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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

「浅草とは?」 - 「モンアサクサ」 坂口安吾 1948(昭和23)年1月25日

戦争中の浅草は、ともかく、私の輸血路であった。つまり、酒がのめたのである。  「染太郎」というオコノミ焼が根城であったが、今銀座へ越している「さんとも」というフグ料理、これは大井広介のオトクイの家、それから吉原へのして、「菊屋」と「串平」、酔いつぶれて帰れなくなると、吉原へ泊る

カジノ・フォーリー - 「大井広介といふ男――並びに註文ひとつの事――」 坂口安吾 1942(昭和17)年7月28日

中原中也が文学修業に上京の時にはメンコだのノゾキ眼鏡などボール箱につめて之を大切にいたはり乍らやつて来たが、大井広介はカジノフォリーを始め何万枚のプログラムを秘蔵してそれをみんな暗記し、カクテルブックをこくめいに複写して秘蔵してそれをみんな暗記し浅草の刀屋へ註文して立廻りの竹光

浅草オペラ・レビュー - 「大井広介といふ男――並びに註文ひとつの事――」 坂口安吾 1942(昭和17)年7月28日

大井広介に始めて会つたのは昭和十五年大晦日午後七時、葉書で打合せて雷門で出会つた。その晩、大井広介は至極大真面目で、自分はインチキ・レビューの愛好家で、女性美はレビューの動きに極致があると信じてゐるから、自分の娘もレビューガールにするつもりである。三つの頃からレビューを見せ...

隅田川・大川 - 「波子」 坂口安吾 1941(昭和16)年8月28日

どこへ行つても、人がゐる。人、人である。人のゐない場所はなかつた。人の一人もゐない所へ行つてみたいな、さう考へて、歩いてみた。けれども、人は、どこにでもゐる。  どうして、人のゐない所へ行きたくなるのだらうか。誰も自分に話しかけたり、邪魔したり、しないのに。人は、跫音をたてる

三筋町 - 斎藤茂吉歌碑

浅草の 三筋町なる おもひでも  うたかたの如や 過ぎゆく光の如や 浅草文庫 斎藤茂吉

火事・大火 - 「三筋町界隈」 斎藤茂吉 1937(昭和12)年1月

そのころ東京には火事がしばしばあって、今のように蒸気ポンプの音を聞いて火事を想像するのとは違い、三つ番でも鳴るときなどは、家のまえを走ってゆく群衆の数だけでもたいしたものであった。  私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。

玩具・観工場・仲見世 - 「三筋町界隈」 斎藤茂吉 1937(昭和12)年1月

そのころ仲見世に勧工場があって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの写真は、私が未だ郷里にいたとき、小学校の校長が東京土産に買って来て児童に見せ見せしたものであるから、私は小遣銭が溜まると此処に来てその英雄の写真

浅草六区・パノラマ館 - 「三筋町界隈」 斎藤茂吉 1937(昭和12)年1月

その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々とおもったものであった。十銭の入場料といえばそのころ惜しいとおもわなければならぬが、パノラマの場内では望遠...

上京・三筋町 - 「三筋町界隈」 斎藤茂吉 1937(昭和12)年1月

その頃、蔵前に煙突の太く高いのが一本立っていて、私は何処を歩いていても、大体その煙突を目当にして帰って来た。この煙突は間もなく二本になったが、一本の時にも煙を吐きながら突立っているさまは如何にも雄大で私はそれまでかく雄大なものを見たことがなかった。神田を歩いていても下谷を歩いて

三筋町 - 「三筋町界隈」 斎藤茂吉 1937(昭和12)年1月

それから父と二人は二人乗の人力車で浅草区東三筋町五十四番地に行ったが、その間の町は上野駅のように明るくはなかった。やはり上ノ山ぐらいの暗いところが幾処もあって、少年の私の脳裡には種々雑多な思いが流れていたはずである。さてその五十四番地には、養父斎藤紀一先生が浅草医院というのを開

馬車鉄道・路面電車 - 「三筋町界隈」 斎藤茂吉 1937(昭和12)年1月

鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にも

浅草寺(浅草観音)・見世物 - 「三筋町界隈」 斎藤茂吉 1937(昭和12)年1月

東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇の小さな媼であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚だの、信田の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描い

宮戸座・小芝居 - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

納豆屋は五十がらみのおばさんで、手拭をかぶり、手甲、脚絆に身を固めていた。金歯を填めているのが見え、いつも酸漿を口に含んでいた。売り声にも年季が入っていて、新米には真似られない渋さがあった。この人は、その頃、観音さまの裏の宮戸座に出ていた沢村伝次郎(いまの訥子)に岡惚れしていた

吉原遊郭(新吉原) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

私の家は吉原遊廓のはずれにあった。家の裏手には木柵が囲らしてあって、台所口の前にあたる所に格子戸がとりつけてあった。格子戸には鈴がついていて、開閉するたびに音を立てた。格子戸の際に、洗濯する場所が設けてあった。母が甲斐がいしい姿で洗濯していたさまが、いまも目に浮かぶ。母は洗濯し

川蒸気・一銭蒸気(ポンポン船) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

震災で焼け出されて、向島の親戚の家に厄介になっていた頃、母は毎日のように外出したが、帰りが夜おそくなることが度々あった。私はそのつど母のことが心配になり、家にじっとして待っていることが出来なかった。私は隅田川を通う蒸気船の発着所まで出向いて、そこにあるベンチに腰かけて、母の帰り

関東大震災・吉原遊郭(新吉原)・凌雲閣(浅草十二階) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

震災の当日、その時びっくりして戸外に飛び出した私の目に、八階から上が折れてなくなった、浅草公園の十二階の無慙な姿が映った。私の家は吉原遊廓のはずれにあって、家の前の広場からは、浅草公園の十二階がよく見えた。  その日、私の一家はみんなばらばらになった。私と花やという女中が上野

吉原遊郭(新吉原) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

東京に帰ってきてからも、しづやはしばらく私の家にいた。なかやという兄の子守もいたが、なかやはしづやよりも早く暇を取ったようである。兄と私はその頃根岸にあった幼稚園に通った。私の家から廓外へ出るには、検査場裏の裏門が近かったが、そこは昼間は締まっているので、私達は幼稚園へ通うのに

吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

三社祭がすむとまもなく吉原神社の祭礼がある。当時の吉原は名物の花魁道中は既に廃止されていたが、まだ派手気の残っていた頃のことだから、祭礼の余興には芸者の手古舞、幇間の屋台踊などいろんな催しものがあった。その年は日新亭のおかみの話のように、貸座敷の楼主や台屋の有志の発起で、歌舞伎

吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

吉原の縁日は午の日で土地柄賑やかな夜店が出た。その日には界隈の町の人たちも、大門口から五丁目の非常門から裏門からそれぞれ詰めかけてきて、素見客の仲間も常よりは多くその賑いは格別であった。夜店商人は夕方の三時頃からぼつぼつ検査場横の空地に集まってきた。荷車を引いてくる者、自転車を

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