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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

四月八日の花まつりにはお糸さんと一緒に竜泉寺町の大音寺に甘茶をもらいに行った。甘茶をもらいに行くのは私の役目で、まえの年にはなかやと一緒に行った。この年毎の灌仏会の行事は私の家などでも嘉例の一つになっていた。単に甘茶をもらってくるだけのことであったが、つい外すというわけにも行か

花見・吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

お糸さんの話をしよう。お糸さんが私の家に来たのは桜どきで、吉原はちょうど夜桜の頃であった。  吉原の桜は八重咲きが多く、上野や向島よりは遅れて咲いた。花の開く頃になると、馬力や荷車に附けられて、桜林から仲の町に移された。大門口から水道尻まで、桜のあるところは青竹の欄干で囲わ...

吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

私は浅草の千束町通りにあった千束小学校へ通った。その頃廓内から学校通いをするのにはちょっと不便なことがあった。というのは、ちょうどその時刻には検査場裏の裏門も五丁目の非常門も閉まっていたからである。表向き廓外へ出る道は大門口以外にはなかった。昔は大門から一歩でも踏み出すことを「

火事・大火・関東大震災・吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

聞くところによると、明治四十三年の夏の水害と翌年春の大火とは、吉原とその界隈の町の有様を一変させたと云うが、私はちょうどその大火のあった年の秋に生れた。物心がついてまもなくあの大震災があった。震災は私たち東京人の生活に一時期を画したが、私としても自分の少年の日は震災と共に失われ

吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

私は浅草の新吉原で生れた。生家は廓のはずれの俗に水道尻という処に在った。大門から仲の町を一直線に水道尻に抜けて検査場(吉原病院)につきあたると、左がわに弁財天を祀った池のある公園がある。土地の人は花園と呼んでいるが、その公園の際に私の家は在った。新吉原花園、そんな所書で私の家に

浅草六区・凌雲閣(浅草十二階) - 「浅草の賑ひ」『キング』昭和6年新年号附録「明治大正昭和大絵巻」 挿絵・小村雪岱 1931(昭和6)年

大衆の歓樂境である浅草公園は、昔も今も變らぬ盛り場であった。見世物小屋立並ぶ六区は勿論、仲見世通りから馬道に至る間、暑さ寒さのきらひなく、朝早くから夜更け迄、人波打って流れてゐた。當時の浅草公園は今日のように活動常設館こそなけれ、吹矢楊弓店など軒をならべ、玉乗り、人形芝居、女軽

「浅草とは?」・富士詣 - 小林一茶 俳句

浅草の 不二を踏へて なく蛙  蝸牛 そろ ~ 登れ 富士の山  踏んまたぐ 程でも江戸の 不二の山  浅草や 朝飯前の 不二詣  浅草や 犬も供して 不二詣 浅草文庫 小林一茶 俳句

隅田川・大川・隅田川の渡し - 「​大川の水」 芥川龍之介 1912(明治45)年1月

ことに日暮れ、川の上に立ちこめる水蒸気と、しだいに暗くなる夕空の薄明りとは、この大川の水をして、ほとんど、比喩を絶した、微妙な色調を帯ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、

浅草の食・浅草名産・銘菓 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

小路を這入った処に小料理屋があって、新栗のきんとんがおいしいというので、その時節にはよく立寄りました。お留守をした人におみやげにするのです。五重塔のある側に綺麗なお汁粉屋があって、そこのお雑煮のお澄ましが品のいい味だというので、お母様は御贔屓でした。お兄さんは、お餅が小さくて腹

玩具・仲見世 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

一廻りしますと仲見世へ出ます。仁王門から広小路まで、小さな店がぎっしりと並んでいます。大方玩具屋ですが、絵草紙屋などもありますし、簪屋も混っています。絵草紙は美しい三枚続きが、割り竹に挿んで掛け並べてありました。西南戦争などの絵もあったかと思います。役者のもあったのは、芝居町が

浅草田圃・奥山・見世物 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

見世物小屋のある方へ行って、招牌を見て歩きます。竹の梯子に抜身の刀を幾段も横に渡したのに、綺麗な娘の上るのや、水芸でしょう、上下を著た人が、拍子木でそこらを打つと、どこからでも水の高く上るのがあります。犬や猿の芸をするのもあったようです。尤も一々這入ったのではありません。中の見

淡島堂・江崎写真館 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

お堂の左手に淡島様があります。小さな池に石橋が掛っていて、それを渡る時には、池の岩の上にいつも亀が甲を干していました。お堂の中には、小指の先ほどの括り猿や、千代紙で折った、これも小さな折鶴を繋いだのが、幾つともなく天井から下っています。何を願うのでしょうか。  淡島様の裏の方

鳩・見世物 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

お堂を降りた処には筵を敷いて、白髪の老婆のどこやら品のあるのが、短い琴を弾いて、低い声で何か歌っていました。小さな子が傍にいて、人の投げてくれる銭を拾います。琴は品のよい楽器で、立派なお座敷に似合うように思いましたのに、何という哀れな様子でしょう。琴糸は黄色なものと思っていまし

浅草寺(浅草観音)・本龍院(待乳山聖天) - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

岸へ上った辺は花川戸といいました。少し行くと浅草聖天町です。待乳山の曲りくねった坂を登った上に聖天様の社があって、桜の木の下に碑があります。また狭い坂を下りると間もなく、観音様の横手の門へ出ます。  その辺にはお数珠屋が並んでいたようです。まず第一にお参りをしようとお母様にいわ

長國寺・鷲神社・浅草酉の市 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

そこを過ぎて三島神社の前を通ります。その横からお酉様へ行く道になるのですが、私はお参りしたことがありません。いつもひどい人出だとのことで、その酉の日には、大分離れたここらまで熊手を持った人が往来します。その前日あたりから、この辺の大きな店で、道端に大釜を据えて、握り拳くらいある

日本堤 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

今まで噂に聞いた道々を、毎日車で通います。野菜市場の混雑を過ぎ、大橋を渡って真直に行けば南組の妓楼の辺になりますが、横へ曲って、天王様のお社の辺を行きます。貧民窟といわれた通新町を過ぎ、吉原堤にかかりますと、土手際に索麺屋があって、一面に掛け連ねた索麺が布晒しのように風に靡いて

江崎写真館 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

「これから江崎へ行くのだ」とおっしゃいます。  「江崎へ?」  私が目を見張りますと、  「そうだ、お前の写真を撮るのだ。」  私はびっくりして、口が開かれません。ただとぼとぼと附いて行きました。  幾分古びた西洋造の家の入口を入りますと、幸いに外に客はありませんかった。

浅草寺(浅草観音) - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

いつか浅草寺の境内で、敷石の辺から数珠屋が並んでいます。奥の方のは見本でしょうが、拳ほどもある大きな玉を繋いだのが掛けてあり、前の方には幾段かの鐶に大小の数珠が幾つも並べて下げてあります。その辺まで鳩が下りています。  お堂へ上る広い階段は、上り下りの人で押合いの混雑で、その

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