきり船と人に賑わうをつねとする。  土用に入っての夏の食いものに、鰻と蜆とは江戸ッ児の真先に計えあげる一つで、つづいては泥鰌、浅蜊のたぐいである。  鰻は何よりも蒲焼を最とし、重箱、神田川、竹葉、丹波屋、大和田、伊豆

隅田川・大川・屋形船 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

川びらきの夜に始まりて、大川筋の夕涼み、夏の隅田川はまた一しきり船と人に賑わうをつねとする。  疇昔は簾かかげた屋形船に御守殿姿具しての夕涼み、江上の清風と身辺の美女と、飛仙を挟んで悠遊した蘇子の逸楽を、グッと砕いて世話でいったも多く、柳橋から枕橋、更には水神の杜あたりまでも

浅草の食・今戸橋・山谷堀 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

浅草詣での帰るさ、界隈の料理では腹の虫が承知せぬちょう食道楽の一人、さるは八百善にてと態々歩を抂げ、座敷へ通っての注文に「何かさっぱりしたもので茶漬を!」との申しつけ、やがて出されたは黒塗りの見事な膳部に誂えの品々、別に鉢植えの茄子に花鋏一挺が添えてある。  食道楽近頃の希望

「浅草とは?」 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

浅草趣味は老若男女貴賤のいずれとも一致する、したがって種々に解釈され、様々に説明される。  少年少女の眼には仲見世と奥山と六区とにかれらの趣味を探ぬべく、すなわち彼処にはおもちゃ屋と花やしきと見世物とがある。青年男女には粂の平内と六地蔵と観音裏とにその趣味を見出すべく、すな...

向島 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

歌書には井出の玉川をその随一とするよう記されてはあるが、さて今はさる名所も探ぬるに影さえ残らず、あわれ名所の花一つを旧蹟もなくして果てようとしたを向島なる百花園の主人、故事をたずね、旧記をあさって、此処彼処からあつめきた山吹幾株、園のよき地を択りに択って、移し植えたるが一両年こ

隅田川の渡し - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

しかし、隅田の渡しで古いのは浜町三丁目から向河岸への安宅の渡し、矢の倉と一ノ橋際間の千歳の渡し、須賀町から横網への御蔵の渡し、待乳山下から向島への竹屋の渡し、橋場、寺島村間の白髭の渡し、橋場、隅田村間の水神の渡し、南千住から綾瀬への汐入りの渡しなぞで、その最も古い歴史を有すのは

奥山 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

藪入と閻魔とは正月と盆とに年二度の物日である。この日奉公人は主家より一日の暇を与えられて、己がじし思う方に遊び暮らすのである。かれらの多くはこの安息日を或は芝居に、或は寄席に、そのほか浅草の六区奥山、上野にも行けば、芝浦にも赴き、どこということなしに遊びまわって、再び主家の閾を

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