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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

隅田川・大川 - 「東京短信」 小熊秀雄 1935(昭和10)年

隅田河  隅田河  腐臭は  水面をただよひ  罐詰のカン、  赤い鼻緒の下駄、  板つきれ、  ぐるりばかりになつた麦藁帽  青い瓶、  などがポカンポカンと浮いてくる  市民の生活の断片と  人間の哀しい運命の破片  波は河岸を  汚れた舌のやうに  ひたびたと舐めてゆく

奥山・見世物 - 「虎」 岡本綺堂 1937(昭和12)年12月

両国と奥山は定打で、ほとんど一年じゅう休みなしに興行を続けているのだから、いつも、同じ物を観せてはいられない。観客を倦きさせないように、時々には観世物の種を変えなければならない。この前に蛇使いを見せたらば、今度は奚隹娘をみせる。この前に一本足をみせたらば、今度は一つ目小僧を見せ

奥山・見世物 - 「虎」 岡本綺堂 1937(昭和12)年12月

これは嘉永四年の話だと思ってもらいたい。君たちも知っているだろうが、江戸時代には観世物がひどく流行った。東西の両国、浅草の奥山をはじめとして、神社仏閣の境内や、祭礼、縁日の場所には、必ず何かの観世物が出る。もちろん今日の言葉でいえばインチキの代物が多いのだが、だまされると知りつ

浅草花やしき(花屋敷) - 「虎」 岡本綺堂 1937(昭和12)年12月

「これが明治時代ならば、浅草の花屋敷にも虎はいる。だが、江戸時代となると、虎の姿はどこにも見付からない。有名な岸駒の虎だって画で見るばかりだ。芝居には国姓爺の虎狩もあるが、これも縫いぐるみをかぶった人間で、ほん物の虎とは縁が遠い。そんなわけだから、世界を江戸に取って虎の話をし

江戸三座・猿若町・宮戸座・小芝居 - 「源之助の一生」 岡本綺堂 1936(昭和11)年7月

明治二十九年の十一月に彼は帰京した。最初は市村座に出勤し、次に歌舞伎座や明治座にも出勤したが、とかく一つ所に落付かないで、浅草公園の宮戸座等にもしばしば出勤していたので、自ずと自分の箔を落してなんだか大歌舞伎の俳優ではないように認められるようになった。大阪における五、六年間の舞

江戸三座・猿若町 - 「源之助の一生」 岡本綺堂 1936(昭和11)年7月

二十三年の七月、市村座――その頃はまだ猿若町にあった――で黙阿弥作の『嶋鵆月白浪』を上演した。新富座の初演以来、二回目の上演である。菊五郎の嶋蔵、左団次の千太は初演の通りで、団十郎欠勤のために、望月輝の役は菊五郎が兼ねていた。ただひとり初演と違っているのは源之助の「弁天おてる」

浅草田圃 - 「源之助の一生」 岡本綺堂 1936(昭和11)年7月

田圃の太夫といわれた沢村源之助も四月二十日を以て世を去った。舞台に於ける経歴は諸新聞雑誌に報道されているから、ここにはいわない。どの人も筆を揃えて、江戸歌舞伎式の俳優の最後の一人であると伝えているが晩年の源之助は寄る年波と共に不遇の位地に置かれて、その本領をあまりに発揮していな

玩具・仲見世 - 「我楽多玩具」 岡本綺堂 1919(大正8)年1月

私は九歳の時に浅草の仲見世で諏訪法性の兜を買ってもらいましたが、錣の毛は白い麻で作られて、私がそれをかぶると背後に垂れた長い毛は地面に引摺る位で、外へ出ると犬が啣えるので困りました。兜の鉢はすべて張子でした。概して玩具に、鉄葉を用いることなく、すべて張子か土か木ですから、玩具の

隅田川・大川・花見 - 「娘」 岡本かの子 1939(昭和14)年1月

室子は、隅田川を横切って河流の速い向島側に近く艇を運んで、桜餅を買って戻る蓑吉を待っていた。  水飴色のうららかな春の日の中に両岸の桜は、貝殻細工のように、公園の両側に掻き付いて、漂白の白さで咲いている。今戸橋の橋梁の下を通して「隅田川十大橋」中の二つ三つが下流に臙脂色に霞んで

隅田川・大川 - 「娘」 岡本かの子 1939(昭和14)年1月

今戸橋、東詰の空の霞の中へ、玉子の黄身をこめたような朝日が、これから燃えようとして、まだ、くぐもっている。その光線が流れを染めた加減か、岸近い水にちろちろ影を浸す桜のいろが、河底の奥深いところに在るように見える。  黄薔薇色に一幅曳いている中流の水靄の中を、鐘ヶ淵へ石炭を運ぶ汽

隅田川・大川 - 「娘」 岡本かの子 1939(昭和14)年1月

窓のカーテンを開ける。  水と花が、一度に眼に映る。隅田川は、いま上げ汐である。それがほぼ八分の満潮であることは「スカールの漕ぎ手」室子には一眼で判る。  対岸の隅田公園の桜は、若木ながら咲き誇っている。室子が、毎年見る墨水の春ではあるが、今年はまた、鮮かだと思う。 浅草文

見世物 - 「鉄の処女」 大倉燁子 1935(昭和10)年2月

観音様の横手の裏通りにはサーカスがかかっていた。その広告びらの前に夫人は立ち止って少時見ていたが、急に入ってみようと云い出した。事件の調査に来たと云うのにどうしたっていうんだろう。私がちょっと返事に躊躇しているのを見ると彼女は誘いかけるように云うのだった。 「面白そうじゃないの

凌雲閣(浅草十二階) - 「押絵と旅する男」 江戸川乱歩 1929(昭和4)年6月

それからと申すもの、兄はこの眼鏡の中の美しい娘が忘れられず、極々内気なひとでしたから、古風な恋わずらいをわずらい始めたのでございます。今のお人はお笑いなさるかも知れませんが、その頃の人間は、誠におっとりしたものでして、行きずりに一目見た女を恋して、わずらいついた男なども多かった

凌雲閣(浅草十二階) - 「押絵と旅する男」 江戸川乱歩 1929(昭和4)年6月

頂上は八角形の欄干丈けで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、俄にパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。雲が手の届きそうな低い所にあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいに、ゴチャゴチャしていて、品川

凌雲閣(浅草十二階) - 「押絵と旅する男」 江戸川乱歩 1929(昭和4)年6月

私は十二階へは、父親につれられて、一度昇った切りで、その後行ったことがありませんので、何だか気味が悪い様に思いましたが、兄が昇って行くものですから、仕方がないので、私も、一階位おくれて、あの薄暗い石の段々を昇って行きました。窓も大きくございませんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、

凌雲閣(浅草十二階) - 「押絵と旅する男」 江戸川乱歩 1929(昭和4)年6月

兄は仲店から、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人波をかき分ける様にしてさっき申上げた十二階の前まで来ますと、石の門を這入って、お金を払って「凌雲閣」という額の上った入口から、塔の中へ姿を消したじゃあございませんか。まさか兄がこんな所へ、毎日毎日通っていようとは、

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