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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

浅草広小路 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれている。強い濃い「光」と「影」との交錯を持っている。……ということは古く存在した料理店「松田」のあとにカフェエ・アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂いではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かに分たれている謂いでも

浅草広小路 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。――両側のその、水々しい、それ/″\の店舗のまえに植わった柳は銀杏の若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。(秋になるとその溝に黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)どこをみてももう紺の香の褪めた暖簾のかげはささ

「浅草とは?」・浅草広小路 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

……浅草で、お前の、最も親愛な、最も馴染のふかいところはどこだときかれれば広小路の近所とこたえる外はない。なぜならそこはわたしの生れ在所である。明治二十二年田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までそこに住みつづけたわたしである。子供の時分みた風色ほど、山であれ河であれ、街であれ

浅草広小路 - 「私のこと」 木村荘八 1949(昭和24)年2月20日

十七歳から二十一迄は、殊に十八の歳からは家が変つて浅草広小路(第十支店いろは。昔曙女史のゐた家)に移つたので、折柄、中学は卒業するし(明治四十三年)、「年頃」ではあり、家兄の見やう見真似もあつて文学美術に心傾けながら、又その頃の文壇影響も小形なりに受けて、「享楽派」が一匹こゝに

吾妻橋 - 「柳営秘録かつえ蔵」 国枝史郎 1926(大正15)年1月5日-15日

浅草の夜は更けていた。馬道二丁目の辻から出て、吾妻橋の方へ行く者があった。子供かと思えば大人に見え、大人かと思えば子供に見える、変に気味の悪い人間であった。  と一人の侍が、吾妻橋の方からやって来た。深編笠を冠っていた。憂いありそうに俯向いていた。まさに二人は擦れ違おうとした

日本堤 - 「柳営秘録かつえ蔵」 国枝史郎 1926(大正15)年1月5日-15日

それは夕立の雨後の月が、傾きかけている深夜であった。新吉原の土手八丁、そこを二人の若い男女が、手を引き合って走っていた。  と、行手から編笠姿、懐手をした侍が、俯向きながら歩いて来た。擦れ違った一刹那、 「待て!」と侍は忍び音に呼んだ。 「ひえッ」と云うと男女の者は、泥濘へペタ

見世物 - 「柳営秘録かつえ蔵」 国枝史郎 1926(大正15)年1月5日-15日

天保元年正月五日、場所は浅草、日は午後、人の出盛る時刻であった。大道手品師の鬼小僧、傴僂で片眼で無類の醜男、一見すると五十歳ぐらい、その実年は二十歳なのであった。 「浅草名物鬼小僧の手品、さあさあ遠慮なく見て行ってくれ。口を開いて見るは大馬鹿者、ゲラゲラ笑うはなお間抜け、渋面

浅草花やしき(花屋敷) - 「私のこと」 木村荘八 1949(昭和24)年2月20日

小学校を田中咄哉州と同窓だつたのは、年経て、つゝ井づゝの同窓が末長く同業でゐるといふことは珍らしい例なることを段々と再認識します。咄哉州はあにさんの金チヤンと共に小さいころから器用で、よく浅草公園の花屋敷にあつたダークのあやつりの水族館をボール箱の中に作つて遊びました。ぼくも幼

浅草六区 - 「私のこと」 木村荘八 1949(昭和24)年2月20日

ぼくは中学を卒業してからは浅草の店で、暫く店で帳場などをやつてゐました。しかし日夜いひ知れない憂悶を抱いてゐました。それは何か自分もやつて見たいからで、家兄の木村荘太がその頃ほひ雑誌新思潮を通して小山内さんや谷崎さん達と文学運動をやつてゐたことは、勿論身近い刺激なりお手本になつ

パンの会 - 「パンの会の回想」 木下杢太郎 1926(大正15)年12月2日

パンの会も此時最高潮に達したのであつた。その後段々と衰へた。 (その時代の空気を示す為めに一寸追記する。十一月廿六日、神田青柳にて古書即売会。北斎絵本東遊、六円五十銭。吉原青楼年中行事、四十五円。駿河舞、五円。西鶴好色一代男、三冊、百円。元禄十六年板(?)松の葉、帙入美本、十四

