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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

天忠は、公園から離れた、象潟町に存在する毛いろのかはつたうちである。向島の其角堂――このごろ老鼠堂になつた楓一宗匠の好みを帯した喜加久揚といふものをうりものにしてゐる。落語家、吉原の幇間、及び、その落語家や幇間と友達附合をすることを喜ぶ客たち、さうした手合の間に評判されるうちで

浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

天勇は仲見世の裏にある古いうちである。天麩羅の外に小料理もする、気の張らない、臆劫なところのない、広小路の天芳とゝもにあくまで浅草むき、田舎の人向に出来上つてゐるうちである。広小路ゐまはり、公園ゐまはりにある、さういふうちの、代表的のものである。  大黒屋は二三年まへまで蕎麦

浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

伊豆栄は、吾妻橋の際のもとの伊豆熊のあとである、今でも、ときに伊豆熊の名によつて呼ばれる。それほど売込んだ伊豆熊といふ名である。が、これは、格別、いさくさのないごくあたりまへの、入れごみ鰻屋である。  わたくしの子供の時分、田原町の、いま川崎銀行のある角に、鰻をさきながら焼い

浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

前川といふと、われ/\は子供の時分の印象で、今でも、落ちついた、おつとりした、古風な鰻屋だといふことが感じられる。だが、このごろでは、以前ほどの気魄はすでに持合はさないやうである。時代は、浅草のうなぎやとして、こゝよりも田原町のやつこのはうを多くみとめさせるやうになつた。――無

浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

金田は、同じ鳥屋ながら、料理は拵へず、鍋で喰はせるばかりのうちである。先代の主人は黙阿弥と親交のあつた人だつたさうだが、さういふ人の経営したところだけ、間どりもよし、掃除もつねに行届き、女中も十四五から十七八どまりの、始終襷をかけた、愛想のいゝ、小気のきいたものばかりを揃へてあ

浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

これらのうち、草津、一直、松島、大増、新玉、及び、竹松、須賀野、みまき等は、芸妓の顔をみるため、乃至、芸妓とゝもに莫迦騒ぎをするために存在してゐるうちである。宴会でもないかぎり、われわれには一向用のないところである。  往年、五軒茶屋の名によつて呼ばれたうち、草津、一直、松島

浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

料理屋に、草津、一直、松島、大増、岡田、新玉、宇治の里がある。  鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。  鰻屋に、やつこ、前川、伊豆栄がある。  天麩羅屋に、中清、天勇、天芳、大黒屋、天忠がある。  牛屋に、米久、松喜、ちんや、常盤、今半、平野がある。  鮨屋に、み

屋台・夜店 - 「夜店ばなし」 久保田万太郎 1931(昭和6)年7月

夜店ほどよく季節を知つてゐるものはない。ことに、この、夏に於てさうである。……といつたら、すぐに、古本、古道具、日用品のいろ/\、四季いつのときでもかはることのないそれらの店の、律義に、透きなく竝んだあひだに交つての金魚屋の荷をあなたは感じるだらう。虫屋の市松しやうじをあなたは

「浅草とは?」・屋台・夜店 - 「夜店ばなし」 久保田万太郎 1931(昭和6)年7月

いまなら、さしづめ、傾いた月の、明易く曳いた横ぐもの、ふか/″\とこめた梅雨どきの蒼い靄の、さうしたいろ/\の触目のあはれは、夜店の、夜あかしの、さうしたいろ/\の喰物やの屋台の外にこれをみ出して、一層そこに強められ、あるひはふかめられるだらう。……そのいのちに触れるからである

浅草の食・屋台・夜店 - 「夜店ばなし」 久保田万太郎 1931(昭和6)年7月

すしや、天麩羅や、おでんや、とむかしのそこのすさまじいけしきをそのまゝ、いまでも浅草の夜店は食物やで埋つてゐる。そしていまは、その鮨や、天麩羅や、おでんやの中に、支那蕎麦が入り、一品洋食が交り、やきとりが割込んでゐる。……といつたら、あるひは人は、やきとりはむかしからある、さう

