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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

浅草寺(浅草観音) - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

お坊さんの住いの塀に沿って山東庵京伝の書案の碑とか中原耕張の筆塚とか並木五瓶の「月花のたはみこゝろや雪の竹」という句の刻んである碑とか、いろいろの石碑が一列に並んでいる。そのさきに粋筋の人たちがよく願をかける被官稲荷がある。その神燈の格子にサーちゃんがおみくじを結びつけているの

浅草寺(浅草観音) - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

――私たちは観音堂をまわって、右手の裏に来ていた。観音堂前の賑わしさ、雑踏は、左にそれて、その裏はうそのように寂しかった。ついそこの、つい今通ってきた仲見世の賑わいが夢のような感じのする、そこは蕭条とした場所だった。  森鴎外がその撰文を書いたという、九代目団十郎の「暫」の銅

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

浅草に部屋を借りてもう半年以上になっているのに、私はどうした加減か、仲見世とか観音様の境内とか、それから六区の映画館街とか(これは前に書いたような理由はあるが)、つまり浅草の正式の顔といったようなところはあまり歩いたことがなく、私のぶらつくところはおおむね背中のような腋の下のよ

長國寺・鷲神社・浅草酉の市・吉原遊郭(新吉原) - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

吉原病院の方へ抜けて、吉原に入った。仲の町は、お酉さまへ行く人、帰りの人で、ごった返していた。「角海老」の前庭を、素人の女たちが、見物するのはこの時とばかりに、ひやかしの男に混ってゾロゾロと通り抜けている。そういう場合どういうものか、惨めな側にすぐ自分の心を置く癖の私は、――同

長國寺・鷲神社・浅草酉の市 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

熊手には宝船、的矢、玉茎、金箱、米俵、お多福面、戎大黒などが飾り付けてあるが、これが千差万別で、どれが出船でどれが入船か見たところではさっぱりわからない。熊手を買って聞いてみればいいわけだが、口あけの店で小さな熊手を買うのも気がひけ、「――宝船に何か区別があるのかもしれない。舳

長國寺・鷲神社・浅草酉の市 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

お酉さまの晩は、公園の食いもの屋は二時まで営業が許される。「聚楽」の前へ行くと、二時までの営業のため帰れなくなる店員を店へ泊らせる用意のものだろう、夜具蒲団をうず高く積んだトラックがとまっていた。何か奇観で、私が思わず足をとどめると、 「あれ、一組十銭よ」と美佐子が言った。 「

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

喫茶店「ハトヤ」の前に来ていた。入ろうかと、ドサ貫とバーテンダーのどちらへともなく言って暖簾から覗くと、満員であった。ここはいつだって満員でない時はないが、客の多くは六区の小屋の人々で、それが一杯五銭のコーヒーでほっと一息ついているのや、ホット・ドッグの腸詰の代りにカレー・ライ

浅草六区・見世物 - 「東京案内 下巻」 東京市市史編纂係 編 1907(明治40)年4月

六区に至りては、園内観物の中心地とも称すべきものにして、区内を四号地に分つ。これが観物は、時々変更して一定しがたしといえども、しばらく明治三十九年現在のものを記せば左のごとし。 一号地 観物に大盛館(江川玉乗) 清遊館(浪花踊) 共盛館(少年美団) 共盛館(青木玉乗) 外に猿

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

――私の手もとに明治四十年発行の東京市編纂「東京案内」という本があるが(この明治四十年というのは、私の生れた年なので、この本には特別の感情が持たれるのだが)浅草区のところに、公園の地図が入っている。見ると、それに出ている大きな食いもの屋は大方今日も残っているのだが(たとえば田原

浅草花やしき(花屋敷)・浅草水族館・カジノ・フォーリー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「広養軒といえば、前の聚楽……」 とバーテンは言うのだった。「須田町食堂の発展は大したもんですね」  各所にある「聚楽」という食堂は須田町食堂で経営していることは、私も知っていたが、 「――今度、花屋敷を買うそうですね」  浅草にほとんど毎日いて、そうしたことを私は大森の喫茶店

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

こういう工合に銀座の女たちがランデヴーに浅草を利用しているのに、ひょっこりぶつかるのは、これが初めてではなかった。そして女も私も双方とも、この場合のように気まずい思いをするのは、これでもう何度目ぐらいか。かくて私は、銀座の女たちが、浅草だったら、店の客に会わないだろう、店へ来て

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

ところで、そうした踊り子たちは、年齢はもちろんまちまちだが概して二十前のものの方が多いのに、客席からだと、ずっと齢が上のように見られる。だから楽屋で見ると、感じがまるで違うのだが、同じ楽屋でも、化粧をつけたのと、化粧を落したのとでは、これがまたまるで違うのだった。  ドギつい

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

細長い部屋の両側に、鏡台がずらりと並べてあって、多くは小さな卵形の赤い鏡台だった。北向きの片側は窓になっていて、そこから乏しいながら明りが入ってはくるのだが、鏡台の上の方にこれまたずらりと、商店街の街灯のように電灯が並んでいる。電灯で暖を取るという話を前回に書いたが、その部屋の

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

前にちょっと書いたように、楽屋は舞台裏の三階にある。その楽屋へ行くべく、暗い急な階段を昇って、二階と三階の間の狭い踊り場に行きついたときちょうど、――私の先に行った朝野は、すでに三階に姿を消していたが、――ちょうどそのとき、暗い階段の上にあたかもパッと光が射したみたいに、あれは

見世物 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

外の通りに末弘を待たせて私はアパートへ行き、戻ると末弘は同じ火事見物の帰りらしい背の低い老人と立ち話をしていた。私を見ると、末弘はそのひどく見すぼらしい恰好をした男と別れ、私たちは国際通りを、国際劇場の方へ向けて歩き出した。 「おたくは昔の浅草をご存じで?」と末弘が言った。「今

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

耳をすましていると、これは雨雲の低く垂れた夜に時々あることなのだが、はるかかなたの上野駅のあたりから、ボーボーという汽笛の音がかすかに聞えてきた。 (旅に出たい。)  ふと痛切に感じた。だが、この旅に出たいという気持は私のうちにずっと燃えていたものだ。そうだ。私が浅草に来たのは

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

愛玉只(オーギョーチ)は、黄色味を帯びた寒天様のもので、台湾の無花果の実をつぶして作るのだそうだが、それを賽の目に切ったのの上に砂糖水、氷をかけて食う。氷あずきのあずきの代りに寒天様のものが入っている塩梅で、一杯五銭。(翌年七銭に値上。)氷あずきなど東京中探したってもうどこ...

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「ヘンでしょう、眼が……」  ドギマギした声だった。その声といい、むやみと顔を赧らめるところといい、何かサーちゃんらしくなかった。 「あたし、泣いちゃったの」 「泣いた?」 「ええ、今し方、ワーワー泣いたところなんですの。眼が赤いでしょう」  心の平静を取り戻した様子で、 「ド

浅草の食・浅草六区 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

そうだ。食い物と言えば、私のこの回のはじめに、食堂のメシのことを書いた。――私の行く浅草のメシ屋はいろいろとあって、一定してないのだが、つまり急ぐときは、私のアパートから近い合羽橋通りのメシ屋、散歩がてらの時は公園を抜けて馬道に出て、そのあたりのメシ屋へ行く。  その馬道と国際

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