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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私は映画館街の暗い裏手を歩いていた。そして明るい公園劇場の前に出ると、 特別提供  熊鍋  ○○動物園払下げの熊  デカデカと貼り出したそんな奇怪なビラが私の眼に映った。「動物園払下げ?」これはうれしいとビラに惹かれて入る客もあるのだろうが、――あるから、そんなビラを誇示し

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私はK劇場を出ると、 「雅子に会いたいな。でもひとりでは楽屋へ行けない。やっぱり朝野君がいてくれないと……」  そんなことを心の中でつぶやくと、朝野の顔がぐッと私に迫った。私を憎々しく睨んでいる顔、――つづいて美佐子の「なんで浅草をブラブラしてんの」と言った時の顔が……。

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私は雅子の方にそッと眼をやった。雅子はサーちゃんと並んで、脚を揃えて立っているのだが、そのみずみずしく、つややかな、ほんとうに汚れのない感じの、ふっくらとした脚を(くどい文章を読者よ許されよ。未熟な私は、その脚が豊かにたたえている魅力的要素の数々をなんとしたら伝えられるだろうと

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

気がつくと、オーケストラが鳴り響き、幕がするするとあがった。  上手と下手の両方からダンシング・チームがさっと舞台へ駆け出て来た。踊り子たちは皆んな同じ衣装に同じ踊り、そして同じような化粧であり同じような身体つきだから、かたまって出てくると、ちょっと誰が誰だかわからないくらい紛

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私は、――フワフワと漂うばかりであったのだが、何かに、やっとぶつかった、縋れた、その何かはまだよくわからない、真に縋るべき何かであるか、縋って果して救われる何かであるか、それはわからないまでも、それに縋って進んで行けば、そうだ、私は「頭の上に帽子をのせる」ことができるだろうと、

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

場面は、――綴り方の女生徒のおとッつぁんのブリキ屋の職人が、大晦日だというのに親方から金が払って貰えず、一文無しで正月を迎えねばならない。人のいいおとッつぁんは家へ帰って家族と顔を合わせると、苦痛に狂ったようになって暴れ回る。そうした場面になったが、ドタバタ騒ぎの場面にひきかえ

浅草オペラ・レビュー・活動写真・連鎖劇 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

私はK劇場の客席の一番うしろの暗がりのなかに立っていた。  映画はもうすぐ終るのである。K劇場は映画とショウを掛けていて、六区のレヴィウ関係の人たちは、映画を添え物だと見ているが、映画関係の人たちは、映画がトリでショウは映画見物の客へのサービスだと見ている。(それは、純文学出の

浅草六区 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

そのうち、大屋五郎が玲ちゃんに別れ話を持ち出したんです。こう言ったそうです。鮎子さんには、とても金持の、人のいいパトロンがついていて、そのパトロンは鮎子さんがちゃんとして結婚をして身を固める時は、まとまった金をやると、そう言っている。それで鮎子さんは、パトロンと別れて俺と結婚し

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

浅草から遠ざかっていること何日くらいであったろうか。私のうちにようやく浅草に対する一種の郷愁的感情が鬱積してきた。またぞろ浅草へ行きたくなった。それは初めは、なんとなく浅草へ行きたいなアといった漠然とした想いだったが、それがやがて、浅草へ行ってああもしたい、こうもしたいといった

「浅草とは?」 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

ああ私はどんなに熱烈な、それこそバカみたいな想いを小柳雅子に寄せていたことか。その小柳雅子にとうとう会うことができた、その結果がこんなとは、――こんな切ない悲しみ、こんな落莫とした疲れとは、――こりゃ一体どういうのだ。折からの出盛りの映画館街の人波のなかで、私は腑抜けみたいな顔を

矢場・弓場 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「昔の文士は浅草の矢場でなかなか遊んだものらしいですな」 と、言葉をつづけた。 「美妙斎などは矢場の女と問題をおこしたり、――その美妙斎に矢場遊びの手ほどきをしたのは、なんでも幸田露伴だという話だが、露伴というのは、当時矢場の遊びやそのあとからできたいわゆる銘酒屋をひやかすそのう

矢場・弓場 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「最近、公園のなかに、あちこち、弓場ができたですな」 「――ほほう」 「ほほうッて、倉橋君は気がつかんですか。――駄目ですな」  雅子は釜の蓋を、おっかなびっくりのように、そっとあけて、なかを覗き込んでいたが、朝野の鋭い語気にパタンと蓋をしめた。 「早くおあがりよ。(そして私にも

伝法院 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「倉橋君」 と朝野が、かすれた声で遮った。「倉橋君は、伝法院の庭を知っていますか」 突拍子もないことを言う。だが、朝野が突拍子もなくサーちゃんの話を遮った気持は、私は何かわかる気がした。 「伝法院の庭というと……」 「庭園ですよ」 「庭園というと……」 「区役所の前の」...

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

朝――「稽古の晩は、帰るの、泊るの」  サ――「楽屋泊りだわ。あたしンとこなんかは、一時二時になっても歩いて帰れるけど」  朝――「寺島じゃ歩けんかな」(そして私の方を向いて)「さっき行った楽屋へね、みんな、泊っているんですがね。――初日と二日目だけ稽古がないだけで、三日目から

浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

――地下鉄横町に「ボン・ジュール」という、浅草には珍しい銀座風の感じの喫茶店がある。  銀座風の、――そういえば、銀座風の喫茶店はいわゆる浅草の内部には入り込めないでその外側の、いわばその皮膚のような地下鉄横町、国際通りといったところに、あたかも皮癬のように、はびこっている。

浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

小柳雅子は、こっちに膝を向けてキチンと坐り直し、その裸の膝が出るのをスカートをしきりとひっぱって防ぎながら、何か辱しめられたような顔をしていた。身体をすくめるようにして、うなだれたまま、別に何も言わない。  まだ、まるで子供の身体だった。舞台で見ると、可憐な脆美な姿態とはいえ

浅草六区・国際劇場・松竹歌劇団 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

国際通りへ出ると、折から国際劇場の松竹少女歌劇の昼の部が撥ねたところらしく、そのお客らしい華やかな少女の群が舗道をいっぱいに埋めて、田原町の方へと流れて行く。浅草的な雰囲気とちがったものをあざやかに私たちに感じさせつつ、その絢爛たる流れは、まっすぐ、田原町の電車、バス、地下鉄の

浅草六区 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

国際通り(国際劇場のある通り)へ出る角に、自転車の預り所があり、朝野は言った。 「――預けて行ったきり、そのまま取りにこないのが、よくあるそうですな。小僧かなんか、なんでしょうな。使いに出たすきに自転車を預けて、ちょいと活動でも見るつもりが、ついうかうかと遊んでしまって、もう主

浅草六区・寄席 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「奴さんは立派な芸人ですからね。下らない素人の芸人が跋扈している現在の舞台がいやなんですよ。素人の漫才が偉そうにしているのにムカついているんですな。――いや、奴さんの気持はわかる」  朝野はギョロリと私の顔を睨んで、――(この素人作家め! と、それは言っているようだった。)

「浅草とは?」・浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

――泡盛屋はスタンドの前に五六人並ぶといっぱいになる狭い店で、肥った婆さんがひとりでやっていた。娘を映画俳優に嫁がせていて、この婿は今はまるで不遇だが、もとはちょっと売り出しかけたことがあり、そんな関係からか、高田稔などから贈られた、でも今はすっかり色の褪せた暖簾がかかっていた

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