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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

パンの会・吉原遊郭(新吉原) - 「ヒウザン会とパンの会」 高村光太郎 1936(昭和11)年

「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷に結っていた。元禄髷というのは一種いうべからざる懐古的情趣があって、いわば一目惚れというやつでしょう。参ったから、懐ろからスケッチブックを取り出して素

「浅草とは?」 - 「幕末維新懐古談 大火以前の雷門附近」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有に帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷門もこの時に焼けてしまったのです。此所で話が前置きをして置いた浅草大火の件となるのですが、その前になお少し火事以前の雷門を中

浅草田圃 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

仲店の中間、左側が伝法院で、これは浅草寺の本坊である。庭がなかなか立派で、この構えを出ると、直ぐ裏は、もう田圃で、左側は田原町の後ろになっており、蛇骨湯という湯屋があった。井戸を掘った時大蛇の頭が出たとやらでこの名を附けたとか。有名な湯屋です。後ろの方はその頃新畑町といった所、

雷門 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

雷門は有名ほど立派なものではなく、平屋の切妻作りで、片方が六本、片方が六本の柱があり、中心の柱が屋根を支え、前には金剛矢来があり、台坐の岩に雲があって、向って右に雷神、左に風の神が立っていました。魚がしとかしんばとか書いた紅い大きな提灯が下がって何んとなく一種の情趣があった。

浅草絵・浅草人形・浅草名産・銘菓・仲見世 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

雷門から仁王門までの、今日の仲店の通りは、その頃は極粗末な床店でした。屋根が揚げ卸しの出来るようになっており、縁と、脚がくるりになって揚げ縁になっていたもので、平日は、六ツ(午後六時)を打つと、観音堂を閉扉するから商人は店を畳んで帰ってしまう。後はひっそりと淋しい位のものでした

浅草の食・今戸橋・山谷掘 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

山の宿を出ると山谷堀……越えると浅草町で江戸一番の八百善がある。その先は重箱、鯰のスッポン煮が名代で、その頃、赤い土鍋をコグ縄で結わえてぶら下げて行くと、 「重箱の帰りか、しゃれているぜ」などいったもの。  花川戸から、ずっと、もう一つ河岸の横町が聖天町、それを抜けると待乳山

浅草の食 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

観音堂に向っては右が三社権現、それから矢大臣門(随身門のこと)、その右手の隅に講釈師が一軒あった。  門を出ると直ぐ左に「大みつ」といった名代な酒屋があった。チロリで燗をして湯豆腐などで飲ませた。剣菱、七ツ梅などという酒があった。馬道へ出ると一流の料理屋富士屋があり、もっと先へ

浅草の食・浅草広小路 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

雷門へひとまず帰って、門へ向って左側、広小路へ出ましょう。  此所にはまた菜飯茶屋という田楽茶屋がありました。小綺麗な姉さんなどが店先ででんがくを喰ってお愛想をいったりしたもの、万年屋、山代屋など五、六軒もあった。右側に古本屋の浅倉、これは今もある。それから奴(鰻屋)。地形が

駒形堂 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

堂は六角堂で、本尊は観世音、浅草寺の元地であって、元の観音の本尊が祭られてあった所です。縁起をいうと、その昔、隅田川をまだ宮戸川といった頃、土師臣中知といえる人、家来の檜熊の浜成竹成という両人の者を従え、この大河に網打ちに出掛けたところ、その網に一寸八分黄金無垢の観世音の御像が

浅草の食 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

雷門に接近した並木には、門に向って左側に「山屋」という有名な酒屋があった(麦酒、保命酒のような諸国の銘酒なども売っていた)。その隣りが遠山という薬種屋、その手前(南方へ)に二八そば(二八、十六文で普通のそば屋)ですが、名代の十一屋というのがある。それから駒形に接近した境界にこれも

浅草神社(三社権現)・浅草寺(浅草観音) - 「幕末維新懐古談 神仏混淆廃止改革されたはなし」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

この浅草寺ですが、混淆時代は三社権現が地主であったから馬道へ出る東門(随身門)には矢大臣が祭ってあった。これは神の境域であることを証している。観音の地内とすれば、こんなものは必要ないはずであります。もう一つ可笑しいことには、観音様に神馬があります。これは正しく三社権現に属したも

浅草神社(三社権現)・浅草寺(浅草観音) - 「幕末維新懐古談 神仏混淆廃止改革されたはなし」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。  この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏

火事・大火・雷門 - 「幕末維新懐古談 浅草の大火のはなし」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

火勢はさらに猛烈になって、とうとう雷門へ押し掛けて行きました。  広小路から雷門際までは荷物の山で重なっているのですが、それが焼け焼けして雷門へ切迫する。荷物は雷門の床店の屋根と同じ高さになって累々としている所へ、煽りに煽る火の手は雷門を渦の中へ巻き込んでとうとう落城させてしま

火事・大火 - 「幕末維新懐古談 浅草の大火のはなし」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

慶応元年丑年十二月十四日の夜の四ツ時(私の十四の時)火事は浅草三軒町から出ました。  この三軒町は東本願寺寄りで、浅草の大通りからいえば、裏通りになっており、町並みは田原町、仲町、それから三軒町、……堀田原、森下となる。見当からいうと、百助の横丁を西に突き当った所が三軒町で、其

浅草花やしき(花屋敷) - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「ミーちゃんは花屋敷に入りました」 「花屋敷?」 「花屋敷が今度復活するそうで。なんでも浅草楽天地という名前になるとか。そこのショウに入ることになったんです」 「それはよかった」 「でもね、見世物小屋の踊り子ではね、どんなもんですかね。僕もミーちゃんから誘われたが、断わりました」

浅草広小路・屋台・夜店 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

浅草の広小路は、吉原と同じように昼と夜とではまるで表情を異にするのである。夜になると、――昼間、のどかな陽が射していたその片側に、食いものの屋台がズラリと立ち並び、多くは暖かい食いものを売るその暖簾のなかには、どれもいっぱい人がつまり、顔は隠されるが下は丸見えのその足もとには、

吉原遊郭(新吉原) - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「朝野君、知ってるでしょう。お女郎さん相手の、郭のなかだけ回っている雑貨屋。はたきとか、お茶碗とか、部屋に飾る人形とか、そんなものを車にいっぱい陳列して廓に売りにくる。……それがちょうど、通りにとまっていた。うららかな暖かい陽を浴びて……」  私は朝野に語っていた。酔いが、頭に

浅草広小路・吉原遊郭(新吉原) - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

結局K劇場へ行かないで、私たちはまっすぐ田原町の方へ行き、広小路に出た。東西に走っているその広小路通りは、公園寄りの南向きの片側にだけ陽がさして片側は全然陽が当らない。そのさむざむとした何か昼なお小暗い感じさえする片方に、冬の寒さがみんな寄り集まったようで、日向の方は、幸い風も

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

誘われるままに、いつかドサ貫が出てきた合羽橋通りのどじょう屋の「飯田」へ行った。 「鯰は精力がつくですよ」  と、しきりに朝野がすすめるので、私は別に反対すべき理由もないゆえ、その言葉に従うと、 「では、僕は鯨と行こう」  と、朝野は異をたてて、おいおいと女中を呼び、 「ズー

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