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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

本龍院(待乳山聖天) - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

正月は三ヶ日が江戸ッ児の最も真面目なるべき時だ。かれらは元日の黎明に若水汲んで含嗽し、衣を改めて芝浦、愛宕山、九段、上野、待乳山などに初日の出を拝し、帰来屠蘇雑煮餅を祝うて、更に恵方詣をなす、亀戸天神、深川八幡、日枝神社、湯島天神、神田明神などはその主なるものである。

浅草寺(浅草観音) - 「心眼」 初代 三遊亭圓朝 1891(明治24)年?

梅「へえゝ成程、十八間四面とは聞いてゐましたが、立派なもんですな。 近「さ此の段々を昇るんだ。 梅「へえ何だか何うも滅茶でげすな……おゝ/\大層絵双紙が献つてゐますな。 近「額だアな、此方へお出で、こゝで抹香を供るんだ、是がお堂だよ。 梅「へえゝ是が観音さまで……これは何で。 近

鳩・宝蔵門(仁王門) - 「心眼」 初代 三遊亭圓朝 1891(明治24)年?

梅「南無大慈大悲の観世音菩薩……いやア巨きなもんですな、人が盲目だと思つて欺すんです、浅草の観音さまは一寸八分だつて、虚言ばツかり、巨きなもんですな。 近「そりやア仁王門だ、是から観音さまのお堂だ。 梅「道理で巨きいと思ひました……あゝ……危い。 と驚いて飛下る。 近「フヽヽ何だ

仲見世 - 「心眼」 初代 三遊亭圓朝 1891(明治24)年?

梅「向うのは。 近「料理茶屋萬梅といふのだ。 梅「あら/\。 近「見ともねえなア、大きな声であらあらと云ひなさんな。 梅「あれは。 近「絵草紙だよ。 梅「へえゝ綺麗なもんですな、撫て見ちやア解りませんが、此間池田さんのお嬢さまが、是は絵だと仰しやいましたが解りませんでした。 浅

玩具・仲見世 - 「心眼」 初代 三遊亭圓朝 1891(明治24)年?

と是から合乗りで、蔵前通りから雷神門の際で車を下り、 近「梅喜さん、是が仲見世だよ。 梅「へゝえ何処ウ……。 近「なアにさ、ここが観音の仲見世だ。 梅「何かゞございませう玩具店が。 近「べた玩具店だ。 梅「どれが……。 近「あの種々なものを玩具と云ふのだ。 梅「へえゝ……種々な

浅草名産・銘菓 - 「みやこ鳥」 佐藤垢石 1924(大正13)年5月6日

在原の業平が東へ下ってきた時に、隅田川の言問の渡船場あたりで、嘴と脚の紅い水鳥を見て、いかにもみやびているところから『みやこ鳥』と呼んだという伝説があるが、京の鴨川にも昔からこのゆりかもめが、海の方から遊びにきていたのであるから、東西いずれの地で、『みやこ鳥』の名が起こったか分

隅田川・大川 - 「みやこ鳥」 佐藤垢石 1924(大正13)年5月6日

私らは吾妻橋から上手の隅田川にばかりみやこ鳥がいて、大川にはいないものと思ってきた。それに、近年言問あたりにも、みやこ鳥の姿が見えなくなったという話を聞いて、淋しく思っていたのであるが、我が家の前にもみやこ鳥がいるとは、懐かしい。  このほど、この屋根に一羽のかもめが死んでい

浅草の食・今戸 - 「みやこ鳥」 佐藤垢石 1924(大正13)年5月6日

寮の人々は食いものの贅にも飽きた。明治の中年頃までは大川から隅田川では寒中に白魚が漁れた。小さい伝馬舟に絹糸ですいた四つ手網を乗せて行って白魚を掬ったのである。  この白魚を鰻の筏焼きの串にさして、かげ干しをこしらえ酒の肴に珍重した。流れの面に、落ちては輪を描く霙の白妙に、見紛

今戸 - 「みやこ鳥」 佐藤垢石 1924(大正13)年5月6日

その頃、堀が隅田川へ注ぐ今戸の前にも、数多いみやこ鳥が群れていた。今戸にはいくつもの寮が邸をならべていて、みやこ鳥の浮かぶ雪景色に酒を酌んだのであった。今戸の寮は幕末から明治初期までが一番全盛を極めたのであって、この頃の物持ちや政治家が熱海や箱根へ別荘を設けるように、当時銀座の

