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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

――私は朝野に、仕事がうまく行かないと言った。すると、朝野はわが意を得たりといった顔で、 「浅草の空気は僕らにはいかんです」  僕らというのに特に力を入れて、断乎として、何か噛み付くみたいに言った。 「浅草は人間をぐうたらにさせて、いかんです。――浅草では、ふうッとしていても、

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

そして、――そのくせに、私は浅草をうろついて、一見すべての人に対して申し訳ないような、ぐうたらな生活を送っていた。私が浅草のアパートに部屋を借りた理由は、前に述べた。だが、盛り場はいろいろとあるのに、なぜ特に浅草を選んだかということについては述べなかった。私はそれまで、盛り場と

ひょうたん池・屋台・夜店 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

――さて、ここは、私たちのいる池畔は、映画館街のすぐ裏で、手をのばせば通りの人にとどきそうな近さなのであったが、池のふちにぎっしり並んだ夜店が塀のようになっているせいか、通りの賑やかな激しいざわめきが、ここへは何か信じられないような遠い物音の感じ、耳を疑いたくなる頼りなさで...

ひょうたん池 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私は池の向うにぼんやり眼をやっていた。そこには、――映画館街から言うと、O館の裏手に当って、いままでちっとも気がつかなかったことだが、「親子丼、すし、天丼」と書いた同じような看板を、池に向けて出した店が、五軒かたまって並んでいた。 浅草文庫 「如何なる星の下に」 高見順 19

浅草の食・ひょうたん池 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私たちは橋を渡ったすぐ右手にある「おまさ」という茶店に寄った。夏のうち、よくそこで食べた三盃酢のところてんを、――涼しくなると共に忘れていたが、ちょうど無理に詰め込んだお好み焼で胸がやけていた折柄、食べようと思いついて、美佐子を誘ったのだ。「――寒いわね」と美佐子は言ったが...

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

二人ともしばらく黙って突き立っていた。するうちえたいのしれない焦燥が私のうちに燻りはじめ、美佐子のうちにもひとしく何か焦燥が燻り出したらしいのが私に感ぜられた。美佐子が突然、突っかかるように言った。 「倉橋さんは、なんで浅草をブラブラしてんの?」 「――さあ」正面切って説明する

浅草六区・ひょうたん池 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

映画館街をそのまま終りまでずっと行って、ちょっと右へずれてまっすぐに千束へ通ずる通り、米久があるので普通「米久通り」と言われている「ひさご」通り、その入口の片方にある「びっくりぜんざい」は、大きな二重丸のなかに、二行に分けたびっくりという字を入れた赤いネオンを掲げ、片方の「大善

浅草六区・ひょうたん池 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

一体美佐子が私に六区へ行こうと誘ったのは、今は離れている六区への郷愁、離れたくなかったのに離れ、それへの未練が絶ち切れない六区の舞台へのやるせない想い、そのせいと察せられた。そうと明らかに察せられるような言葉を美佐子は道々口にした。ところが、いざ来て見ると、火に誘惑されてそのな

浅草六区・ひょうたん池 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

上に藤棚のある、瓢箪池の橋の上に、私たちは佇んでいた。――嶺美佐子と私とは映画館街を、瓢箪池に面したK劇場の前まで来て、急にまるで言い合わしたように、そして二人とも揃って何か逃れるような足どりで、その前から直角に、暗い瓢箪池の方へそそくさと逸れたのであった。  ――なぜ逸れた

浅草六区 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「○○君は死んだ?」  大きな声で、降りてきたのに言った。 「いいや、まだ殺されねえ。――でも、もうすぐ殺されるよ」 「そうか。しからば、急いで食わざなるめえ」  ――芝居の稽古であった。一座を組んで、出しものを用意して、映画館のアトラクションとして売り込もうというのであった。

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

やきそば。いかてん。えびてん。あんこてん。もちてん。あんこ巻。もやし。あんず巻。よせなべ。牛てん。キャベツボール。シュウマイ。(以上いずれも、下に「五仙」と値段が入っている。それからは値段が上る)。テキ、二十仙。おかやき、十五仙。三原やき、十五仙。やきめし、十仙。カツ、十五仙。

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

そう言うと彼女は急に酒が回ったみたいに、とみに饒舌になって、彼女が舞台をやめた理由を話し出した。その話し方は、話の後の方に回した方がいい話を前に話したり、前に話した方が話がはっきりする部分を後にしたりして、メチャメチャであったから、一応秩序立てて述べると、  ――公園のレヴィ

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私はぬるくなった茶を飲んで、 「そう言えば、公園の踊り子さんたちは、いつも子供ばかりだな。大きくなると、次々にやめて行って、――かわりにまた子供が出てくる」  私はこの数年、公園の舞台に花のようにパッと咲いてはいずれも花のように散ってどこかへいなくなってしまった実にたくさんのレ

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

――「ビフテキ」、お好み焼の「ビフテキ」である。その「ビフテキ」というような、ただ油をひいて焼くだけでなく、焼きながらその上に順次、蜜、酒、胡椒、味の素、ソースの類いを巧みに注ぎかけねばならぬところの、ちょっと複雑な操作を必要とするものは、私は美佐子に調理を頼んだ。「ひとつ、願

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

レヴィウの幼い踊り子たちは、親しい男性を呼ぶ時、いかにも人なつこい調子で「お兄さん」と言う。私は美佐子が「お姉さん」と言うのを聞くたびに、心をふるわすその甘さをそッと捉えて、「お兄さん」という言葉を、それに当てはめた。私は眼をつぶって、ひそかに、その甘い調子になぞらえて、 「―

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

浅草の舞台は大変な労働で、その舞台をやめると、踊り子は急に肥る。身体を締めつけていた箍を外した途端にぷうと膨れたといったような、その奇妙な肥り方を美佐子も示していて、まだ若いのだろうに、年増の贅肉のような、ちょっといやらしいのを、眼に見えるところではたとえば顎のあたりに、眼に見

「浅草とは?」・浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

たとえば学校の小使部屋などによくある大きな火鉢、――特に小使部屋などというのは、あまり上等でない火鉢を想像して貰いたいからであるが、その上に大きな真黒なテカテカ光った鉄板を載せたものの周りを、いずれも一目見てこれもあまり上等の芸人でないと知れる男女が、もっとも女はその場に一人し

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私は火鉢の火が恋しくなった。 「――そうだ。お好み焼屋へ行こう」  本願寺の裏手の、軒並芸人の家だらけの田島町の一区画のなかに、私の行きつけのお好み焼屋がある。六区とは反対の方向であるそこへ、私は出かけて行った。  そこは「お好み横町」と言われていた。角にレヴィウ役者の家が

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

彼女というのは、小柳雅子というレヴィウの踊り子。十七。…… 「――いいなアというのは、どういうの。踊りが巧いという意味か。それともその子がいいという意味か……」  私は「小柳雅子はいいなア」と言って、レヴィウ・ファンの友人からそう問われたことがあった。...

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