浅草の食 - 「夜店ばなし」 久保田万太郎 1931(昭和6)年7月

その懐しいおもひでの、さうした屋台のぬしのなかゝら、何間々口かの、大ぜいの奉公人をつかひ、いまを時めく公園界隈でのすしやに経上つたものもあれば、いまなほ屋台の、色の褪めたのれんの中に、一人さびしく、むかしながらの長い箸をもちつゞけてゐる天麩羅やもある。……わからないのは人の運の

「浅草とは?」・浅草広小路・屋台・夜店 - 「夜店ばなし」 久保田万太郎 1931(昭和6)年7月

――あさアり……からアさり……  で、どこからともなく聞えて来る夕とゞろきのなかのその美音……  ――大丈夫だ、この塩梅なら……  ――もつよ、まだ、この天気は……  屋台のぬしは、それ/″\の車を押しながら、をり/\さうしたことを言葉ずくなにいひ合つた。  蝙蝠。……夕あかり

浅草の食・屋台・夜店 - 「夜店ばなし」 久保田万太郎 1931(昭和6)年7月

……大風呂横町と源水横町との間の、不思議とその一つにだけ名のなかつた横町の角に荷を下ろした飴屋のちやんぎり。……そのちやんぎりの一トしきりの音の止んだとき、両側の、どこの屋根の上にも、看板のかげにも、勿論広い往来のどこの部分にも、そのときすでに日のいろは消えてゐた。そして両側の

「浅草とは?」・浅草の食・浅草六区 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

最後までふみとどまった「大盛館」の江川の玉乗、「清遊館」の浪花踊り、「野見」の撃剣……それらもついにすがたを消したあとはみたり聞いたりのうえでの「古い浅草」はどこにももう見出せなくなった。(公園のいまの活動写真街に立って十年まえ二十年まえの「電気館」だの「珍世界」だの「加藤鬼月

浅草の食 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

みたり聞いたりするものの場合ばかりにとどまらない、飲んだり食ったりの場合にして矢っ張そうである。わたしをしてかぞえしめよ。「下総屋」と「舟和」とはすでにこれをいった。「すし清」である。「大黒屋」である。「三角」である。「野口バア」である。鰻屋の「つるや」である。支那料理の「来々

浅草六区 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

『歌沢新内の生粋を解せずして、薩摩琵琶浪花節の露骨を喜び、旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を賞す』と「浅草繁盛記」の著者がいくらそういっても、いまのその「新しい浅草」の帰趨するところはけだしそれ以上である。薩摩琵琶浪花節よりもっと「露骨」な安来節、鴨緑江節が勢力をえている。そ

今戸橋・山谷掘・本龍院(待乳山聖天) - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

わたしたちは天狗坂を下りて今戸橋をわたるとしよう。馬鹿広い幅の、青銅いろの欄干をもったその橋のうえをそういってもとき/″\しか人は通らない。白い服を着た巡査がただ退屈そうに立っている。どうみても東海道は戸塚あたりの安気な医者の住居位にしかみえない沢村宗十郎君の文化住宅(窓にすだ

本龍院(待乳山聖天) - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

読者よ、わずかな間でいい、わたしと一緒に待乳山へ上っていただきたい。  そこに、まずわたしたちは、かつてのあの「額堂」のかげの失われたのを淋しく見出すであろう。つぎに、わたしたちは、本堂のうしろの、銀杏だの、椎だの、槙だののひよわい若木のむれにまじって、ありし日の大きな木の、劫

「浅草とは?」 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、いままでわたしのいって来たそれらのいいかたは、畢竟この芥川氏の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。  ――改めてわたしはいうだろう、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場…

浅草寺(浅草観音)・宝蔵門(仁王門) - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

岩畳な古い門に下ったガラスばりの六角灯籠。――その下をくぐって一ト足そのなかへ入ったとき、誰しもそこを「仲見世」の一部とたやすくそう自分にいえるものはないだろう。黒い大きな屋根、おなじく黒い雨樋、その雨樋の落ちて来るのをうけた天水桶。――それに対して「成田山」だの「不動明王」だ

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