「浅草とは?」・川蒸気・一銭蒸気(ポンポン船)・隅田川・大川・吉原遊郭(新吉原) - 「みやこ鳥」 佐藤垢石 1924(大正13)年5月6日

友人に誘われて、一度吉原の情緒を覚えてから、私の心は飴のように蕩けた。  しまいには、小塚っ原で流連するようになった。朝、廓を出て千住の大橋のたもとから、一銭蒸気に乗って吾妻橋へ出るのが、私の慣わしであった。蒸気船が隅田川と綾瀬川の合流点を下流の方へ曲がる時、左舷から眺めると、

浅草の食 - 「明日は天気になれ」 坂口安吾 1953(昭和28)年1月13日-4月2日

昔はどこの酒屋でもコップ酒というものを飲ませたが、近ごろは見かけない。酒の統制以来、小売店と飲食店の区別が厳重になって法規で取締られているのかも知れないが、馬方なぞが車をチョイととめて、キューッと一パイひッかけてまた歩きだす風景はわるくないものである。  コップ酒専門で天下に

浅草六区 - 「明治開化 安吾捕物 その四 ああ無情」 坂口安吾 1951(昭和26)年1月1日

最後に新十郎は浅草六区の地に立った。飛龍座をはじめ、小屋の一ツ一ツをメンミツに見て廻る。全部見て廻ってから、飛龍座の隣りの休業中の小屋へもう一度戻ってきた。飛龍座の楽屋口から、こっちの楽屋口へ細い路を距ててすぐ渡れるような構造であった。  彼は番人をよんで、 「この小屋はズッ

浅草六区 - 「明治開化 安吾捕物 その四 ああ無情」 坂口安吾 1951(昭和26)年1月1日

「どうかカンベンして下さいまし。奥さんからいつも駄賃をいただいておりますし、こんなことが起りましたので、怖しくて、正直に申し立てることができませんでした。三筋町のお師匠さんへ行ったというのは真ッ赤な偽りで、いつも真ッ直ぐ浅草へ参っておりました」 「いつも二人で新開地へ行ったのかね

浅草六区 - 「明治開化 安吾捕物 その四 ああ無情」 坂口安吾 1951(昭和26)年1月1日

女剣劇のかかっていたのは、浅草六区の飛龍座というバラック造りの劇場の番附には入れてもらえぬ悲しい小屋だ。浅草奥山が官命によって取払われたのは明治十七年、その代地として当時田ンボの六区が与えられたが、区劃整理して縦横に道を通じて後、ようやく五六軒の名もないような小屋と、十軒あ...

「浅草とは?」・浅草六区 - 「モンアサクサ」 坂口安吾 1948(昭和23)年1月25日

やっぱり、芸の身の入れ方が足りなかったのだろうと思う。モンパルナスやモンマルトルは、ある意味では、落伍者の街で、浅草も亦、落伍者の街であるが、浅草には落伍者の誇りがない。それだけモンパルナスやモンマルトルよりも低いのである。  つまり、浅草は、たゞドサ廻りの悲哀のような、落伍

浅草六区 - 「モンアサクサ」 坂口安吾 1948(昭和23)年1月25日

浅草の芸人諸君は、何かというと、これはウケルね、という。つまり、ウケル、とか、ウケナイ、ということが身上で、これはどこの芸人でも、そういうものであろうけれども、浅草のウケル型というものがきまっていて、これは浅草でウケル型、これは新宿でウケル型、そういう型があり、その型と狎れ合っ

「浅草とは?」 - 「モンアサクサ」 坂口安吾 1948(昭和23)年1月25日

浅草もちかごろは変ったそうだ。お客が変った。  タロちゃんの言葉によると、終戦後、日本が変ったと人々は云う。然し、どこがどう変ったかとなると、誰もハッキリこうだと云えないものであるが、その日本の変りという奴をイヤというほどハッキリ見せつけられるのが、浅草のお客だそうである。

「浅草とは?」 - 「モンアサクサ」 坂口安吾 1948(昭和23)年1月25日

タロちゃん(淀橋太郎)なども、興行師だから、私と飲んでいるうちにも、目の玉のギロリと見るからに一癖ある大人物の浪花節やら、漫才やらそんなのが膝すりよせてヒソヒソと何か打合せに来たり、可愛いゝ踊子さんが役を頼みにきたり、そこで私は大喜びで、 「ちょッと/\」  大慌てに、あなたは

浅草オペラ・レビュー - 「モンアサクサ」 坂口安吾 1948(昭和23)年1月25日

浅草の女優さん方は、まだ、芸が未熟である。女優部屋ではずいぶん色ッポイのだけれども、舞台へでると、色ッポクない。なかには全然色気がなくなり、棒のような感じのレビュウガールがいる。そのくせ一しょに酒の席にいる時にはずいぶん仇めいており、楽屋の階段をシャンソンなんか唄いながらトント

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