「浅草とは?」 - 「浅草哀歌」 北原白秋 1916(大正5)年7月

奥山の四時過ぎの日こそさみしけれ。  あたたかにうち黄ばむ写真屋の古きならびは、  半盲目の病児らの日向ぼこをば見るごとく、  掲げたる鈍き写真のうちにくはせ者の女役者の顔のみ白く、  罎ならぶ窻のそば、露台にダアリヤの花ただひとつ赤けれども、  なべてみな色もなし、入口の静か

「浅草とは?」 - 「浅草哀歌」 北原白秋 1916(大正5)年7月

われは思ふ、浅草の青き夜景を、  仲見世の裏に洩るる短夜の葱のむせびを、  公園の便所の瓦斯を、はた、澄めるアルボースの香を。  あはれなる蛇小屋の畸形児を、かつは知れりや、  怪しげの二階より寥しらに顔いだす玉乗の若き女を、  あるはまた曲馬の場に息喘ぎ、うちならぶ馬のつかれ

浅草田圃 - 「蘭学事始」 菊池寛 1921(大正10)年

刑場からの帰途、春泰と良円とは、一足遅れたため、良沢と玄適と淳庵、玄白の四人連であった。四人は同じ感激に浸っていた。それは、玄妙不思議なオランダの医術に対する賛嘆の心であった。  刑場から六、七町の間、皆は黙々として銘々自分自身の感激に浸っていたが、浅草田圃に差しかかると、淳

江戸三座・猿若町 - 「ある恋の話」 菊池寛 1919(大正8)年8月

『今度の守田座はそれはそれは大変な評判ですってね』と、云うじゃありませんか。娘を踊りのお稽古にやってあったのですが、そこで芝居の噂を聞いて来たらしいのです。素顔の染之助を見た時に感じた不愉快さが、段々醒めかかっていた頃ですから、私は芝居だけ見る分には、差支えはあるまいと思って、

馬車鉄道・路面電車 - 「ある恋の話」 菊池寛 1919(大正8)年8月

その日も、私はたった一人、娘も連れずに守田座へ行った帰り少し遅くなったので、あの馬道の通りを、急いで帰って来たのですよ、すると、擦れ違った町娘が『あら染之助が来るよ』と、云うじゃないか。私は、その声を聞くと、もう胸がどきどきして、自分の足が地を踏んでいるのさえ分らない程に、逆上

江戸三座・猿若町 - 「ある恋の話」 菊池寛 1919(大正8)年8月

が、私は型に適っているかどうかは、知らなかったが、染之助の三浦之介は、如何にも傷ついた若い勇士が、可愛い妻と、君への義理との板ばさみになっている、苦しい胸の中を、マザマザと舞台に現しているようで、遠い昔の勇士が私の兄か何かのように懐しく思われたのでした。それ以来、私は毎日のよう

浅草寺(浅草観音) - 「ある恋の話」 菊池寛 1919(大正8)年8月

私は、祖母を人格的にも好きだった上に、江戸時代、殊に文化文政以後の頽廃し始めた江戸文明の研究が、大好きで、その時代を背景として、いい歴史小説を書こうと思っていた私は、その時代を眼で見身体で暮して来た祖母の口から、その時代の人情や風俗や、色々な階級の、色々な生活の話を聞くことも、

江戸三座・猿若町 - 「ある恋の話」 菊池寛 1919(大正8)年8月

今までは世間からなるべく離れよう離れようとした私が、反対に世間が何となく懐しく思われて来たのです。その頃です。私はある男を――この頃の若い人達の言葉で云えば――恋するようになったのです。笑っちゃいけませんよ。お祖母さんは懺悔の積りで話しているのですから。その男と云うのは役者なの

浅草寺(浅草観音) - 「鶏鳴と神楽と」 折口信夫 1920(大正9)年1月

今日でも、まだ到る処の宮々に、放ち飼ひの鶏を見かける。ときをつくらせたり、青葉の杉の幹立の間に隠見する姿を、見栄さうと言つた考へから飼うて置くのでない事は、言ふ迄もない。あれは実は、あゝして生けて置いて、いつ何時でも、神の御意の儘に調理してさし上げませう、とお目にかけて置く牲料

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