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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

宮戸座・小芝居 - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

納豆屋は五十がらみのおばさんで、手拭をかぶり、手甲、脚絆に身を固めていた。金歯を填めているのが見え、いつも酸漿を口に含んでいた。売り声にも年季が入っていて、新米には真似られない渋さがあった。この人は、その頃、観音さまの裏の宮戸座に出ていた沢村伝次郎(いまの訥子)に岡惚れしていた

吉原遊郭(新吉原) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

私の家は吉原遊廓のはずれにあった。家の裏手には木柵が囲らしてあって、台所口の前にあたる所に格子戸がとりつけてあった。格子戸には鈴がついていて、開閉するたびに音を立てた。格子戸の際に、洗濯する場所が設けてあった。母が甲斐がいしい姿で洗濯していたさまが、いまも目に浮かぶ。母は洗濯し

川蒸気・一銭蒸気(ポンポン船) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

震災で焼け出されて、向島の親戚の家に厄介になっていた頃、母は毎日のように外出したが、帰りが夜おそくなることが度々あった。私はそのつど母のことが心配になり、家にじっとして待っていることが出来なかった。私は隅田川を通う蒸気船の発着所まで出向いて、そこにあるベンチに腰かけて、母の帰り

関東大震災・吉原遊郭(新吉原)・凌雲閣(浅草十二階) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

震災の当日、その時びっくりして戸外に飛び出した私の目に、八階から上が折れてなくなった、浅草公園の十二階の無慙な姿が映った。私の家は吉原遊廓のはずれにあって、家の前の広場からは、浅草公園の十二階がよく見えた。  その日、私の一家はみんなばらばらになった。私と花やという女中が上野

吉原遊郭(新吉原) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

東京に帰ってきてからも、しづやはしばらく私の家にいた。なかやという兄の子守もいたが、なかやはしづやよりも早く暇を取ったようである。兄と私はその頃根岸にあった幼稚園に通った。私の家から廓外へ出るには、検査場裏の裏門が近かったが、そこは昼間は締まっているので、私達は幼稚園へ通うのに

吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

三社祭がすむとまもなく吉原神社の祭礼がある。当時の吉原は名物の花魁道中は既に廃止されていたが、まだ派手気の残っていた頃のことだから、祭礼の余興には芸者の手古舞、幇間の屋台踊などいろんな催しものがあった。その年は日新亭のおかみの話のように、貸座敷の楼主や台屋の有志の発起で、歌舞伎

吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

吉原の縁日は午の日で土地柄賑やかな夜店が出た。その日には界隈の町の人たちも、大門口から五丁目の非常門から裏門からそれぞれ詰めかけてきて、素見客の仲間も常よりは多くその賑いは格別であった。夜店商人は夕方の三時頃からぼつぼつ検査場横の空地に集まってきた。荷車を引いてくる者、自転車を

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